2026年6月30日火曜日

町を歩けば、思い出がいくつも甦る(最終回)

 


 あれは1999年の11月だったか、初対面の鈴木常吉と宮の坂近辺を歩いたとき、彼が言った。「特定の人の記憶と結びついた町がいくつかあるんですよ。例えば、国立なら山口瞳。歩けば、きまってその人のことが思い浮かぶんです。ここ宮の坂〜豪徳寺は、これからは松平(維秋)さんを思い出す町になりそう」

 松平維秋が亡くなって、彼が最晩年に通ったスナックを一緒に訪ねた夜のことだった。


 いまになってみれば、僕とて同じである。東京で暮らしたのは富山石動から一家で墨田区業平に移り住んだ1956年以降の67年間だが、誰か特定の人の記憶と結びついている場所は枚挙に暇がない。地下鉄神保町駅から白山通りを水道橋方向に少し進んだ神保町1丁目あたりならこの地でジャズ喫茶「響」を営んでいた大木俊之助さん、千代田区永田町2丁目日枝神社あたりなら岡田隆彦さん、京王井の頭線池ノ上〜下北沢あたりなら松平維秋さんといった塩梅。そうして、渋谷東部宮益坂へ行けば脳裡に浮かぶのが、菅野圀彦さんだ。


 菅野圀彦。早川書房の元編集部長であり『ミステリ・マガジン』の元編集長。最初の出会いは、稲葉明雄さんによる紹介を得て早川書房編集部に出向いた1978〜79年のある日だと思う。ただし、すぐに仕事を共にしたわけではなかった。いや、というより直接仕事を共にすることはほとんどなかった。

 それなのに親しくなったのは、気質が合ったからである。ある年の早川書房恒例の忘年会を思い出す。立ち飲みをしていた僕に菅野さんが近づいてきて言った。「女の訳者ども、訳は下手くそなくせに偉そうにし過ぎだと思わない?」僕は笑った。

 それだけのことだが、なぜか記憶に深く刻まれている1シーンだ。


共に企画したフレンチ・ポルノの電子書籍

 菅野さんと最後にお目にかかったのは、宮益坂に入ってすぐの左手、「珈琲茶館集&ガトーナチュレールシュウ渋谷宮益坂店」ではなかったかと思う。時は2005年か2006年の秋。年がはっきりしないのに秋だと言えるのは、「枯葉」か何かシャンソンの秋の歌が話題にのぼったからだ。ただし、話の本題は違う。シャンソンの国フランスのポルノ小説についてだった。


 菅野さんはすでに早川書房から身を引かれていて、フリーの立場で編集者活動をされていた。出版の世界では電子書籍が市場を広げ始めていて、多少ではあるが電子書籍の世界に詳しい僕が「一緒に電子出版をやりませんか」と声をかけた。それに「じゃあフレンチ・ポルノだ」と菅野さんが応答し、打ち合わせとなったのだった。

 具体的な計画などまだ白紙状態の打ち合わせで、「フレンチ・ポルノの版権料など僕が調べて計画を立てるよ」という菅野さんの一言でお開きとなった。それから店を出て、通りの向かい側の三省堂書店へ行き、ポルノ系の本が並ぶ棚を眺めたりした。そして別れた。


 いまにして思えばその後菅野さんは体調を崩されたのだろう、音信は途絶えがちになり、やがて2007年11月16日かその翌日、かつて早川書房編集部で菅野さんの部下だった長戸東三(雨沢泰)さんからメールで知らせがあった。「菅野さんが亡くなった。肺癌を病まれての最期だった」

 そのときの茫然自失がいまも記憶に鮮やかだ。(了)


2026年6月27日土曜日

石田善彦さんと「待っている」

 


 稲葉明雄さんにまつわる思い出の続き。

 稲葉さんから早川書房に紹介されてすぐ『ミステリマガジン』の新刊書評を担当することになった。早川刊の本については町に出る前に読むことができるので、まことに嬉しい仕事だった。

 書評の仕事を始めて数か月後だったろうか、今度は座談会に呼ばれた。そこで同席した一人が、石田善彦さんだった。


 座談会を終えて帰り、一緒に電車に乗り込むと、ミステリの翻訳の話になった。その中でこれが最高という評価になったのが、稲葉訳のレイモンド・チャンドラー「待っている」(創元推理文庫『チャンドラー傑作集〈3〉』所収)だった。

 石田さんは読書会なるものを主催されていて、後日、「『待っている』をテーマに君が講師をやってくれないか」との申し出を受けたが、これは遠慮した記憶がある。いずれにしても、「待っている」の稲葉訳についての評価は互いに高かった。

 石田さんとはその後は会う機会はなかったのだが、あのとき講師を務めてより親しくなっていればよかったなあという後悔が、あれから50年近く経ったいまもある。


音楽ジャーナリズム→ミステリの翻訳という道筋

 石田善彦さんはもともとは音楽誌『新譜ジャーナル』でライターとして活動していた人で、音楽ジャーナリズム→ミステリの翻訳という道筋は、僕と共通している。互いになんとなくウマが合ったのは、そのせいもあったか。


 もっとも翻訳者しての石田さんは、僕などとは比較にならない大きな仕事をされた人である。石田さんが手がけたミステリ作家は多数にのぼるが、なかで代表というべきものが『A型の女』に始まる一連のマイクル・Z・リューイン作品だろう。

 僕個人の読書体験の上でも、『A型の女』は海外ミステリの世界に関するイメージを一新するような刺激的な作品だった。この作品はいわゆる「ネオ・ハードボイルド」ジャンルを形成する1作として知られているが、それ以上に本格ハードボイルド小説の文学性をひときわ高めた作品という印象が強い。そして、歴史的にもちょっとしたトピックとなるこの1作の訳者が石田さんなのだ。


 石田さんとは1990年代以降疎遠になったが、いつ頃だったか、北海道へ移住されたと聞いた。その地でも海外ミステリをテーマにしたサークル活動をされているとも。

 2006年10月23日の石田さんの逝去を知ったのも、そのサークルの方が公開しているブログでだった。おそらくはこれが翻訳家としての最後の仕事だったろう、リューインの『眼を開く』がハヤカワ・ミステリの1冊として出た数週間後のことだった。


2026年6月26日金曜日

川崎貴嗣さんの遺言

 



 図書館に向かって歩くと、向こうから老人が一人、ややおぼつかない足取りで近づいてくる。すれちがうときに顔を見ると、眼力の強い人だった。いやおうなく川崎貴嗣さんを思い出した。


 川崎さんに最後に会ったのは、2013年2月上旬。日本橋某社のウェブサイトの企画会議でのことだった。体調が悪いのはわかっていたが、僕が無理言って出てもらった。ろくでもない意見を思いつきで言うやつに一言ぴしゃっと言ってもらいたかったからだ。

 会議は盛り上がらず、誰もたいした発言はしなかった。やれやれと思いながら、川崎さんとルノワールへ行った。


 亡くなった北原亞以子の話をひとしきりしたあと、突然、川崎さんが言った。

「読んだかね、今年の芥川賞受賞作。うん、黒田夏子だ」

「いいえ、まだ」

「そう。実は、僕も読んだことは読んだんだが、読み切れなかった。作風が独特でね、最後までついていけなかった」

「へえ。じゃ、今度読んでみましょう」


 話はここでとぎれ、場所を蕎麦と酒の店、稲田屋へと移動。ほどなくして、川崎さんがまた言った。

「でもね、今度の芥川賞からひとつだけ、そこからメッセージをもらったよ。70歳でも賞がとれるんだ、と」


 ここからは、「凡庸な一生の末尾にどんな句読点が打てるか」という話になった。川崎さんは「芥川賞をとるぞ」という。「きみはどうだ?」と訊かれたが、僕は答えに窮した。

 川崎貴嗣さん78歳の死はその5か月後。その間、とうとう会う機会はなかった。いま振り返ると、あれは川崎さんの遺言だったのにちがいない。「おれも死力を尽くしてやるから、おまえも頑張れよ」と。


2026年6月24日水曜日

稲葉明雄さんと出会って

 


 ウィリアム・アイリッシュ『幻の女』を再読する。名訳として名高い稲葉明雄訳。広く知られているように、小説はきわめて印象的な書き出しから始まる。

  夜は若く、彼も若かった。が、夜の空気は甘いのに、彼の気分は苦かった。

 原文はこうだ。

  The night was young, and so was he. But the night was sweet, and he was sour.

 倒置法が効果的に用いられた名文。最近になって知ったことだが、作家は歌曲「恋人よ我に帰れ(Lover, Come Back to Me)」の歌詞をヒントに発想したものらしい。歌い出しはこうだ。

  The sky was blue,

  And high above,

  The moon was new,

  And so was love.

 歌と散文との幸福な出会い、とでもいえばいいか。


稲葉明雄さんとの幸福な出会い

 出会いと言えば、僕にとって稲葉明雄さんとの出会いがまさしく幸福な出会いだった。

 キーコーヒーのPR誌『珈琲ふぁん』を編集していた頃だからたぶん1978〜79年のある日、その『珈琲ふぁん』に掲載すべく依頼した原稿の受け取りでお目にかかったのだった。EメールどころかFAXもこの世にない当時、原稿は執筆者に直接会って受け取るのが当たり前だった。稲葉さんとの出会いもそれ。ところは、西武新宿線久米川駅前の喫茶店。ファミリーレストランのような広い店だった記憶がある。

 原稿の受け取りと確認はものの10分で済んだが、のちになって「雑談王の稲葉」と呼ばれていることを知ることになる稲葉さんとの会話はそれから3時間ほども続いた。話の中身は主に海外ミステリと翻訳。そうして、そのときに約束されたわけではなかったが、その数日後、僕は稲葉さんが早川書房の編集部に僕をライターとして推薦されたことを知ることとなる。以後1985年頃まで続くことになるミステリ書評家・翻訳者としての僕の仕事は、そのときに始まった。

 稲葉さんは「遅筆」で知られた人である。主たるお仕事である翻訳もそうだが、1975年に晶文社から出たレイモンド・チャンドラー『マーロウ最後の事件』にいたっては、訳者である稲葉さんのあとがきが遅れに遅れたために発行が半年延期されたという逸話がある。いま振り返ると、あれほど長時間よどみなく会話できる人がどうしてそこまで遅筆だったのかと不思議でならない。


 稲葉さんは1999年3月17日、東村山市内のご自宅で脳出血のために倒れ、逝去された。まだ65歳だった。出会いはその20年ほど前の一度きりで終わったが、僕にとっては生涯忘れがたい人である。

2026年6月22日月曜日

デパートの食堂が恋しい

 


 社会の下層に位置する庶民にとって、デパートの食堂は、かつては晴れがましい場所だったと思う。何しろたまの外出、たまの外食。蕎麦屋やラーメン屋ではわが町と変わらない。ここは、やはりデパートの食堂でなくてはならなかった。いまでいえば、最近何かと騒がしいホテルのレストランのようなものか。

 寺田寅彦『柿の種』にも、デパートの食堂が出てくる。上野松坂屋7階の食堂。平日らしく、老母と母子の3人の家族の様子が描かれている。老母は幕の内、母子はカツレツを食べる。

 平凡だがほほえましい光景が描かれていて、読むと何やらほっとするものがある。そうして、自分のデパートの食堂体験をそこに重ね合わせる。


わがデパ食体験

 デパートの食堂に入ったことは、実はこれまでに3〜4回しかない。79年生きてきてこの回数というのは、相当に少数だ。僕が社会人となって給料をもらうようになったとき、デパートの食堂はもう庶民の晴れがましい席ではなくなっていた。

 そんな数回のうち、いまも覚えているのは、小学校5年か6年のときに入った浅草・松屋の食堂だ。わが家は父親がいなくて、祖父が父親代わりだったが、その祖父は外食嫌い。だから、松屋の食堂に入るのはとんでもなく珍しいことだった。しかも、子供の僕には初体験。


 お子様ランチを注文してもらった。皿の真ん中にピラフ(僕たちは「焼きめし」と呼んでいたが)があり、小さな国旗が立っていた。そのまわりにはカツレツか何かおかずがあったはずだが、覚えていない。国旗がどこのものだったのかも覚えていない。

 ただ、広いガラスの窓越しにさんさんと陽光が射し込んでいたのは、いまも記憶にある。下町のモルタルアパートの2階で暮らす僕にとって、それはかけがえのない経験だった。


 消えつつあるといわれるデパートの食堂。いま、デパートの食堂を利用するのは、どんな人々だろうか。15年ほど前にある人と浅草・松屋の食堂で食事する約束をしたが、あの3・11の大震災でつぶれた。

 行って検分したいが、もう遠出は無理となった。

2026年6月20日土曜日

ケストナーの「人生処方詩集」

 


 「人生処方詩集」と題された詩集がいくつかある。古いところでは寺山修司にこの題の詩集があるし、まど・みちおにもある。しかし、最も広く知られているのは、ケストナーのそれだろう。


 「人生処方詩集」とは「生きていて何か問題にぶつかり、困ったときに読む詩」を集めたものと言っていいが、もともと単なる個人的感情や意見の公開は厳しく抑えてきた人だけに、「読む薬」という面が強い。「抒情的家庭薬局」だと、本人も書いている。


 目次はなくて巻頭にインデックスが入っているが、「用法」と題されたこれがまた一般的な詩集とは大いに異なっている。例えば、

  年齢が悲しくなったら

  結婚が破綻したら

  秋になったら

といったぐあいに、悩めることもしくはそれに類することから「薬となる詩」がたちどころに検索できるのだ。


 最初から2つめにある詩「男声のためのホテルでの独唱」。

  これはおれの部屋であり しかもおれの部屋でない

  そこにはベッドが二つ 手をつないでいる

  ベッドは二つでも 一つしか要らない

  なぜって おれはまたひとりぼっちになったんだから」


 ホテルのツインの一室での男の独白。男の年齢はわからない。だが、あまり若くはなさそうな気がする。そうして、連から連へと進むと、男は愛する女性を他の男に奪われたのだとわかる。だから、こう言う。

  しかし女があやまちを犯すためには

  はたから邪魔をしてはならないのだ」


 最後に処方が来る。

  世界はひろい 君はその中で迷子になる

  ただ願わくは あまり迷子になり過ぎないように……

  おれは しかし 今夜はよっぱらって

  君が幸福になるように いささか祈ろう」


2026年6月19日金曜日

パイプの煙が漂う

 


 花見川団地商店街は、中央に木製のテーブルセットをいくつも並べてある。午後、そこを通ると、煙が漂ってきた。パイプ煙草だ。独特の香りがして、これは断定できる。オランダの“アンホーラ”だ。

 アンホーラは、数年前に亡くなった田川律さんが愛煙していたと思うが、僕は苦手だった。パイプを楽しんだのは3年ほどと短いが、その間はずっと“スウィート・ダブリン”だった。スウィート・ダブリンはアンホーラよりほんの少し高い。


 パイプ煙草はいいものだ。僕が毎日パイプに明け暮れていたのは20代後半だが、味わいの豊かさは驚嘆ものだった。人前ではさすがに恥ずかしいので(若造には似合わない)、もっぱら家でだったが、パイプを4〜5本集め、机にパイプ・スタンドを置いて並べ、かわるがわる使っていた。ほとんどはビリヤード型だったが、エリック・ドルフィー『イン・ヨーロッパ2』のジャケット写真に惹かれて、ベント型も1本持っていた。銀座の菊水で買ったもので、持っている中ではこれが一番高価だった。7,000〜8,000円ほどしたのではなかったか。

 もっとも、高級品が並ぶ菊水では、最も低い価格ゾーンに入るものでもあった。1970年代半ばの当時、10万円を超える高級品も珍しくなかった。通常の英国型ではなくデンマーク型のパイプとなると、15〜30万円もした。


三野村泰一さんからいただいたパイプ


 僕の机の隅には、ベント型のパイプが1本転がっている。27年前にやめた煙草を吸い始めたわけではない。いただきものだ。誰から? かつて高円寺でジャズ喫茶「サンジェルマン」を営んでいた三野村泰一さんからいただいた。どういう経緯でいただいたのかはもう覚えていないが、煙草の煙が充満していた昔のジャズ喫茶の思い出話か何かがきっかけだったのではないか。


 手元に在りし日の「サンジェルマン」店内を写した写真が1葉残っている。カウンターの隅に三野村さんの姿がぼんやり写っていて、その周りの客は2人。2人とも紙巻きをくゆらしている。これがジャズ喫茶の日常だった。


 「サンジェルマン」の開店は1966年。これについては、このブログの1月の項に書いた。当時の都内には数多くのジャズ喫茶があったが、はじめて訪ねたその日からいちばんお気に入りの店となった。スキンヘッドでユル・ブリンナー似、一見おっかなそうな三野村さんともたちまち打ち解けた。

 僕は1971年を境にジャズとは縁遠くなり、当然ながら「サンジェルマン」へ足を向けることもなくなった。「サンジェルマン」自体も、80年代の中頃に店じまいした。風の便りにそのことを知ったのは、どんな経緯でだったか。

 そうして縁もゆかりもなくなった三野村さんだったが、2006年、ジャズ・レコードのムックを企画編集したとき、偶然がいくつか重なって再会した。

 おつきあいが戻り、その後は半年に一度ほどのペースでお目にかかり、ご自宅で昔懐かしいジャズ・アルバムを楽しんだりしたが、それも長続きはしなかった。


 長年甲状腺の癌で苦しまれた三野村さんが河を渡ったのは、2020年5月だったか。そのときから、机の上のパイプは形見の品となった。

2026年6月18日木曜日

「オイヤン」で思い出す町野修三さん

 


 道を歩いていたら、すぐ前を行く二人が「オイヤンがどうしたこうした」と話していた。関西の人だね。町野修三さんを思い出した。


 青空文庫掲載のプロフィール:

  作家名: 町野 修三

  作家名読み: まちの しゅうぞう

  ローマ字表記: Machino, Shuzo

  生年: 1943-11-18

  没年: 2002-12-05

  人物について: 1943年大阪生まれ。歌人。2002年12月逝去。


 大阪生まれの大阪育ちだから当たり前だが、町野修三さんはこの種の関西独特の言葉の響きがお気に入りで、短歌にもしばしば用いた。オイヤンを使った歌もいくつかある。以下は町野さん晩年の歌。


  着るものもユニクロ風でちょっと見はオレもオイヤンも普通のオジン

  週二度の風呂を自慢するオイヤンのテントの中はぐちゃぐちゃである

  踏み倒す度胸ひとつも無きゆえと身につまされるオイヤンたちは

  オイヤンのテントの前を健やかな脚美しいアスリートたち


 家業の染色業がたちゆかなくなって無為の生活に入った晩年の町野さんは、ホームレスのオイヤンとつきあっていたらしい。


青空文庫で出会った

 町野さんとは青空文庫で出会った。ご自身の著書『大伴家持論Ⅰ』(平成4年、短歌新聞社)を文庫に登録したいという連絡が文庫に入り、編集制作は僕が引き受けることとなって連絡を取り合うようになった。


 大伴家持には特に関心のない僕ではあったが、時には電話で直接よもやま話を交わすようになり、親しくなった。『大伴家持論Ⅰ』はなかなかの大著で、しかも和歌を扱う本であるからいわゆるレ点が頻出する。プレーンテキストではどうにもならず、結局はいったんInDesignでページ組みをし、それをPDFに書き出すことになった。文庫の図書カードには「校正:浜野智」とあるが、実際には校正に加えてPDF作成も僕が担当したのだった。


 大阪の人である町野修三さんとは、一度だけ直接お目にかかった。正確なところは覚えていないが、1999年ではなかったかと思う。メールで頻繁にやりとりするなかで、あるとき、僕が京都・拾得恒例のイベント「七夕コンサート」のことをお知らせした。すると、フォーク・ソングになど一度も接したことのないはずの町野さんが興味を示し、では一緒に行きましょうとなったのだった。

 コンサート当日、イベントが終わったあとの町野さんのやや興奮気味の顔を思い出す。古川豪やひがしのひとしの歌にふれて町野さんは言った。「いい刺激をもらった。音楽の歌ではなくて短歌だが、おれも頑張る」


 町野さんが肺癌を病んだのはそれから1年ほどあとのことである。ある日突然の電話があり、「末期癌だよ」と言われた。それからさらに1年、町野さんは名医と呼ばれる医師にすがるべく、治療のためにしばしば首都圏にいらした。だが、会う機会はなかった。

 その頃作歌された作品が悲しい。


  浅草は心優しい駅にして萎えたる足を鍛えてくれる

  階段の手すりたよりにばあちゃんの降り行く地下の駅の深さや

  エスカレーターの備え無き駅多くして足弱き吾には辛き東京

  弱者への配慮はあらずそれはそも首都は強者の都市であるゆえ


 2002年12月5日、町野さんは力尽きて逝った。まだ59歳だった。


2026年6月15日月曜日

短歌のレノン君と呼びたい歌人

 


 本人が亡くなったあとにその作品に出合うことになる作家がしばしばある。「インターネットから出た最初の本格歌人」と言われる笹井宏之はそんな1人。かれこれ13年前になるだろうか、多数のリクエストが集まったとかで再放送されたNHK-BSのドキュメンタリーをたまたま見て、そこに引用された短歌に心を奪われた。ジョン・レノン似の風貌のこの青年が、わずか26歳で急死したことも、そのときに知った。


 歌集『ひとさらい』中の5首。

  まばたきの数え方を忘れてしまった 鳥に静かに満ちてゆく潮

  拾ったら手紙のようで開いたらあなたのようでもう見れません

  上空のコンビニエンスストアから木の葉のように降ってくる遺書

  隣ではベートーベンに似た人が五の段からを暗記している

  レシートの隅っこかじる音だけでオーケストラを作る計画


病床で書かれた歌だが

 「15歳の頃から身体表現性障害という難病で寝たきりになり」とウィキに書かれているが(http://ja.wikipedia.org/wiki/笹井宏之)、これらの歌はそんな日常の中で書かれた。にもかかわらず、病者の翳りは薄く、透明でのびやかで、センス・オブ・ワンダーに満ちている。

 歌集『ひとさらい』からもう5首。

  からだにはいのちがひとつ入ってて水と食事を求めたりする

  冬用のふとんで父をはさんだら気品あふれる楽器になった

  野菜売るおばさんが「意味いらんかねぇ、いらんよねぇ」と畑へ帰る

  すっぴんで星をつめたくしていたらひゅーんとおりてきた正義感

  思い出せるかぎりのことを思い出しただ一度だけ日傘をたたむ



 もう新作に出合えないのはやはり残念だが、彼の短歌はどんな歌手の歌よりも音楽よりも親しい友となった。ありがとう、笹井君。

2026年6月14日日曜日

牛肉大和煮と川崎貴嗣さん

 


 仕事部屋の机の隅に、牛肉大和煮の缶詰がずっと置いてある。2013年7月10日に川崎貴嗣さん(ほんの4年ほどのつきあいで終わってしまったが、僕の大切な大先輩編集者)が亡くなった直後に買ったものの1つ。ただの缶詰だが、川崎さんにまつわる思い出の品でもある。

 川崎さんの自宅は湘南の茅ヶ崎だが、ウィークデイは南林間のワンルームマンションで仕事をしていた。週末だけ茅ヶ崎の家に帰るという生活。いつ頃からそうなったのかは知らないが、僕がしばしば土曜に訪れるようになってからは、週末の茅ヶ崎帰りも崩れたらしい。


南林間の仕事場で牛肉大和煮を

 南林間の仕事場へはじめて行ったのは、たしか金曜の夕刻だった。あくまでも仕事上の打ち合わせ。ウェブサイトの構築に関する打ち合わせをしたのではなかったかと思う。打ち合わせは短時間で終わり、やがてなぜか好みの文学作品の話になり、場所を駅前の飲み屋に移してそれが続いた。



 その次の機会はすぐにやってきた。今度は、「いいワインをもらった。1人では飲みきれないから、来てくれ」と言われて出かけたのだった。僕は気の利かない人間であって、つまみも何も持っていかなかった。いや、暫時そのことは頭にあったのだが、面倒でやめた。着くと、川崎さんの仕事場にはつまみに適するものはほとんどなかった。苦手だという川崎さんに代わってワインのコルク栓をあけると、さて、どうしようということになった。

 それで、川崎さんが出してきたのが、牛肉大和煮の缶詰だったのだ。


 飲み始めた。

 大和煮を皿にあけ、箸でつまむ。

「うむ、なかなかおつじゃないか」

「白ワインに合いますねえ、存外」

 そんな話になった。


 これだけのことなのだが、30〜40年ぶりで食べた大和煮はなぜか旨かった。

 大和煮はまた、川崎さんとの間の垣根を取り払うきっかけになった気もする。

2026年6月13日土曜日

植物のしたたかさ、大地のような音楽

 


 毎年、夏が近くなると、夕顔を植える。

 ご存じのとおり、夕顔の種皮は厚くて堅いので、表面に傷をつけてから一晩水につけておく。小さな鉢にまいた種が芽を出すのはそれからさらに10日ほどたってからだが、土の上にひょっくり顔をだした小さな葉を見るのは何度経験しても嬉しい。

 今年は、どういうわけか、夕顔があまり育っていない。気候のせいなのか、それとも単純に土がよくなかったのか。

 それでも、つるは徐々に伸びてきて、枯れることはない。そのうち、あのかぐわしい白い花が咲くだろう。


 植物を見ていていつも感じるのは、美しさや可憐さではなく、しぶとさ、したたかさである。鉢植えの植物はいってみれば団地住まいの人間のようなものだが、ストレスをためこんで十二指腸潰瘍をわずらったりする人間様に比べ、植物はなんとか環境に耐えて生き延びる。

 考えてみれば、すべての植物は大地に太い根を張って屹立する大樹の兄弟分なのだから、しぶといのはあたりまえか。


グレツキの3番『悲歌のシンフォニー』

 大地のような音楽という言葉が思い浮かぶ。


 このたとえで思い出すのは、ポーランドの作曲家、グレツキの3番『悲歌のシンフォニー』である。コレクションになどとんと興味のない僕だが、この曲のCDだけはなぜか4〜5枚持っていて、ことにポーランドの指揮者と歌手、オーケストラが録音したものの1枚『HENRYK GORECKI:SYMPHONY NO.3』(VOX 7511)というアルバムはよく聴く。

 ナチスの独房に閉じこめられて死を待つだけとなった18歳の娘が爪で石壁に刻んだという詩をはじめ、この曲には悲しみを基調にした3つのテキストがとりこまれていて、ソプラノで歌われるが、彼らの演奏が始まってまず感じるのは大地から噴き上がってくるようなエネルギーである。そのエネルギーは、数々の悲劇を乗り越えてきたポーランドの歴史と密接なつながりがある。

 民族主義は常に野蛮を伴うものだが、それでも、歴史を振り返ることなく、時代や社会への関心も薄いいまのわれわれには、彼らポーランドの人たちのような「植物の強さ」は求めようがないと言うしかない。

2026年6月12日金曜日

ギネスにまつわる思い出

 


 松島駿二郎『ケルト紀行』という1冊を読む。アイルランド〜ウェールズ〜フランスへとケルトを探索した旅の記録。

 アイルランドへ行った人がほとんど例外なく口にする一言がある。「アイルランドで飲むギネスは、日本で飲むそれとは別物だ」


 この本にもそいつが出てくる。

「わたしはためらわず、ギネスのオン・タップを注文した。オン・タップとは樽から直接腕木の付いたポンプで注いでくれるということだ。つまり、生ギネスである。……それがわたしの本物のギネスとの出会いの瞬間だった。本物のギネス! それはびっくりマーク(感嘆符)付きで記述するのが正しい。……今まで日本をはじめ世界各地で飲んできたギネスはギネスではない」


 僕もまたギネスが好きだが、この種の記述にふれるたびにアイルランドへ行きたくてたまらなくなる。アイリッシュ・ハープをあしらったギネスのロゴは同じでも、東京のアイリッシュ・パブではだめなのだ。

 その機会はもうありえないだろうが。


下北沢「宮鍵」に3人が集まった夜

 ギネスで思い出す店がある。かつて下北沢にあった酒場「宮鍵」。おでんがメインの飲み屋なのに、ギネスが置いてあった。常連の一人にギネス好きの大学教授がいて、その人の注文で置くようになったと聞いた。

 といって僕自身はこの店ではギネスは飲まなかったのだが、店そのものの思い出は深い。27年前に逝った松平維秋に教わった店であり、いつも彼と行った店だからだ。


 1999年10月末のある夜が記憶の中から浮かんでくる。10月15日に逝った松平さんを偲んで、同じ下北沢で酒場「いーはとーぼ」を営む今沢裕、松平夫人だった洋子さんという、ふだんは一緒に飲むことのない顔ぶれで集まった。

 話ははずまなかった。3人揃って黙々と飲んだ。僕自身についていえば、杯を重ねるうちに涙が出て来た。涙はとめどなく流れた。そして泥酔した。

 そんな夜だった。

 「宮鍵」は2019年8月末に店じまいしている。


2026年6月6日土曜日

秋海棠の記憶

 


 寺田寅彦はいうまでもなく漱石の弟子にあたる人であって、科学者なのに俳句もよく詠んだ。俳句での筆名は牛頓。牛頓=ニュートン、ということらしい。

 そんな牛頓先生が遺した一句。

「中庭や小窓に雨の秋海棠」

 一見して、凡庸。だが、いい句だなあと思う。秋海棠は地味な植物で、花も華麗ではない。しかし、日陰にひっそりと咲く花にはえもいわれぬ味がある。それを小窓越しに見ているというのがいい。しかも、秋海棠は雨にうたれている。


 秋海棠の中国での呼び名は断腸花。荷風散人の号はここから来た。


 秋海棠については、個人的な思い出もある。

 結婚した直後だから1977〜78年頃だろうか。家内とは立花実さんの『ジャズへの愛着』が縁で知り合った間柄なので、亡き立花さんの仙台の実家を訪ねた。ご母堂の立花重子さんが迎えてくださった。

 広々としたリビングでしばしの歓談。そのあと、仏間に案内された。床の間があった。大ぶりの鉢がそこにあり、見事な枝ぶりの樹木が入れてあった。それが秋海棠だった。秋海棠という植物名も、そのときはじめて知った。


 秋海棠の名を聞くと、いまもあのときの情景と立花重子さんの穏やかな笑顔が思い浮かぶ。その後、立花重子さんとは年賀状をやりとりするだけのおつきあいだったが、いまから10年ほど前だろうか、100歳で物故されたという。

2026年6月5日金曜日

レフト・アローンを聴く日

 


 大好きなのだがふだんはほとんど聴くことなく、特別な機会にだけ聴くアルバムがある。1枚挙げれば、マル・ウォルドロンの『レフト・アローン』。親しかった友人知人が天に昇っていったときにだけ聴く。


 ジャズ・ファンなら知らぬ人はいない有名な1作だが、僕がジャズを聴き始めた頃は、手にすることはほとんど不可能なディスクだった。ベツレヘムというマイナー・レーベルから出たことも手伝って、市場からいち早く消え、「幻の名盤」と呼ばれた。

 僕がこれを(といっても、いまはもう手元にないアナログディスクだが)入手したのは、新宿にあった「トガワ」という中古レコード店でだった。都内のあるジャズ喫茶がつぶれ、レコードのコレクションがこの店に売られた。その中の1枚がこれ。ジャケットはぼろぼろで煙草のやにだらけ。中身の赤いディスク(東芝はよくこの色のレコードを作っていた)も、傷だらけだった。

 値段は500円だった。


 最晩年に伴奏をつとめたマルがビリー・ホリデイの死を悼んで録音した作品。標題作「レフト・アローン」が何と言っても素晴らしい。極論すれば、他の曲はいらない。この1曲で充分なのだ。

 せつせつと歌うジャッキー・マクリーンのアルト・ソロが、まずは聴く者の心を奪う。続くマルの静かなピアノ・ソロが、これまたたとえようもなく美しい。まさに鎮魂の歌。


 今年もまだ半年未満だが、何人かが逝った。流れるマルのソロを聴きながら、その人たちの顔が次々に浮かぶ。

2026年6月3日水曜日

W.B.イェイツの恋の詩

 


 W.B.イェイツの詩集『薔薇』を読む。アイルランドまで行ってイェイツに面会したほどにこの詩人を敬愛した尾島庄太郎による訳。原本は60年代半ばに発行されたもので、50年代後半の仕事という訳文はやや古びて感じられる。しかし、詩の内容に即して文体を使い分けたり、訳者の傾倒ぶりが伝わってくる1冊だ。

 青年期から晩年にいたるイェイツの詩が精選されているが、ひとつ印象的なのは「恋の詩」が多いということ。青年時代はもちろん、最晩年にいたってもそうなのだ。イェイツもまた「歳をとるほどに精神がみずみずしくなる」タイプの人だったのかもしれない。


 1889年、イェイツ24歳のときに編まれた『十字路』にある「恋人に与う」。

  我らは、ここに孤舟を繋ぎとどめ、

  草地、砂地をそぞろあゆみ、

  手を組み合って、永久にさまよおう、

  「はるけくも、不安の境を、

  逃れ来しものよ。」と二人して、低くつぶやいて。


 多く愛する人は、多く愛される人でもある。イェイツについては詳しくないが、どんな人生を送ったのか、ちょっと覗いてみたくなった。

2026年6月1日月曜日

風の音を感知できるか

 


 もう30年も前の話だが、東京のたしか江東区だったと思う、小学校の先生が風の音を録音して子供たちに聞かせた。驚くなかれ、それが風の音だと気づいた子は皆無に近かったという。

 その小学校は都内でもとびきり騒音のひどい地域にあるらしかった。だから、そこに生まれ育った子供たちの聴感覚が麻痺しているとしてもおかしくはない。ということで、これはごく限られた地域の、ごく特殊な事例だと判断することもできないことはない。

 しかしである、そう言うわれわれだって、少なくとも現代の都会に住む者は皆似たりよったりなのではないか。われわれは耳のデリカシーを守ろうとすれば正常には暮らしていけないような環境に押し込まれている。


 ある時代に、どんな音楽が隆盛を誇るか。それは、その時代に生きる人たちをとり囲む環境と抜きさしならない関係をもっていると言っていいだろう。

 現代を特徴づける音楽は、テレビから流れ来るJポップである。曲の判別ももどかしい機械的なリズム、わめくように発射される歌、工夫や独創性など存在しないに等しいステロタイプ化した言葉。日常生活を埋め尽くす騒音の中からその上に突き出ようとしたあげくの貧しい表現がそこにある。

 同じ愚を避けるには、どうするか。とりあえず可能なのは、自分なりにシェルターをつくってもぐりこむことだろう。そのシェルターはコンサート・ホールであるかもしれないし、ポータブル機器がつくる密室であるかもしれない。


CDなどで聴くには不向きな音楽

 たった一度だが、武満徹の「ムナーリ・バイ・ムナーリ」という曲をコンサートで聴いたことがある。数多い打楽器、というよりは叩けば音の出る物体を並べて演奏される音楽で、ステージ狭しと並べられたそれらの道具から出されるのは意外にもごくごく小さな音だった。曲想の要にあるのは「共鳴」であり、ある物から出た音が他の物に響き合い、デリケートそのもののエコーを生んでいく。


 聴き終えたとき、ああ、これは耳の鍛錬の儀式なのだなと思った。耳の鍛錬とは、でかい音に耐えられるようにすることではない。小さな小さな響きを聴き分けられる能力を回復することだ。


 残念ながら、この曲はCDなどで聴くにふさわしいものではないし、録音されたことがあるかどうかも知らない。しかし、武満徹の曲には「デリケートな音」に対する憧憬が通奏音として常に内在すると感じられる。

 例えば、20歳のときに書かれた作品のスケッチから再構成されたピアノ曲「リタニ」である。僕が愛聴するのは小賀野久美による録音(フィリップスPHCP-145)だが、とぎれとぎれに近い音が聴き手の想像力を刺激し、そこから静かな美しい歌がつむぎ出される。

 われわれは音楽の失われた過去と失われようとしている未来をそこに聴き取るだろう。

2026年5月31日日曜日

トゥパック・シャクールの詩集

 


 図書館の音楽書の棚を見ると、『ニール・ヤング詩集』や『ポール・マッカートニー詩集』といった詩集体裁の本がある。開いたことはないが、歌詞を訳して詩集に仕立てたものだろう。このタイプの本ではディランの全詩集が広く知られているが、歌はやはり歌として聴くものであって、詞だけを取り出した場合、何か欠落を感じることが多い。


 たまたま書名に惹かれて借りた『トゥパック・シャクール/コンクリートに咲いたバラ』も似たようなものなのかと思ったが、違った。ヒップホップの世界で名を挙げた彼は、著名になる以前、詩のサークルを主宰していた。これは、そこで発表された詩作品を集めた1冊だ。


 といって、ここに収められているのがいかにも文学的な純粋詩かというと、実はそうではない。読んでまず感じるのは、これはラップそのものではないかということだ。読んでいるのはもちろん翻訳文だが、独特のリズムがあり、ラップのパフォーマンスに立ち会っているような錯覚におそわれる。


  ひとめ見た時からもうわかっていた

  ふたりのハートはいつか結ばれる運命にあるんだってことを

  どんな状況だろうと関係ない オレのハートは

   嘘をつかないんだ

  君がそんなことを認めないっていうなら

  後で驚くのは君自身だよ


 「ひとめ見た時から」という標題の詩。ラップどころか、メロディーをつければ、昔風のポップ・ソングになりそうな詩だ。

 ただし、職人の手になるポップ・ソングとは違って、言葉の1つ1つに個人的感情がたたみこまれている。だから、読んで感じるものは多かった。


 トゥパック・シャクールの死は1996年9月7日。ラスヴェガスで横付けされた車からの発砲を受けて亡くなっている。25歳の悲劇的な死だった。


2026年5月30日土曜日

基本語を求めて

 


 「基本語」というものがある。これを教えてくれたのは、亡き立花実さんだった。

 氏は書かれた。

「この地上には現在さまざまの口あたりのよい濾過された音楽が氾濫している。それは極めて影のうすいものなのでレッテルを貼ってその輪郭をはっきりさせなければうつろで坐りが悪いのである。この根なし草の音楽の語る言葉は派生語である。ジョン・コルトレーン・クインテットの語る言葉は基本語である」(「コルトレーンに接したよろこび」)


基本語を求める旅

 本を読むこと、音楽を聴くことは、そんな基本語を求める旅のようなものだろう。旅というよりは巡礼か。


 今日、たまたま開いた本の中にまさにその基本語を見つけた。

「我愛山時山愛主」

 道元禅師による漢詩の一行。「私が山を大切にすると、山も私を大切にしてくれる」というのが、その意味だ。

 僕自身を含めて、いつかは豊かな自然環境の中で生きたいと思う人は多い。しかし、自然を大切にする生き方をしなければ、自然は受け入れてはくれないだろう。そう思った。


2026年5月29日金曜日

煙草は、小説の小道具

 


 図書館の閲覧スペースで永井荷風「すみだ川」を読む。こんな一場面に惹かれるものがあった。


 お糸は縮緬の風呂敷につつんだ菓子折を出した。長吉は呆気に取られたさまで物もいわずにお糸の姿を目戍っている。母親もちょっと烟に巻かれた形で進物の礼を述べた後、「きれいにおなりだね。すっかり見違えちまったよ。」といった。

「いやにふけちまったでしょう。皆そういってよ。」とお糸は美しく微笑んで紫縮緬の羽織の紐の解けかかったのを結び直すついでに帯の間から緋天鵞絨の煙草入を出して、「おばさん。わたし、もう煙草喫むようになったのよ。生意気でしょう。」

 今度は高く笑った。


 「すみだ川」は明治42年の作。この時代は、煙草喫むようになることが大人への入口であったらしい。


煙草と縁の深い作家たち

 煙草と作家の生活との縁をふと考える。文学者には、ヘビー・スモーカーが多い。

 夏目漱石は酒は飲まない人だったが、煙草は吸った。紙巻き専門だった。1日に2箱のペースだったという。

 本業は医師の森鴎外も、煙草は吸った。ただし、こちらは葉巻専門。ドイツに留学していたときに覚えたのだろう。

 菊池寛は、輸入煙草「キャメル」を1日に5箱吸った。北原白秋はさらに上、10箱以上の紙巻きを連日吸った。芥川龍之介は紙巻き中心だが、葉巻も吸った。坂口安吾はもっぱら缶入りの「ピース」だった。酒好きで知られた歌い手の高田渡は、まだ酒を飲まなかったころ缶入りピースを持ち歩いたそうだが、ひょっとして安吾を真似たのか。

 樋口一葉が煙草を吸ったかどうかは知らないが、この人の小説には女が煙管に煙草をつめたり吸ったりする場面が出てくる。


 煙草は、小説の小道具として欠かせないものの1つだ。例えば、海外ミステリだと、私立探偵が路肩に停めた車の中で張り込み、目当ての人物が帰ってくるのをじっと待つ場面がよくある。こういうとき、煙草が何本消費されたかは、時間の経過を表す目安として格好のものだ。だいたい、煙草も吸わない私立探偵なんて、かっこ悪いじゃないか。


 上の荷風の小説のように、人が大人になる、大人になろうと背伸びする……そういった事柄の表現にも煙草は役立つ。だから、煙草撲滅ファッショがこのまま進んだら、小説の世界はどうなっていくのだろうと心配になる。ただ、元ヘビー・スモーカーとして苦言を呈するなら、煙草の葉ではなく紙を燃やして吸っているようなニコチンの弱いいまの煙草はやめてくれ、という気持ちはする。


 僕が27年前に煙草をやめたのは鼻炎対策という純粋に健康上の理由だが、それでも小説を読んだり映画を観たりしたあと、煙草を吸う夢を見ることがある。

 ちなみに、鼻炎はいまも続いている。


2026年5月22日金曜日

『ジャズ批評』8号が本棚から出てきた

 


 平岡正明『昭和ジャズ喫茶伝説』との関連で本棚をひっかきまわしたら、雑誌『ジャ批評』8号が奧から出てきた。発行は1970年9月。開くと、巻頭は写真ページで、「再会−武田和命」の見出し。一時期ジャズ・シーンから姿を消し、ソウルフル・ブラッズというBST風のバンドでテナーを吹いていた武田和命さんへの訪問記だ。時は70年5月15日。カメラはジャズ喫茶「響」の友、太田琢。いまどうしているのかな、琢ちゃん。


 ついでに本文を確認。巻頭論文は相倉久人さんの「ジャズからの出発」、そのあとに山下洋輔トリオと筒井康隆さんの座談会。司会は僕だ。さらにあとには、徳丸吉彦先生、油井正一さん、植草甚一さんのエッセイが続き、これらをしめくくるように山田泰利君の「非ジャズ的課題についての論考」。慶大の三田新聞からの転載で、この時代のジャズ論・音楽論を代表するといっていい好論文だ。


 演奏主体からの断絶がジャズ批評、原初の混沌である。ジャズから衝動されたぼくたち内部のうごめきは、ジャズが言語表現の対極に位置する裏現、沈黙の部分である以上、言語表現からも、演奏主体からも無限に遠ざかるばかりである。沈黙はいつもそのようなものとしてぼくたちにやってきた。


 山田君はこれ1作で消えてしまうのだが、文はなんらかの形で残っていく。


音楽誌は論争にあけくれた

 相倉久人「ジャズからの出発」は、高柳昌行・道子、間章による誹謗中傷発言への反論を主に書かれている。再読しながら思ったのは、『ジャズ批評』をはじめ、同人誌『アワ・ジャズ』『ジャズ』、さらには『ボップス』『ニューミュージック・マガジン』といった音楽誌各誌の誌面には論争の気配が濃く漂っていたこと。個人的なことだけとりあげても、僕は『ボップス』では田川律・水上はるこ、『ニューミュージック・マガジン』では中村とうように論争を仕掛けた。近頃の音楽誌を思うとまさに隔世の感だが、それはまた時代の照り返しでもあったと思う。

 たかが古雑誌1冊にも、時代の鼓動が響いている。


2026年5月21日木曜日

平岡正明さんとジャズ批評誌

 


 調べたいことがあって、平岡正明『昭和ジャズ喫茶伝説』を再読する。以前読んだ平凡社の単行本オリジナルはではなく、ちくま文庫版。

 知りたかったことは結局載っていなかったのだが、懐かしさも手伝って全編読み通した。ちょっと疲れた、とにかくわっせわっせと押しかけてくる文体だから。


 ジャズ喫茶のオーディオ装置ことにスピーカーシステムに関するくどいほどの記述を読んで、平岡さんがオーディオマニアだったことをあらためて思い出した。それにからんで、平岡さんのお宅を訪ねたときのことも思い出した。平岡宅のリビングの隅には、コーナー型のエンクロージャーにおさめられたグッドマンのアキショム80がセットされていた。後年、ご本人に言われたことだが、そのとき僕は「えーっ、グッドマンでジャズが聴けるんですかあ」と言ったらしい。長年恨まれた。

 何の目的で訪ねたのかはもう忘れたが、中澤まゆみさんと一緒だった。当時の中澤さんはシンコーミュージック刊の音楽誌の編集者だったから、取材だったのか。

用事を終えて路上に出ると、「おーい、君たち結婚しろよーっ」という平岡さんの声が2階の窓から降りかかってきた記憶がある。


『ジャズ批評』の時代、編集室で平岡さんと徹夜

 懐かしさのつのる記述に出合った。


 ジャッキー・マクリーンは、東銀座松坂屋裏「オレオ」の、ローサーのスピーカーで聴くのがいちばんだった。英国製ダブルコーン、公称二〇センチ口径の、マグネットの塊みたいなスピーカー。

 この店は「ジャズ批評」発行人・松坂比呂の店だった。銀座七丁目、古いビルの二階にあって細長く、ちかく、深沢七郎が東京一うまい餃子といっていた「東華飯店」があり、電通社員時代の荒木経惟が、ラーメン屋写真展を月例のようにやっていた「キッチン・ラーメン」があり、あと二丁行くと築地で、イーストエンドの気配がした。

 一九六七年六月、「ジャズ批評」創刊号は、和文タイプ印刷。巻頭が、俺の「ジャズ宣言」だ。……

 この宣言で、俺はジャズ評論家になった。(「東銀座『オレオ』)


 『ジャズ批評』創刊号には僕は直接の関わりはないが、出版社に在籍していたこともあって、編集の進行管理の仕方などを松坂さんに幾度となくアドバイスした。そんな経緯があって次の号からは直接編集を手伝うようになるのだが、その号から企画は相倉久人さん以下3人の編集同人が行うことになった。その一人が平岡さんだった。

 僕が平岡さんとじかに接したのも、その号の編集会議でだったろう。時期はその年の夏のさなかか。場所は、高田馬場の木造アパートの一室。そこが編集室だった。アパートの建つ敷地の入口にはでかい犬がいて、人を見れば猛烈に吠え立てた。そのそばに寄って手なづけていた平岡さんの姿が記憶に残っている。


 その編集室で平岡さんと徹夜したことがある。締切が迫っているのに原稿が一向に進まない平岡さん自身の希望で、僕をサポート役として一夜編集室にこもったのだ。出版界で言う「かんづめ」である。

 60年近くも前のことなので原稿のテーマその他何も覚えていないが、夜がしらじらと明けてようやく脱稿となったことはぼんやり覚えている。かたわらにいた僕は手持ち無沙汰なので自分でも原稿を書いた。水虫のゲリラ兵士はジャングルでどう対処するだろうかという、400字原稿用紙3枚の馬鹿げたコラムだった。


 平岡さんの逝去は、それから長い時を経た2009年7月9日。葬儀はその4日後だったか。暑い日だった。横浜・久保山の式場にはかつての『アワ・ジャズ』同人、持田昌宏さん、白山のジャズ喫茶「映画館」の店主・吉田昌弘さんがいて、帰りは一緒に新宿まで出、スナックで追悼の真似事をした。

2026年5月19日火曜日

武満徹、没後30年に

 


 10日ほど前の東京新聞サンデー版は武満徹の特集。紙面に大きく表示された「没後30年」の文字を見て、あらためて時の流れの速さを感じた。この作曲家の死後に行われた追悼イベントの1つ、パルテノン多摩で開かれたコンサートはつい昨日のことのように思われるが、とんでもない。時は確実に30年を刻んでいるのだ。

 そのコンサートでは、同じ年の少し前に夫君である秋山邦晴を亡くした高橋アキの演奏が深く心に残っているが、その夜遅く、家に帰って聴いた石川セリ『翼〜武満徹ポップ・ソングス』もまた忘れがたい。ことに、「死んだ男が残したものは」の1曲。武満徹自身はたくさんの宝物(作品)を残したが、それでいてこの歌は武満本人の遺言とも感じられた。


  死んだ男の残したものは

  一人の妻と一人の子供

  他には何も残さなかった

  墓石ひとつ残さなかった


  死んだ兵士の残したものは

  こわれた銃とゆがんだ地球

  他には何も残さなかった

  平和ひとつ残せなかった

  (詞:谷川俊太郎)


時を超えて心深くに突き刺さる歌

 ところで、話はこれを歌う石川セリだ。

 石川セリの名を最初に聞いたのは、三浦光紀さん率いるベルウッド・レコードにいた浅野恵子さんからだ。彼女は言った。「いいわよねえ、歌がうまくて、おまけに美人で。嫉妬しちゃう」

 この一言をきっかけに映画の主題歌「八月の濡れた砂」を聴くようになった。ただし、本気で惚れ込んだのは、ずっと後年、『翼〜武満徹ポップ・ソングス』(95)が出てからだろう。はじめて聴いたときの感動は、リリースから31年たったいまも忘れがたい。


 その『翼』中の白眉ともいうべき曲が「死んだ男が残したものは」だ。アルバムは武満徹作曲のポップ・ソングを集めた1作だが、実は僕は武満作のこれらの歌には若干の違和感をもつ。歌は、不特定多数の人々の記憶に定着し、日常の中で歌われてこそ価値がある。ところが、武満作品はあくまで武満作品であって、簡単に歌えるようにできていない。「死んだ男が残したものは」もそうで、メロディがやや不自然だ。人が歌うときに自然にこうなるはずという音の流れができていず、メロディに癖がある。凡庸さを無意識に嫌う作曲家のエゴの反映と思う。


 といった瑕疵はあるのだが、それでも「死んだ男が残したものは」は素晴らしい曲だ。聴いていて胸にずんずんしみこんでくるものがある。歌うときには作曲家の意図に反して音をずらし、自然な流れに置き換えればいい。

 この歌の捉え方は、人さまざまだろう。そもそもは反戦歌として作られた歌だが、そのことを別にしても、人の一生を客観的に即物的に叙述した1作としていろいろな見方ができる。僕のように「一人の妻と一人の子供」以外には何も残せそうにないことがはっきりしている人間にとっては、「そうだよなあ。やっぱりなあ」という慨嘆を招く歌だが、これを聴いて、おれは戦士になるぞ、新しい人類の平和を生むためになどと考える輩が出てきてもおかしくはない。


 ディスクはもう手元にないので、YouTubeであらためて聴いた。石川セリがいまどうしているのか知らないが、武満徹・谷川俊太郎ともども、時を超えて心深くに突き刺さる素晴らしい遺産に感謝することだった。


2026年5月16日土曜日

松田政男さんと現代思潮社、その2

 


 陶山幾朗『「現代思潮社」という閃光』を読む。

 著者はかつての現代思潮社に6年間編集者として在籍した人で、65年の歴史をもつこの社の10分の1程度を知っているにすぎないが、それでいて現代思潮社はどのような出版社であったかがほぼあまさず語り尽くされている。

 本は創業者である石井恭二氏の死亡記事から始まっているが、それに続く「入社前史」なる章を読んで、松田政男さんが現代思潮社の社員だったことをはじめて知った。陶山氏の入社後しばらくして、二人は編集部で机を並べることになる。まだ編集者はこの二人だけの小さな出版社だった。


 当時、編集部は西神田と呼ばれていた地区の、専修大学神田校舎裏の狭い路地を入った奧にあり、営業部が文京区春日伝通院坂下にあった。編集部は木造しもた屋の二階で、玄関の狭い引き戸を開けると、すぐ目の前に二階に上る階段があり、来訪者は先ずこの土間から二階を見上げて「ごめんください」と声をかける具合になっていた。……ところで、今では信じられないかも知れないが、当時、西神田編集部には冷房が無かった。したがって、夏の猛暑のなかをわれわれ編集部員は、やむをえずパンツ一枚で仕事をしていたのである!(「《西神田》、本日もホコリ高し」)


 1965(昭和50)年の東京の情景である。そうして、僕は自分もまた似たような境遇で働いていたことに気づいた。


冷房のない夏の仕事場

 同じ年、僕は高校を出て岩波書店に入社した。当時の岩波書店の社屋は現在のビルに建て替える前の古い三階建てのビルで、ここもまた冷房のない空間だった。ただし、現代思潮社とは違って、社のフロアのあちこちには扇風機が据えられていた。真夏はどの部署の社員も扇風機の風を受けながら働いた。

 ところが、例外があった。編集部だ。ここにも扇風機はあったが、停められていることが多かった。何故か。当時は、いうまでもなく編集の素材は手書き原稿である。扇風機の風を受ければ、原稿がめくれあがって仕事にならない。だから、編集者は皆扇風機をとめ、首にタオルを巻いて汗を吸い取りつつ仕事したのである。


 僕がはじめてジャズの生演奏に接したのは、そんな1965年の夏のさなかだった。ところは、銀座松屋裏にあった「ジャズ・ギャラリー8」。相倉久人さんが司会をつとめていた。


 その相倉さんに声をかけ、話をするようになったのは、同じ年の秋だったか。その翌年、相倉さんは活動の場を銀座から新宿に移す。その頃から僕はほぼ毎日相倉さんと会って話をするようになり、さらにその5年後、相倉さんを中心に創刊された雑誌『映画批評』の編集部で松田政男さんに出会うことになる。

2026年5月12日火曜日

松田政男さんと現代思潮社

 


 松田政男さんについて調べていて、現代思潮新社(旧現代思潮社)が昨年9月末で廃業したことを遅ればせながら知った。元編集者であるらしい柿生隠者なる方のnoteに挨拶文が引用されていた。「1961年、石井恭二が創業した株式会社現代思潮社は、2000年、石井恭二の引退を期に社名を現代思潮新社と改め再出発をし、引き続き皆様にご愛顧いただいてまいりました。しかしながら、今般、諸般の事情により、2025年9月末日をもちまして廃業することにいたしました。……」


 松田さんについて調べる途中で旧現代思潮社をキーワードに検索をかけたのは、松田さんは直接、現代思潮社は発行物を通して、僕の文筆の師であったからだ。松田さんからは、1960年代末だったろうか、新宿にあった喫茶「ぼろん亭」で長文をどう書けばいいかを教わった。「長い文章を書くときはね、いきなり原稿用紙に書き始めちゃだめなんだ。まずはプロットを作る。これから書く文章のテーマに沿って小見出しを考え、小見出しから小見出しへとつなげていく。小さなマッチ箱をいくつも作って、紐でつなげていく要領だよ」という教えだったと思う。実際に実行してみると、長い文章がスムーズに書けた。松田さんが編集同人の一員だった雑誌『映画批評』に寄稿した「祭りなきフェスティバル」という雑文がそれで、いま調べたら初出は1971年3月とある。

 現代思潮社については、60年代に同社から刊行された谷川雁の著作集が文章作成の導き手となった。4冊ある著作集のうち『原点が存在する』が特にそうだが、谷川雁の文章は語り口、リズムなどのいろいろな点で参考になった。そう、まさしく原点がそこにあった。


最後は映画の試写会で

 相倉久人さんの紹介で知己となった松田さんは、その頃は「映画評論家」が肩書だった。しかしながら、ぼろん亭での対話を何度か重ねるうちに、この人がただの映画評論家ではないことを知るのに時間はかからなかった。著作集を発行している航思社という出版社のウェブサイトの略歴欄にはこう書かれている。「都立北園高校在学中の50年に日本共産党入党。以後、共産党所感派に属しながら、高校細胞などで活動し、卒業後は職業革命家となるも、54年の総点検運動により党活動停止処分。その後、共産党神山派で活動するが、ハンガリー事件の評価をきっかけにした神山派分裂後はトロツキズムからアナキズムへ接近。60年代中期以降はゲバラやファノンの第三世界革命論を導入しながら、直接行動の原理を模索し、『テロルの回路』などの戦術論集などを発表、68年前後のアクティヴィストたちに影響を与える」

 僕はここでいうアクティヴィストではないが、『テロルの回路』『薔薇と無名者』などの著作におさめられた論考はこれまた谷川雁同様文章のお手本となった。71年5月『ボップス』に載った「音楽の〈場〉とは何か」などは松田さんの文体を模写したかのごとき文章で、雑誌の発行後に「なんだ、俺の文章を真似してくれたのか」とご本人に笑われたものだ。



 『映画批評』が終刊となった1973年以後は疎遠となった松田さんに最後にお目にかかったのは、映画の試写会でだった。作品はクリス・クリストファーソン主演の『午後の曳航』、1976年の夏だったと思う。

 それから44年を経た2020年3月17日、松田さんは肺炎で河を渡られた。87歳だった。

2026年5月11日月曜日

板橋文夫の「てぃんさぐぬ花」

 


 3年前の引っ越しの際に処分したせいもあって、わが家にあるCDは少ない。ざっと見て100枚といったところか。音楽評論家などとうの昔に廃業しているということもあるが、実は現役の頃も所有しているレコードは少なかった。終電に間に合わなくなってわが家に泊めた『毎日グラフ』の編集者が「いやあ、たったこれだけでよく音楽評論ができますねえ」とあきれたのは、1975年頃だったか。

 そんな少ないCDなのに、もらいものの悲しさ、あまり数多く聴いていないものがある。その1つ、『板橋文夫/お月さま』(アカバナ 1997年)がなぜか気になりだして、久々にじっくり聴いた。感じるものがたくさんあった。


 これはオフノートの神谷一義君がライナーノーツの原稿料の代わりにくれたうちの1枚だと思うが、彼のホームタウンでもある沖縄での録音。板橋文夫は日頃のジャズを半ば放棄して、主に沖縄の歌をストレートに弾いている。大工哲弘が歌で加わった曲も数曲ある。

 全17曲あるその中での出色と思えるのが、「てぃんさぐぬ花」。ピアニカによる演奏とピアノによる演奏の2つのバージョンが収録されている。どちらも原曲のメロディーを素直に弾いているのだが、味わいはそれぞれ異なる。共通しているのは、要は美しさだ。


 聴いていて、71年のある夜のことをふと思い出した。その年にオープンした渋谷BYG。オープニングイベントは、地下でのジャズだった。初日は山下洋輔さん、2日目がこの板橋文夫さん。通路の狭さのために仕方なく入れた家庭用のブラザーのピアノのペダルは初日に1つ、2日目に1つへし折られた。国立音大出身の剛力ピアニスト2人のおそろしさよ。

 そんな板橋さんが、このアルバムでは抒情に徹している。それらの演奏は、弾くというより、ピアノを通してつぶやいているような感じがする。大工さんが加わると、つぶやきがそのまま歌に昇華するといった印象になる。


魔除けにされる赤い花

 「てぃんさぐぬ花」とは、ホウセンカのことだ。沖縄では、赤いホウセンカの花から汁をしぼり、これを爪に塗って魔除けにするらしい。どうせなら大工さん入りの歌バージョンも入れればよかったのにと思うが、こればかりはどうにもならない。

 ちなみに、YouTubeには夏川りみによる歌唱がある(https://www.youtube.com/watch?v=QUeiw3T0Z9Y&list=RDQUeiw3T0Z9Y&start_radio=1)。三線の弾き語りで歌われていて、これがまた素晴らしい。


 ちなみに、元歌はこんな歌詞が歌われる。


  宝玉(タカラダマ)やてぃん

  磨(ミガ)かにば錆(サビ)す

  朝夕(アサユ)肝(チム)磨(ミガ)ち

  浮世(ウチユ)渡(ワタ)ら

  ───

  宝石も

  磨かなくては錆びてしまう

  朝晩心を磨いて、

  世の中を生きていこう。


2026年5月9日土曜日

縁でつながれた詩

 


 「縁」というものがある。

 昨日5月8日の早朝、夢で兵庫在の泉井小太郎さんに再会した。およそ28年振り。夢の中でのことだから本当の再会ではないが、それでもこよなく懐かしい。それで、その日の夜になってからだが、泉井さんが奥様である音座マリカさんと運営するサイト「六角文庫」(http://rokkaku.que.jp/)にアクセス。「泉井小太郎の書斎」と題されたコーナーでこんな詩に出合った。


  雨の九日

  さかんに

  誰やらのへまが降っている

  と眺めていたら

  そうだった

  死んだ者のへまは

  へまではなくなるのだった


 歌の世界に「アンサーソング」というものがあるが、これはその部類。アンサーソング、いや返歌、いや返詩である。誰に向かってかというと、淵上毛錢なる大正初期生まれの詩人。僕ははじめてこの人の名を知った。こういうのを「縁」というのではないか。


義理と人情、縁談

 早速青空文庫にアクセスしてみたが、登録されてはいない。それでも、ネットでしつこく検索すると、こんな詩作品に巡りあった。


   「縁談」


  蛙がわづかに

  六月の小径に

  足あとを残し


  夜が来て

  芋の根つこに

  蛙が枕したとき


  村の

  義理と人情が

  提灯をとぼして


  それもさうだが万事おれにまかせて

  嫁に貰ふことにして

  そんな話が歩いてゐた


 笑った。何も書かれてはいないのに、人のよさそうな村人の顔が浮かぶ。


 以下、ウィキペディアから。


淵上 毛錢 (ふちがみ もうせん、1915年〈大正4年〉1月13日 - 1950年〈昭和25年〉3月9日)は日本の詩人。


概要

熊本県葦北郡水俣町(現・水俣市)に生まれる。本名・喬(たかし)。東京の青山学院中学部へ進学する。東京では、詩人山之口貘の知遇を得、のちのちまで交流は続いた[1]。脊椎カリエスを病んで青山学院を中退・帰郷。以後、寝たきりの生活を余儀なくされる。病床で詩作を始め、「九州文学」などに作品を発表。また戦後の1946年、水俣青年文化会議を組織するなど、郷里の文化活動の発展に貢献した。1950年、35歳で死去。


代表作に「柱時計」「寝姿」など。ユーモラス、また一面スケールの大きい詩風と評される。

2026年5月7日木曜日

仏教世界のメシアの体現者

 


 やっと連休が明けた図書館で『菊地章太/弥勒信仰のアジア』(大修館書店、2003年)を借りてきた。適当にページを繰ると、こんな記述が目に入った。

 アジアの仏教圏において、未来仏弥勒が信仰された時代や地域をかえりみると、そこにはなんらかの共通性があるように思われる。それは王朝や国家が滅亡にひんした混乱のきわみであることが多かった。それはいずれも苦難の時代であった。現在の世にもはや救いが求められないとき、人々は未来に希望を託すほかなかったのか。

 いまこそ弥勒信仰が求められる時代かと思った。


いつか拝観した広隆寺の弥勒

 広隆寺の弥勒を拝観したのは、忘れもしない、1976年の9月だ。シンガー・ソングライターのエリック・アンダースンが来日し、京都のライヴハウス「拾得」でライヴを行った。当時、雑誌『ニューミュージック・マガジン』の編集部にいた太田克彦さんに誘われて、見に行った。その翌日、これまた太田さんに誘われて、広隆寺へ行った。そして見た。

 僕は、仏像には格別の関心はない。かつてもいまもそうだ。ところが、その僕が、広隆寺の弥勒を一目見たとたん、電撃におそわれた。その美しさに目を奪われた。その後、5年ほど経ってから再度出かけたが、印象はさらに増幅するばかりだった。あれほど美しい彫刻は、この世に2つとない。そう思う。

 もっとも、これは言ってみれば「美術品としての鑑賞」の結果でしかない。初見から50年、僕は弥勒について何も知らなかった。知ろうともしなかった。稲垣足穂の「弥勒」は読んだが、それだけだった。いまになって、弥勒がどういう存在なのかを知った。こういうことだ。

「弥勒は未来仏である。人間が8万歳になったとき、この世に現れる。仏教世界のメシアの体現者として」

 そうか、そういうことなのか。あらためて弥勒について読み、考えるとしよう。『弥勒信仰のアジア』はまだ借りてきたばかりだが。


2026年5月6日水曜日

向田邦子の日記と恋文

 



「今日も、道路工事でうるさい。10時半ごろ陽光がみられるようになったので、神田へ出て本をさがして歩くが、今日は少し具合が悪いようだ。

 邦子へ電話し、柏水堂へよってホテルへ行く。少し話をして帰る。

 帰りは電車だったが、やっぱり少しこんで来た。高円寺でそばを食って家へ」(『向田邦子の恋文』「N氏の日記 昭和38年12月12日」)


「きのうは陣中見舞有難うございました。

 つまらなくて、ぼつぼつオヒスがおこりかけていたところだったので、とてもうれしかった。

……

 妹のはなしだと、ロクベエの落タンぶりは見るも哀れだとかで、私がいないと、火の気のない私のコタツの上でないているようで、母などホロリの一幕があったそうです。やっぱりアイツはいい奴だ。誰かさんみたいに、こなくても平気だよ、なんて、ひどいことはいわないもん」

(『向田邦子の恋文』「向田邦子からN氏宛手紙 昭和38年12月13日消印」)


 『向田和子/向田邦子の恋文』を再読する。

 日記と恋文、そしてエッセイからなる1冊。日記は“N氏”によるもの。恋文は向田邦子がそのN氏に宛てて出したもの。この日記と恋文が、本の前半部をなしている。あらためてしみじみと読んだ。暗い話など何も書かれていないのに、読んでいて涙が出そうになった。


 N氏は向田邦子の“隠れた恋人”だった。知りあったのは、向田邦子の最初の勤務先となった教育映画制作の財政文化社でだったという。彼はカメラマンだった。しかし、妻子があった。本の後半部をなす向田和子のエッセイによれば、背丈の低いずんぐりむっくりの人だったらしい。が、向田邦子は、あまり風采のあがらないその人に恋をした。よほど通じ合うところがあったのだろう。

 N氏はのちに離婚したようで、本に収録されている日記と恋文はそれ以後、N氏が母親と暮らすようになってからのものだ。この時期、向田邦子は超売れっ子で、ホテルにこもってシナリオを書く日々が多くなっていた。恋文の多くは、そのホテルの便箋に書かれたものだ。上の引用も、神保町の洋菓子店・柏水堂で買ったケーキをみやげにN氏がホテルを訪ねた日の日記と、その翌日に出された手紙の一部だ。

 本に合わせて“恋文”と書いたが、実は恋文らしい恋文はほとんどない。向田台本によるラジオ番組の感想を主につづられているN氏の日記もそうだが、病気がちだったN氏を気遣う記述はあるものの、多くは仕事が思うように進まない毎日のことが淡々と書かれている。2人が大人らしい大人の関係であったことを示すような大人の文章。しかし、それでいて、向田邦子が少女のような可愛らしさを覗かせることがある。それが愛猫にふれてあてつけを書いた上記の引用。N氏は、向田邦子にとって、甘えることのできる数少ない1人でもあったのだろう。


自分の才能に充分な自信の持てない人だったか

 そんな恋文らしくない恋文を読みながら、僕は別のことを考えていた。手紙の中で、向田邦子はしばしば仕事が進まないことにいらだち、自分を怠け者とののしっている。同年生まれの早坂暁のシナリオを読んで感嘆し、自分とは頭のできが違うと述べる部分もあった。察するところ、自分の才能に充分な自信の持てない人だったらしい。これは、僕には意外だった。あれほどの才気あふれる人だったのだから。


 1981年(昭和56年)、向田邦子が飛行機事故で亡くなったとき、僕はたまたま彼女が第二の故郷と呼んでいた鹿児島にいた。鹿児島のテレビは大騒ぎだった。死去を知らせるニュースが一日中繰り返され、鹿児島時代の写真が何度も画面に出た。

 あのとき、このN氏はどうしていたのだろうと、ふと思った。しかし、本を読み進むと、それはありえないことだったとわかった。向田邦子より13歳年長だったN氏はそれよりずっと早くこの世の人ではなくなっていたのだ。遺品として残されたものを引き取ったのだろう、向田邦子は彼の日記と自分が彼に宛てて送った手紙を茶封筒1つにまとめ、15年あまり大切に保管していた。