もう30年も前の話だが、東京のたしか江東区だったと思う、小学校の先生が風の音を録音して子供たちに聞かせた。驚くなかれ、それが風の音だと気づいた子は皆無に近かったという。
その小学校は都内でもとびきり騒音のひどい地域にあるらしかった。だから、そこに生まれ育った子供たちの聴感覚が麻痺しているとしてもおかしくはない。ということで、これはごく限られた地域の、ごく特殊な事例だと判断することもできないことはない。
しかしである、そう言うわれわれだって、少なくとも現代の都会に住む者は皆似たりよったりなのではないか。われわれは耳のデリカシーを守ろうとすれば正常には暮らしていけないような環境に押し込まれている。
ある時代に、どんな音楽が隆盛を誇るか。それは、その時代に生きる人たちをとり囲む環境と抜きさしならない関係をもっていると言っていいだろう。
現代を特徴づける音楽は、テレビから流れ来るJポップである。曲の判別ももどかしい機械的なリズム、わめくように発射される歌、工夫や独創性など存在しないに等しいステロタイプ化した言葉。日常生活を埋め尽くす騒音の中からその上に突き出ようとしたあげくの貧しい表現がそこにある。
同じ愚を避けるには、どうするか。とりあえず可能なのは、自分なりにシェルターをつくってもぐりこむことだろう。そのシェルターはコンサート・ホールであるかもしれないし、ポータブル機器がつくる密室であるかもしれない。
CDなどで聴くには不向きな音楽
たった一度だが、武満徹の「ムナーリ・バイ・ムナーリ」という曲をコンサートで聴いたことがある。数多い打楽器、というよりは叩けば音の出る物体を並べて演奏される音楽で、ステージ狭しと並べられたそれらの道具から出されるのは意外にもごくごく小さな音だった。曲想の要にあるのは「共鳴」であり、ある物から出た音が他の物に響き合い、デリケートそのもののエコーを生んでいく。
聴き終えたとき、ああ、これは耳の鍛錬の儀式なのだなと思った。耳の鍛錬とは、でかい音に耐えられるようにすることではない。小さな小さな響きを聴き分けられる能力を回復することだ。
残念ながら、この曲はCDなどで聴くにふさわしいものではないし、録音されたことがあるかどうかも知らない。しかし、武満徹の曲には「デリケートな音」に対する憧憬が通奏音として常に内在すると感じられる。
例えば、20歳のときに書かれた作品のスケッチから再構成されたピアノ曲「リタニ」である。僕が愛聴するのは小賀野久美による録音(フィリップスPHCP-145)だが、とぎれとぎれに近い音が聴き手の想像力を刺激し、そこから静かな美しい歌がつむぎ出される。
われわれは音楽の失われた過去と失われようとしている未来をそこに聴き取るだろう。


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