2026年5月16日土曜日

松田政男さんと現代思潮社、その2

 


 陶山幾朗『「現代思潮社」という閃光』を読む。

 著者はかつての現代思潮社に6年間編集者として在籍した人で、65年の歴史をもつこの社の10分の1程度を知っているにすぎないが、それでいて現代思潮社はどのような出版社であったかがほぼあまさず語り尽くされている。

 本は創業者である石井恭二氏の死亡記事から始まっているが、それに続く「入社前史」なる章を読んで、松田政男さんが現代思潮社の社員だったことをはじめて知った。陶山氏の入社後しばらくして、二人は編集部で机を並べることになる。まだ編集者はこの二人だけの小さな出版社だった。


 当時、編集部は西神田と呼ばれていた地区の、専修大学神田校舎裏の狭い路地を入った奧にあり、営業部が文京区春日伝通院坂下にあった。編集部は木造しもた屋の二階で、玄関の狭い引き戸を開けると、すぐ目の前に二階に上る階段があり、来訪者は先ずこの土間から二階を見上げて「ごめんください」と声をかける具合になっていた。……ところで、今では信じられないかも知れないが、当時、西神田編集部には冷房が無かった。したがって、夏の猛暑のなかをわれわれ編集部員は、やむをえずパンツ一枚で仕事をしていたのである!(「《西神田》、本日もホコリ高し」)


 1965(昭和50)年の東京の情景である。そうして、僕は自分もまた似たような境遇で働いていたことに気づいた。


冷房のない夏の仕事場

 同じ年、僕は高校を出て岩波書店に入社した。当時の岩波書店の社屋は現在のビルに建て替える前の古い三階建てのビルで、ここもまた冷房のない空間だった。ただし、現代思潮社とは違って、社のフロアのあちこちには扇風機が据えられていた。真夏はどの部署の社員も扇風機の風を受けながら働いた。

 ところが、例外があった。編集部だ。ここにも扇風機はあったが、停められていることが多かった。何故か。当時は、いうまでもなく編集の素材は手書き原稿である。扇風機の風を受ければ、原稿がめくれあがって仕事にならない。だから、編集者は皆扇風機をとめ、首にタオルを巻いて汗を吸い取りつつ仕事したのである。


 僕がはじめてジャズの生演奏に接したのは、そんな1965年の夏のさなかだった。ところは、銀座松屋裏にあった「ジャズ・ギャラリー8」。相倉久人さんが司会をつとめていた。


 その相倉さんに声をかけ、話をするようになったのは、同じ年の秋だったか。その翌年、相倉さんは活動の場を銀座から新宿に移す。その頃から僕はほぼ毎日相倉さんと会って話をするようになり、さらにその5年後、相倉さんを中心に創刊された雑誌『映画批評』の編集部で松田政男さんに出会うことになるのである。

2026年5月12日火曜日

松田政男さんと現代思潮社

 


 松田政男さんについて調べていて、現代思潮新社(旧現代思潮社)が昨年9月末で廃業したことを遅ればせながら知った。元編集者であるらしい柿生隠者なる方のnoteに挨拶文が引用されていた。「1961年、石井恭二が創業した株式会社現代思潮社は、2000年、石井恭二の引退を期に社名を現代思潮新社と改め再出発をし、引き続き皆様にご愛顧いただいてまいりました。しかしながら、今般、諸般の事情により、2025年9月末日をもちまして廃業することにいたしました。……」


 松田さんについて調べる途中で旧現代思潮社をキーワードに検索をかけたのは、松田さんは直接、現代思潮社は発行物を通して、僕の文筆の師であったからだ。松田さんからは、1960年代末だったろうか、新宿にあった喫茶「ぼろん亭」で長文をどう書けばいいかを教わった。「長い文章を書くときはね、いきなり原稿用紙に書き始めちゃだめなんだ。まずはプロットを作る。これから書く文章のテーマに沿って小見出しを考え、小見出しから小見出しへとつなげていく。小さなマッチ箱をいくつも作って、紐でつなげていく要領だよ」という教えだったと思う。実際に実行してみると、長い文章がスムーズに書けた。松田さんが編集同人の一員だった雑誌『映画批評』に寄稿した「祭りなきフェスティバル」という雑文がそれで、いま調べたら初出は1971年3月とある。

 現代思潮社については、60年代に同社から刊行された谷川雁の著作集が文章作成の導き手となった。4冊ある著作集のうち『原点が存在する』が特にそうだが、谷川雁の文章は語り口、リズムなどのいろいろな点で参考になった。そう、まさしく原点がそこにあった。


最後は映画の試写会で

 相倉久人さんの紹介で知己となった松田さんは、その頃は「映画評論家」が肩書だった。しかしながら、ぼろん亭での対話を何度か重ねるうちに、この人がただの映画評論家ではないことを知るのに時間はかからなかった。著作集を発行している航思社という出版社のウェブサイトの略歴欄にはこう書かれている。「都立北園高校在学中の50年に日本共産党入党。以後、共産党所感派に属しながら、高校細胞などで活動し、卒業後は職業革命家となるも、54年の総点検運動により党活動停止処分。その後、共産党神山派で活動するが、ハンガリー事件の評価をきっかけにした神山派分裂後はトロツキズムからアナキズムへ接近。60年代中期以降はゲバラやファノンの第三世界革命論を導入しながら、直接行動の原理を模索し、『テロルの回路』などの戦術論集などを発表、68年前後のアクティヴィストたちに影響を与える」

 僕はここでいうアクティヴィストではないが、『テロルの回路』『薔薇と無名者』などの著作におさめられた論考はこれまた谷川雁同様文章のお手本となった。71年5月『ボップス』に載った「音楽の〈場〉とは何か」などは松田さんの文体を模写したかのごとき文章で、雑誌の発行後に「なんだ、俺の文章を真似してくれたのか」とご本人に笑われたものだ。



 『映画批評』が終刊となった1973年以後は疎遠となった松田さんに最後にお目にかかったのは、映画の試写会でだった。作品はクリス・クリストファーソン主演の『午後の曳航』、1976年の夏だったと思う。

 それから44年を経た2020年3月17日、松田さんは肺炎で河を渡られた。87歳だった。

2026年5月11日月曜日

板橋文夫の「てぃんさぐぬ花」

 


 3年前の引っ越しの際に処分したせいもあって、わが家にあるCDは少ない。ざっと見て100枚といったところか。音楽評論家などとうの昔に廃業しているということもあるが、実は現役の頃も所有しているレコードは少なかった。終電に間に合わなくなってわが家に泊めた『毎日グラフ』の編集者が「いやあ、たったこれだけでよく音楽評論ができますねえ」とあきれたのは、1975年頃だったか。

 そんな少ないCDなのに、もらいものの悲しさ、あまり数多く聴いていないものがある。その1つ、『板橋文夫/お月さま』(アカバナ 1997年)がなぜか気になりだして、久々にじっくり聴いた。感じるものがたくさんあった。


 これはオフノートの神谷一義君がライナーノーツの原稿料の代わりにくれたうちの1枚だと思うが、彼のホームタウンでもある沖縄での録音。板橋文夫は日頃のジャズを半ば放棄して、主に沖縄の歌をストレートに弾いている。大工哲弘が歌で加わった曲も数曲ある。

 全17曲あるその中での出色と思えるのが、「てぃんさぐぬ花」。ピアニカによる演奏とピアノによる演奏の2つのバージョンが収録されている。どちらも原曲のメロディーを素直に弾いているのだが、味わいはそれぞれ異なる。共通しているのは、要は美しさだ。


 聴いていて、71年のある夜のことをふと思い出した。その年にオープンした渋谷BYG。オープニングイベントは、地下でのジャズだった。初日は山下洋輔さん、2日目がこの板橋文夫さん。通路の狭さのために仕方なく入れた家庭用のブラザーのピアノのペダルは初日に1つ、2日目に1つへし折られた。国立音大出身の剛力ピアニスト2人のおそろしさよ。

 そんな板橋さんが、このアルバムでは抒情に徹している。それらの演奏は、弾くというより、ピアノを通してつぶやいているような感じがする。大工さんが加わると、つぶやきがそのまま歌に昇華するといった印象になる。


魔除けにされる赤い花

 「てぃんさぐぬ花」とは、ホウセンカのことだ。沖縄では、赤いホウセンカの花から汁をしぼり、これを爪に塗って魔除けにするらしい。どうせなら大工さん入りの歌バージョンも入れればよかったのにと思うが、こればかりはどうにもならない。

 ちなみに、YouTubeには夏川りみによる歌唱がある(https://www.youtube.com/watch?v=QUeiw3T0Z9Y&list=RDQUeiw3T0Z9Y&start_radio=1)。三線の弾き語りで歌われていて、これがまた素晴らしい。


 ちなみに、元歌はこんな歌詞が歌われる。


  宝玉(タカラダマ)やてぃん

  磨(ミガ)かにば錆(サビ)す

  朝夕(アサユ)肝(チム)磨(ミガ)ち

  浮世(ウチユ)渡(ワタ)ら

  ───

  宝石も

  磨かなくては錆びてしまう

  朝晩心を磨いて、

  世の中を生きていこう。


2026年5月9日土曜日

縁でつながれた詩

 


 「縁」というものがある。

 昨日5月8日の早朝、夢で兵庫在の泉井小太郎さんに再会した。およそ28年振り。夢の中でのことだから本当の再会ではないが、それでもこよなく懐かしい。それで、その日の夜になってからだが、泉井さんが奥様である音座マリカさんと運営するサイト「六角文庫」(http://rokkaku.que.jp/)にアクセス。「泉井小太郎の書斎」と題されたコーナーでこんな詩に出合った。


  雨の九日

  さかんに

  誰やらのへまが降っている

  と眺めていたら

  そうだった

  死んだ者のへまは

  へまではなくなるのだった


 歌の世界に「アンサーソング」というものがあるが、これはその部類。アンサーソング、いや返歌、いや返詩である。誰に向かってかというと、淵上毛錢なる大正初期生まれの詩人。僕ははじめてこの人の名を知った。こういうのを「縁」というのではないか。


義理と人情、縁談

 早速青空文庫にアクセスしてみたが、登録されてはいない。それでも、ネットでしつこく検索すると、こんな詩作品に巡りあった。


   「縁談」


  蛙がわづかに

  六月の小径に

  足あとを残し


  夜が来て

  芋の根つこに

  蛙が枕したとき


  村の

  義理と人情が

  提灯をとぼして


  それもさうだが万事おれにまかせて

  嫁に貰ふことにして

  そんな話が歩いてゐた


 笑った。何も書かれてはいないのに、人のよさそうな村人の顔が浮かぶ。


 以下、ウィキペディアから。


淵上 毛錢 (ふちがみ もうせん、1915年〈大正4年〉1月13日 - 1950年〈昭和25年〉3月9日)は日本の詩人。


概要

熊本県葦北郡水俣町(現・水俣市)に生まれる。本名・喬(たかし)。東京の青山学院中学部へ進学する。東京では、詩人山之口貘の知遇を得、のちのちまで交流は続いた[1]。脊椎カリエスを病んで青山学院を中退・帰郷。以後、寝たきりの生活を余儀なくされる。病床で詩作を始め、「九州文学」などに作品を発表。また戦後の1946年、水俣青年文化会議を組織するなど、郷里の文化活動の発展に貢献した。1950年、35歳で死去。


代表作に「柱時計」「寝姿」など。ユーモラス、また一面スケールの大きい詩風と評される。

2026年5月7日木曜日

仏教世界のメシアの体現者

 


 やっと連休が明けた図書館で『菊地章太/弥勒信仰のアジア』(大修館書店、2003年)を借りてきた。適当にページを繰ると、こんな記述が目に入った。

 アジアの仏教圏において、未来仏弥勒が信仰された時代や地域をかえりみると、そこにはなんらかの共通性があるように思われる。それは王朝や国家が滅亡にひんした混乱のきわみであることが多かった。それはいずれも苦難の時代であった。現在の世にもはや救いが求められないとき、人々は未来に希望を託すほかなかったのか。

 いまこそ弥勒信仰が求められる時代かと思った。


いつか拝観した広隆寺の弥勒

 広隆寺の弥勒を拝観したのは、忘れもしない、1976年の9月だ。シンガー・ソングライターのエリック・アンダースンが来日し、京都のライヴハウス「拾得」でライヴを行った。当時、雑誌『ニューミュージック・マガジン』の編集部にいた太田克彦さんに誘われて、見に行った。その翌日、これまた太田さんに誘われて、広隆寺へ行った。そして見た。

 僕は、仏像には格別の関心はない。かつてもいまもそうだ。ところが、その僕が、広隆寺の弥勒を一目見たとたん、電撃におそわれた。その美しさに目を奪われた。その後、5年ほど経ってから再度出かけたが、印象はさらに増幅するばかりだった。あれほど美しい彫刻は、この世に2つとない。そう思う。

 もっとも、これは言ってみれば「美術品としての鑑賞」の結果でしかない。初見から50年、僕は弥勒について何も知らなかった。知ろうともしなかった。稲垣足穂の「弥勒」は読んだが、それだけだった。いまになって、弥勒がどういう存在なのかを知った。こういうことだ。

「弥勒は未来仏である。人間が8万歳になったとき、この世に現れる。仏教世界のメシアの体現者として」

 そうか、そういうことなのか。あらためて弥勒について読み、考えるとしよう。『弥勒信仰のアジア』はまだ借りてきたばかりだが。


2026年5月6日水曜日

向田邦子の日記と恋文

 



「今日も、道路工事でうるさい。10時半ごろ陽光がみられるようになったので、神田へ出て本をさがして歩くが、今日は少し具合が悪いようだ。

 邦子へ電話し、柏水堂へよってホテルへ行く。少し話をして帰る。

 帰りは電車だったが、やっぱり少しこんで来た。高円寺でそばを食って家へ」(『向田邦子の恋文』「N氏の日記 昭和38年12月12日」)


「きのうは陣中見舞有難うございました。

 つまらなくて、ぼつぼつオヒスがおこりかけていたところだったので、とてもうれしかった。

……

 妹のはなしだと、ロクベエの落タンぶりは見るも哀れだとかで、私がいないと、火の気のない私のコタツの上でないているようで、母などホロリの一幕があったそうです。やっぱりアイツはいい奴だ。誰かさんみたいに、こなくても平気だよ、なんて、ひどいことはいわないもん」

(『向田邦子の恋文』「向田邦子からN氏宛手紙 昭和38年12月13日消印」)


 『向田和子/向田邦子の恋文』を再読する。

 日記と恋文、そしてエッセイからなる1冊。日記は“N氏”によるもの。恋文は向田邦子がそのN氏に宛てて出したもの。この日記と恋文が、本の前半部をなしている。あらためてしみじみと読んだ。暗い話など何も書かれていないのに、読んでいて涙が出そうになった。


 N氏は向田邦子の“隠れた恋人”だった。知りあったのは、向田邦子の最初の勤務先となった教育映画制作の財政文化社でだったという。彼はカメラマンだった。しかし、妻子があった。本の後半部をなす向田和子のエッセイによれば、背丈の低いずんぐりむっくりの人だったらしい。が、向田邦子は、あまり風采のあがらないその人に恋をした。よほど通じ合うところがあったのだろう。

 N氏はのちに離婚したようで、本に収録されている日記と恋文はそれ以後、N氏が母親と暮らすようになってからのものだ。この時期、向田邦子は超売れっ子で、ホテルにこもってシナリオを書く日々が多くなっていた。恋文の多くは、そのホテルの便箋に書かれたものだ。上の引用も、神保町の洋菓子店・柏水堂で買ったケーキをみやげにN氏がホテルを訪ねた日の日記と、その翌日に出された手紙の一部だ。

 本に合わせて“恋文”と書いたが、実は恋文らしい恋文はほとんどない。向田台本によるラジオ番組の感想を主につづられているN氏の日記もそうだが、病気がちだったN氏を気遣う記述はあるものの、多くは仕事が思うように進まない毎日のことが淡々と書かれている。2人が大人らしい大人の関係であったことを示すような大人の文章。しかし、それでいて、向田邦子が少女のような可愛らしさを覗かせることがある。それが愛猫にふれてあてつけを書いた上記の引用。N氏は、向田邦子にとって、甘えることのできる数少ない1人でもあったのだろう。


自分の才能に充分な自信の持てない人だったか

 そんな恋文らしくない恋文を読みながら、僕は別のことを考えていた。手紙の中で、向田邦子はしばしば仕事が進まないことにいらだち、自分を怠け者とののしっている。同年生まれの早坂暁のシナリオを読んで感嘆し、自分とは頭のできが違うと述べる部分もあった。察するところ、自分の才能に充分な自信の持てない人だったらしい。これは、僕には意外だった。あれほどの才気あふれる人だったのだから。


 1981年(昭和56年)、向田邦子が飛行機事故で亡くなったとき、僕はたまたま彼女が第二の故郷と呼んでいた鹿児島にいた。鹿児島のテレビは大騒ぎだった。死去を知らせるニュースが一日中繰り返され、鹿児島時代の写真が何度も画面に出た。

 あのとき、このN氏はどうしていたのだろうと、ふと思った。しかし、本を読み進むと、それはありえないことだったとわかった。向田邦子より13歳年長だったN氏はそれよりずっと早くこの世の人ではなくなっていたのだ。遺品として残されたものを引き取ったのだろう、向田邦子は彼の日記と自分が彼に宛てて送った手紙を茶封筒1つにまとめ、15年あまり大切に保管していた。


2026年5月5日火曜日

薄味人生、最終列車

 


 YouTubeで久々につれれこ社中『雲』を聴く。「煮込みワルツ」がなんだか懐かしい。


  つみれの花の咲く頃に 鶉うづらとまどろめば

  竹輪の友の夢を見る 空にがんもどきの群れ遠く

  ふやけて半片雲になれ 千切れて蒟蒻石になれ

  流れて白滝風になれ 輝いて銀杏星になれ

  (上野茂都「煮込みワルツ」)


薄味人生もまたよし

 わが家の食事は、ひたすら薄味に向かう毎日だ。最近頻繁に食卓にのぼるのが「白菜と豆腐の鍋」。昆布とカツオで出汁をとるが、豆腐を手でちぎって入れて包丁で切った白菜を加え、それ以外には何も入れずに加熱。白菜がやわらかくなったら食べる。食べるときも、ポン酢の類はいっさい使わない。そのまま食べる。老人食だな。


 昼の食事も似たようなものだ。月に1〜2回塩ラーメンを作る。昼だから半分インスタントであって、マルちゃん印の「タンメン」を使う。これ自体が市販の他の塩ラーメンに比べて塩味控えめなのだが、それに加えて、豚肉、もやし、キャベツ、人参、椎茸といった具は油で炒めることなく、ゆがくだけ。ゆがくのに使った湯でラーメンのスープを作る。油で炒めた焼けこげが混じらないから、スープも白く澄んだままだ。

 若い頃は、どちらかといえば濃いめの味を好んだと思う。独身の頃、外で飲む余裕がないので、白波の一升瓶を買って、毎夜お湯割りを飲んだが、つまみはすべて自分で作った。ジャガイモやカボチャの煮物であることが多かったが、かなりきつい醤油味だったと思う。

 その頃からすると嘘みたいなのだが、薄味で満足しているのは、要するに年齢を重ねてきた証左だろう。濃い味に対する抵抗感が強くなってきた。やたらに喉が渇くのも避けたい。

 だが、それだけではない。食材は本来調味しなくても人を喜ばせる元々の味を持つ。白菜の甘みと旨味はその典型だ。「白菜と豆腐の鍋」でいえば、だし汁のしみこんだ豆腐(綿豆腐)にもほのかな甘みがある。手でちぎるのは、だし汁がよくしみこむようにするためだ。

 ただし、がつがつかっ込んで食ったら、そのことには気づかないだろう。まずはよく噛む。すると、味がにじみ出てくる、感じることができる。


 わが家は、この先、この路線でいくことを決めた。薄味人生、最終列車だ。それでいいじゃないか。


2026年5月4日月曜日

『新宿百店』から『銀座百点』へ

 


 酒井五郎さんの『新宿Pit-inn、渋谷BYGはおれが創った』を読み直していて、雑誌『銀座百点』の名が思い浮かんだ。酒井さんが作った『新宿百店』→『銀座百点』という発想。『新宿百店』は『銀座百点』を真似て作られた。

 『銀座百点』はいまも出ているのだろうかと思って検索したら、すぐにHPにたどり着いた。トップページの挨拶文が下記。「ない知恵を絞って」と書かれているところが、何となく気に入った。


「銀座百点」は1955年(昭和30年)に創刊されました。

銀座のかおりをお届けする雑誌として、情報だけでなく、銀座の文化を表現することにポイントを置いて編集しています。

中でも各界の有名人によるエッセイ、座談会は読み応え十分です。

創刊号から久保田万太郎、吉屋信子、源氏鶏太ら著名なメンバーが執筆陣に加わり、その伝統は現在まで受け継がれています。

また、小誌の連載からは向田邦子「父の詫び状」、池波正太郎「銀座日記」、和田誠「銀座界隈ドキドキの日々」などベストセラーがたくさん生まれています。

女性スタッフが銀座じゅうを歩き、アンテナを張り、ない知恵を絞って毎月の企画をたてています。

銀座の街で、ぜひお手にとってお読みください。(『銀座百点』HP https://www.hyakuten.or.jp/)


『銀座24の物語』という1冊

 銀座百店会のPR誌であるこの雑誌をいちばん熱心に読んだのは、『父の詫び状』が連載されていたころだろう。調べてみると連載が始まったのは1976年で、2年後には単行本化されている。ということは、その2年間に何度かは目を通したことになる。銀座にある広告代理店に友達が勤めていて、そのころは何かと銀座へ出かけた。たいていは松屋裏の和菓子店(名前は忘れた)の喫茶コーナーで会い、そこに置いてあったのを読んだのではなかったか。


 というようなことを思い出したのは、たまたま図書館で『銀座24の物語』という1冊を読んだからだ。『銀座百点』に掲載された24人の作家による短編を集めたもので、2001年に文藝春秋から出ている。すべての作品が当然ながら“銀座”をテーマに書かれていて、文芸誌のアンソロジーでは出ないだろう味がある。


 ただし、質は粒選りかというと、そうでもない。藤沢周「Coffee and Cigarettes 3のトム・ウェイツについて」に惹かれて読み出したのだったが、これはつまらなかった。椎名誠「銀座の貧乏の物語」、大岡玲「銀座の穴」もつまらなかった。全部読んだわけではないが、なかで強く引き込まれたのが、皆川博子「迷路」だった。

 方向音痴の女性画家がやっとの思いで展覧会の会場までたどり着く話。引っ越したばかりの家に戻れなくなった子どものときのエピソードから始まるが、これが物語全体の暗示になっていて、迷いつつ画廊を目指す語り手の脳裏に去来するのは、自分が生まれた一家の崩壊の顚末だ。画家を志したが許されずに銀行に就職した弟の自殺、母の病気による早世、外に女を作った父……といったことが、人に道を尋ねるように淡々とさりげなくとぎれとぎれに描かれていく。現実の路上ではなく、人生の道筋を見失った女性の独白といえばいいか。ちょっとせつないけれど、現実から空想の世界へひょいとまたぐようなラストの数行にも心を奪われた。

 皆川博子さんは児童文学から出発し、のちにサスペンス系のミステリ〜幻想小説、時代小説に転向した人だが、僕は今回が初読。いや、前に『写楽』を少し読みかじった気がするが、何も覚えていない。この1作を読んだかぎりでは、人の心理を描くのに長けている。この人の父親は心霊術の著名な研究者だそうだから、血筋というものか。


 おっと、いま思い出した。例の和菓子店の名は「清月堂」だ。


2026年5月2日土曜日

岡田隆彦さんの葬儀の夜

 


 いまでは考えられないことだが、1960年代、雑誌等のメディアには作家や芸能人の住所と電話番号が堂々と掲載されていた。それを見て、多数のファンが自宅へ押しかけたことだろうと想像される。

 かく言う僕も、一度だけそういう行為を実行したことがある。ターゲットは詩人で美術評論家の岡田隆彦さん。僕自身の発案ではないのだが、ジャズ喫茶「響」の常連のUさんにそそのかされて一緒に出かけたのだった。

 岡田さん、時に37歳。詩人としても美術評論家としても若手ではピカイチの存在だったが、訪ねたのは詩や評論に惹かれたからではない。1966年7月、ジョン・コルトレーンが来日し、全国で公演を行った。さまざまなメディアで大きく取り上げられたが、その中でも印象的な記事の一つに日本読書新聞に載ったコンサート評があった。その筆者が岡田さんだった。

 ということは、僕らは66年7月の月末に岡田宅を訪問したのに違いない。


 岡田宅は東京は赤坂、日枝神社の近くにあった。いまではもう記憶は薄れているが、木造の一軒家。電話であらかじめ伝えたのではなく、いきなりの訪問だったが、インターフォンで用件を述べると、岡田さんご自身が現れ、中庭へ案内してくださった。縁側に座って歓談。

 話題はこれまた詩や美術評論ではなく、もっぱらコルトレーンとジャズをめぐってだった。岡田さんにとってはジャズへの関心が大きく高まりつつあった時期だったらしく、話の攻守が入れ替わり、ジャズについての質問を次々と受けた。ほんの30分程度で切り上げるつもりだった会談は途切れることなく続き、1時間ほど経過した頃合いだったろうか、詩集『史乃命』(新芸術社、1963年)で知られる史乃さんの手でビールが運ばれてきた。恐縮しつついただいた。


 話はそれだけのことだが、岡田さんは僕を気に入ってくださったようで、それから後、著書が送られてくるようになった。著書には見返しの部分にブルーブラックのインクで上の写真のようなサインが入れてあった。


出会いは一度きりだった

 いま振り返ると実にもったいないことという思いがするが、赤坂への訪問以後、新しい著書が出る度に贈呈を受けたが、ご本人にお目にかかる機会はなかった。お礼の葉書を出すのが精一杯だった。一度だけ書店のサイン会でお目にかかった気もするが、さだかでない。

 そうするうちに1970年代が来て、僕はジャズを離れた。岡田さんに会っても、もう話すべきことはなくなったということだ。


 それから30年近くが経過した1997年2月26日、岡田さんは下咽頭ガンで旅立たれた。まだ57歳の若さだった。

 葬儀はその数日後だったか、ぜひとも参列せねばと思ったのだが、事情あって行けなかった。葬儀の夜はどしゃぶりの雨だったことをいま思い出す。

2026年5月1日金曜日

桑原一世『クロス・ロード』再読

 


 先に逝ってしまった人を想うことの多い毎日だが、シャルル・ルイ・フィリップの『小さな町』を読み返していて、「クロス・ロード」という言葉がぽっと思い浮かんだ。亡き桑原一世さんの一作のタイトル。すばる文学賞受賞作だ。受賞を祝って渋谷の「三漁洞」に集まったのは、あれは1988年の1月だったか、2月だったか。

 38年も前のこととあって、記憶は薄れている。三漁洞の玄関口で参加者全員が祝いの言葉を贈ったと思うが、誰がそこにいたのかは全く思い出せない。ただ、心の底から祝う気持ちでいたことだけは、いまも記憶の隅にとどまっている。


 思い出したがグッドタイミング。早速、『クロス・ロード』を読む。実に38年ぶりの再読となる。

 

 改札をぬけ、銀座通りを足早に通りすぎると、ぼくは交差点で立ちどまった。左手に渡れば、なだらかな丘陵地帯があり、ぼくの家がある。右手に渡って少し歩くとラブホテルの並ぶ幅広のドブ川があり、その先をさらに行けばコンクリートの堤防の向こうに海が見える。


 最初の1行からすっと呼び込まれた。文章のリズムが心地良い。そうして、リズムにうながされるように段落から段落へと視線はスピーディーに移る。作家があちこちにまぶしたユーモアに心ゆさぶられながら。


 浴槽の中で、ぼくのチンポコは海草に包まれた沈没船だ。人類の歴史をつくる子孫が何億人も乗っているのに、魔のバーミューダ海域に沈んでしまった。クラスの誰かがマザコンはインポテンツになると言っていたが、ぼくのも役立たずになるのだろうか。ぼくはぐにゃぐにゃのチンポコの先を湯比でつまんで天井に向けた。さぁ、立て。しゃんと立って、人類の子孫を吐き出せ。


 38年も経って、作者の文章表現の巧みさをあらためて確認した。ブラボー!


桑原一世(北中幸子)さんをめぐる心残り

 桑原一世こと北中(藤堂)幸子さんは、1960年代末期からの友人である。伴侶である北中正和さんのアパートを訪ねたときが、最初の出会いだったと思う。下北沢の住宅街の片隅の6畳1DKで、入ると幸子さんが何やら壁に飾りつけをしていたのを思い出す。生き生きした空気が部屋を満たしていた。貧しいけれど、幸福感がいっぱいだった。


 その後30数年間あまり、北中夫妻と僕はもっぱら酒席をともにする仲になっていくのだが、いま振り返ると心残りがある。

 1998年の年末か翌年の年初だったと思う、青空文庫で公開していた桑原一世名義の論考「人間の基本―いじめっ子はなぜ生まれるか」について話がしたいということで家に呼ばれた。軽い気持ちで行ったのだが、実際の面談はぎくしゃくした運びになった。彼女が論考のある部分について僕に意見を求める。すると、僕は否定的な見解を述べる。その繰り返しになった。そして、それが1時間ほど続いたところで、長い沈黙がはさまれた。ほどなく、一世さんは黙って部屋を出て行く。突然の面談の決裂だった。


 北中幸子さんが逝ったのはそれから6〜7年ののち、2006年2月28日のことである。肺癌の闘病を数年続けての最期だった。

2026年4月30日木曜日

メタセコイアと河野典生さん

 


[メタセコイア]メタセコイア(学名:Metasequoia glyptostroboides)は、スギ科メタセコイア属の針葉樹。1属1種。和名はアケボノスギ(曙杉)、イチイヒノキ。和名のアケボノスギは、英名Dawn Redwood(または、学名Metasequoia)を訳したもの(ただし、化石種と現生種を別種とする学説もある)。(ウィキペディア)


 京王線八幡山駅近くにある都立松沢病院。その中庭にそそり立つひときわ印象的な樹木がある。メタセコイアだ。約6,500万年前の新生代から存在するとされる、生きた化石。樹形も独特で、きわだった存在感がある。

 そんなメタセコイアという樹種を知ったのは、河野典生の作品でだった。どの作品かは忘れた。SFの『緑の時代』(1972)だったかもしれないし、エッセイ集の『街の博物誌』(1974)だったかもしれない。装画が新井苑子だった記憶があるのに、書名は覚えていない。どちらにしても、あいにく本はもう手元にはない。

 手元に残っている河野作品では、『ペインティング・ナイフの群像』(1974)をいまもときどき開いて読む。短編とショートショートを集めた1冊だが、時代風俗を描いた長編映画が古くなっても、一場面のスチールが古くならないことがあるように、いま読んでも新鮮な発見がある。


「壁」と題された一編がある。「倉庫に似たジャズを演奏する店の壁は」と始まるこれは、わずか4行の超ショートショート。しかし、いまのようにけばしばしくなる前の、簡素なジャズのライブスポットに通った経験のある者なら、ここからいくつもの光景を導き出すことができる。小説と読み手とのダイナミックな関係がここにある。


河野典生さんの思い出

 河野さんには、60年代末に新宿ピットインで何度もお目にかかっている。たいていは筒井康隆さんと一緒だった。河野、筒井ご両所に相倉久人、平岡正明、江藤政治(雑誌『ジャズ批評』初期の編集者)を加えて、戸川昌子経営のバー「蒼ざめた肌」にご一緒したこともある。酔った唐十郎と土方巽がやって来て平岡さんに喧嘩を売り、あわや乱闘となりかけた一夜で、忘れられない記憶になっている。


 ご自宅を訪ねたこともある。お宅は小田急・読売ランド駅の近くの住宅地にあり、2軒手前だったろうか、でっかいシェパードの番犬がいて、猛烈に吠えられたのを思い出す。何かの原稿の受け取りでお邪魔したのだったが、インドで買ってきたというカップで出されたコーヒーのうまさがいまも心に残っている。

 河野さんは、人間関係の激しいもつれを描いたハードボイルド作品諸作とはうらはらに、心やさしい人だった。そのやさしさに甘えて、僕が好きな「腐ったオリーブ」など河野作品の話をついつい遠慮なしにしてしまった。何を言っても、河野さんは穏やかな笑みをたたえて聞いてくださった。


 河野さんは、今から14年前の2012年1月29日、相模原市内の病院で亡くなられた。77歳だった。

2026年4月29日水曜日

モーツァルトを聴く人

 


 谷川俊太郎に『モーツァルトを聴く人』という詩集がある。1995年に出た1冊だが、この詩人には珍しくセンチメンタルな感情表現の色濃い作品が多い。猛烈に濃い蔭を感じさせるものもある。谷川俊太郎、このとき60代半ば。勝手な想像だが、彼は恋をし、失恋したのではないか。次のような詩句がそんな想像をかきたてる。


 何年か前モーツァルトを聴きながら車を運転して

 涙で前が見えなくなって危なかったことが何度かあった

 もうぼくは人の言葉は聞きたくなかったんだそのころ

 特にあの女の言うことは


 モーツァルトは許してくれた

 少なくともテープが回ってる間は

 だがあの女は一瞬たりともほくを許さなかった

 当然だ

 (「つまりきみは」)


感情のバランスを保つ音楽

 詩人が語るモーツァルトの音楽には、母親を失った悲しみもからんでいる。この人の母はピアノを弾く人で、モーツァルトを好んで演奏したらしい。認知症になり、好きな酒がないとオーデコロンを飲むまでになっても、なお弾いた。脳が三歳児に等しいところまで収縮し、やがて死が訪れた。「ふたつのロンド」という詩では、そういう物語(短くてもこれは物語だ)が描かれている。

 音楽がもたらす幸せにはいつもある寂しさがひそんでいる

 帰ることのできぬ過去と

 行き着くことのできぬ未来によって作り出された現在の幻が

 まるでブラック・ホールのように

 人の欲望や悔恨そして愛する苦しみまでも吸いこんでしまう

 (「ふたつのロンド」)

 ここから、僕は10年前に死んだ母親がその晩年同じく三歳児程度の脳と思われる状態となったある日突然絵本を読み出したことを思い浮かべた。大正14年生まれの幼児。もっとも、僕の母親がかつて好んだのはモーツァルトではなく、南こうせつだったが。

 息子の僕は、南こうせつは全く聴かない。モーツァルトも、いまはあまり聴かない。モーツァルトを一番聴いたのは20代だ。60年代末、土曜の夜の新宿・ピットインは山下洋輔トリオと決まっていて、半ドンの仕事を終えていったん家に戻ると、出かける前にモーツァルトを聴いた。なぜだかはよくわからない。

 そんな話をしたら、「おれはブラームスだ」といった人がいる。17年前に亡くなった平岡正明さんだ。山下トリオの破壊的創造とはおよそ対照的な弦楽の響き。感情のバランスを保つために必要だったのかもしれない。


 前にも書いたが、大切な人を喪って精神のバランスを完全に崩してしまった人に、モーツァルトを贈ったことがある。キアラ・バンキーニ率いるアンサンブル415が演奏する「ト短調クインテットK.516」。冬だった。暖房を切った部屋で毛布にくるまり、毎日泣きながら聴いたと、その人は言っていた。涙はすべてを流し去った。モーツァルトの音楽に救われた、とも言っていたっけ。

 そんなことも起こりうるのがモーツァルトの音楽なのだが、残念ながら僕自身がその種の効果を体験したことはない。ただただ美しい音楽というだけだ。

2026年4月28日火曜日

静かなバーめざして

 


 古くからの友人と酒場で会う約束をした。「もう満足に歩くことができない。無理だ」と一旦は断ったのだが、敵は「這ってでも出て来い」という。じゃあ、這っていくかと返事した。

 近々のことではなく、そのうちにということなのだが、どこのどの酒場がいいだろう……と、しばし考える。これがなかなか楽しい。

 僕がこの世で一番好きだった酒場は四谷3丁目のバー「司」で、地下の店だったが、階段を降りていくときからうきうきしたものだ。階下に着地すると、そこは木の調度一色。厚手の木材を磨き上げたカウンターが、なかでも心地よかった。談論風発する酒場ではなく、会話は控え目に、静かに酒を楽しむ場所だった。

 だが、「司」はもうない。


静かなバーがいい

 『永井龍男/東京の横丁』にも酒場の話が出てくる。


「俗人と云うものは、つまらぬことを連想する。二僧が徳利の酒を酌み交す仕草をしげしげ眺めているうちに、若い自分に通った酒場の雰囲気を私は思い出した。素性の知れた銀座の酒場は、どこも静かなもので、バーテンが棚の洋酒の瓶を取り、カウンターでグラスに注ぐ洋酒の音が、かなり遠いテーブルに居ても、聞えてきたような気がする。それが、酒場の持つ色気に通じるかも知れなかった」(「五百羅漢」)

 川越の五百羅漢を眺めていて心に浮かんだことの回想だが、これはとてもよくわかる。僕自身は、銀座の酒場にはさほど深い縁はない。だが、母親が勤めていた銀座のバーには何度か入ったことがあるし、それ以外でも、主に御馳走になる場として幾軒かの酒場に入ったことはある。

 そうして、銀座の酒場の特色はと考えると、答えは1つ。「静かさ」なのだ。そこに銀座ならではの空気がある。


 銀座ではないが、「司」も静かだった。レコード・プレーヤーがあって、音楽が鳴ってはいたが、ジョニー・ハートマンなどのごくごく静かで控え目なジャズ・ヴォーカルが主だった。これはむしろ静かさを引き立てる効果があった。

 といったことをつらつら考えていて、これは一度行ってみなければと思う酒場にWebでめぐりあったのは、この1月のある日のことだった。店の名はBAR ground line。店主の吉田健吾という人がnoteにかつて神保町にあったジャズ喫茶「響」のことを書かれていて、ネット検索でそこにたどり着いた。

 行くならここだな。

2026年4月23日木曜日

茶畑の風景に見とれて

 


 どういうものか、僕は茶畑の風景がこよなく好きで、中部方面へ出張することが多かったかつての一時期は、列車が静岡あたりを通り過ぎるとき、車窓越しに飽かず眺めたものだった。いまでも、唱歌の「茶つみ」などを聴くと、その頃のことを思い出し、また行きたくなる。


 一面の緑の中に白い茶の花が点々と咲いているのもいい風景と思うが、これは農家の人にとってはありがたくない徴候なのだという。なぜかといえば、肥料を充分に吸収した茶の木は、花を咲かせない。花は、茶の木が与えられた養分に満足していない証拠なのだ。

 植物が花を咲かせるのは、いうまでもなく開花して種子を結び、その種子から子孫を繁殖させていくためだが、このような繁殖による生長を「成熟生長」という。ここでは、「成熟」とは「死」とほとんど同義とみなしていいだろう。人間でいえば、まさしく老衰か。

 茶の木については、農家の人はこの成熟生長をさせないように管理する。その代わりに、彼らは茶の幼い枝を折り曲げ、折り口を地中に差し込んで発根させ、これを苗にする。こちらは「栄養繁殖」「栄養生長」と呼ぶらしい。

 栄養繁殖は、どう見ても自然の摂理に反することと言っていいだろう。そうして本来の形で寿命を全うすることなく、枝を切り取られてしまう木々は、やがて死を迎えるとき、幸福に死んでいけるのだろうか。茶を飲みながら、ふとそう思うことがある。


 廃業したいまはもう遠くへ出かけることもなくなったが、かつて見とれた茶畑の風景を想像していると、思いは鹿児島へと飛ぶ。霧島市の鹿児島空港から鹿児島市へと向かう道の周りは、一面の茶畑だ。茶の生産量も、鹿児島が全国トップ。しかも、質が高い。実際、京都の宇治茶の一部は、鹿児島産の茶葉から作られているそうな。

 茶畑に惹かれて、いつか鹿児島に移り住むのもいいなと思ったりする。

2026年4月20日月曜日

50歳は黄昏の始まり

 


 もう四半世紀以上も前のことになるが、50歳という年齢が近づいてきたときに真っ先に意識したのは、「黄昏」だった。少し年齢が下の人と話をするとき、「50歳とは峠だよ、休息して来し方行く末を思うのさ」としばしば言うのだが、その峠は沈みゆく太陽の残光につつまれている。といえば、自分の内側にあるイメージが多少なりともつかんでもらえるだろうか。

 物事にはすべてはじまりがある。現実の「黄昏」を鮮烈に体験したのは古くて、小学生のときだった。東京は北区の赤羽に、親類の家があった。親類の中でも最も親しくしていた家だったので、しばしば家族揃って遊びに行った。あるとき、少し年長の従姉妹が「汽車を見に行こう」といい、一緒に外に出た。

 行った先は、東北線だろう、線路にまたがる橋の上だった。ほどなく汽笛が聞こえ、と思うまもなく、列車が轟音とともに近づいてきた。いうまでもない、先頭は蒸気機関車である。

 その頃暮らしていた東京の下町の外れでは都電やトロリーバスを見る毎日で、蒸気機関車を上から見るのはそれがはじめての体験だった。その迫力に驚愕した、度肝をぬかれた。

 しかし、列車はあっという間に通りすぎて行った。その行く手を視線で追うと、まだ高い建物など数えるほどしかなかった町並みが淡いシルエットとなってそこにあった。その上に、茜色の空が広がっていた。


ちあきなおみの「黄昏のビギン」

 ちあきなおみの「黄昏のビギン」を聴いている。うっとりしつつ聴いている。



 イントロは、50年代のアメリカのスタンダードのムードである。ジャズ・ファンなら、『Lady in Satin』を即座に思い浮かべるだろう。われらがレディ・デイのために、レイ・エリスが心を砕いてアレンジしたストリングスの調べ。それと同質のものからこの歌は始まる。

  雨に濡れてた たそがれの街

  あなたと会った 初めての夜

 「情景音楽」といういいまわしがある。音の形や動きから情景が連想される音楽。スメタナの「ブルタバ(モルダウ)」あたりが典型だろうか。

 同じように、この歌は最初の2行で聴き手の心にすっと入り込み、そこに夕闇迫る都会の一場面を鮮やかに浮かび上がらせる。歌詞を字面として見れば、これはまた実に凡庸というしかない単語の羅列。それがひとたび歌い手の声と背景を包む音に乗れば、全く異なる効果がそこに生ずる。

 歌のマジックだ、歌が歌である所以だ。


2026年4月18日土曜日

『広辞苑』をめぐる非売品の文庫本

 


 図書館の文庫本の棚を眺めていて、妙な本に目がとまった。題して『広辞苑をつくるひと』。著者は作家の三浦しをんだが、Amazonで書名、作家名で検索しても、この1冊は出て来ない。それもそのはず、2017年、『広辞苑』第7版の発行を機に発行された非売品だからだ。

 『広辞苑』制作に深い関わりをもつ国立国語研究所、大日本印刷、イラストレーター大片忠明・冨田幸光、加藤製函所、牧製本印刷に取材した5章で構成されている。いまから58年前の大昔、僕は発行元である岩波書店の辞典部に所属して『広辞苑』第3版の改訂作業に従事したが、国立国語研究所及び二人のイラストレーターについてはその存在すら知らなかった。おそらくは制作がデジタル化されて以降に関わってきた人たちではないかと思う。


 実際、大日本印刷に取材された第2章に顕著だが、日本を代表する国語辞典である『広辞苑』の歴史を振り返ると、もっともドラスティックな変化はやはり制作のデジタル化だったろうと思われる。活版印刷時代の植字、オフセット印刷時代初期の植字に基づく清刷版下は、デジタル化とともに消えた。作業と技術だけでなく、それらに携わった人たちも消えた。そして、その中には僕自身も含まれるのである。

 辞典部に在籍したのは1967〜68の2年間だが、その間の僕の仕事は清刷の修正作業だった。清刷というのは植字工によって組み上げられた組版ガレージ(枠)をコート紙に印刷したもので、これを写真製版してオフセット印刷する。と言えば簡単だが、実際には当時の技術の制限もあって、清刷に刷られた文字にはあちこちに微細な欠けがある。これを筆先が極度に細くつくられた筆と墨で修正していくのが僕の仕事だった。光を強く反射するコート紙に目を凝らしての細かい作業は目に著しく影響を及ぼし、僕の視力はその2年の閒に1.8→o.6へと急降下した。診察を受けた眼科医に「仕事を辞めたほうがいい」と忠告されたものだ。

 清刷がどれだけの期間使われたものかはあいにく知らないが、修正作業を担当したのはもっぱら女性。男の担当者は、岩波書店の歴史の上でも僕一人ではなかろうか。担当セクションは僕を除いて正社員ではなく嘱託の女性の集まりで、その中の一人と恋に落ちるという余録はあったが、あの仕事はやはり避けて通るべきだったなあといまも思う。

 ちなみに、僕は『広辞苑』の執筆者の一人でもある。僕が音楽好き、それもジャズをはじめとするポピュラー音楽好きであることを知った辞典部の誰かから、「ポピュラー音楽関連の項目を書き直してほしい」との依頼があった。言われて第2版の『広辞苑』を開くと、ポピュラー音楽関連の項目が実にひどい。でたらめと言ってもおかしくないものが目立つ。結果、それで新項目を含めて90項目ほどを書くことになった。

 いまでも覚えている項目がある。「ブルース」だ。ブルースの項はこう書かれていた。「ブルース ダンス音楽の一つ」

 冗談のようだが、本当の話だ。そうして、僕は次のように書き直した。

ブルース【blues】①一九世紀末にアメリカの黒人の間に生れた大衆歌曲。ヨーロッパ音楽にない独特の音階・旋法を用い、三行詩型一二小節が基本型。多くは個人の苦悩や絶望感を即興的に歌った。ジャズの成立にも大きく影響。②社交ダンス用に演奏される四分の四拍子の哀調をおびた曲。

 これは現在の『広辞苑』にもそのまま受け継がれているはずだ。


Nさんのデリケートな音楽耳

 『広辞苑』改訂のスタッフは7〜8人の校正マンを中心に構成されていたが、その中に定年退職後に嘱託として職場復帰したNという人がいた。クラシック音楽の熱心なファンでオーディオマニア。僕自身その頃はジャズとオーディオに熱中していたから、たまたまデスクが隣り合わせだったこともあってすぐに打ち解けた。それだけでなく、「買ったばかりのレコードプレーヤーがいまひとつ不満で、一度見に来てくれないか」と言われ、仕事が休みのある日、Nさんの自宅へ出向いた。

 Nさんには、岩波書店辞典部の嘱託とは別のもう一つの顔があり、東京は世田谷区の幼稚園のオーナーだった。実際に幼稚園の運営をするのは奥様だったが、Nさんの自室は二階建ての幼稚園の園舎の上階。休日だから園児たちの姿はなかったが、2階の窓から見下ろした園庭の風景がいまも目に焼きついている。


 コーヒーを1杯頂戴したあと、試聴を開始。プレーヤーはベルトドライブ方式のPioneer PL-41。曲は失念したが、室内楽だったと思う。スピーカーからうっとりするような美しい音が流れた。聴き惚れた。ところが、1曲か1楽章かが終わるやいなや、Nさんは言う。「音程が揺れてるだろう? ワウ・フラッターだよ」

 ワウ・フラッターとは回転速度の微妙な狂いだが、僕には感知できなかった。続けて、数枚のレコードを聴いたが、結果は同じだった。結局は、Nさんの聴覚のデリケートさに驚かされただけだった。

 耳の病のせいですべての音楽の音程が揺れて聴こえるようになったいま、そのときの驚きが鮮やかに甦ってくる。


2026年4月16日木曜日

京都市内の喫茶店

 


 1980年に43歳の若さで早世した作家、野呂邦暢の『小さな町にて』(1982年、文藝春秋)を読む。作家の本業である小説は何編も読んだが、エッセイはこれがはじめてと思う。

 文章の素晴らしさにまずはうたれる。文字を羅列するだけではない、呼吸する文章。読むことは即対話となる。


 「衝立の向う側」と題された一編に心に響くものがあった。


 同志社大の近くにあったその喫茶店については前に書いたと思う。いわゆる名曲喫茶である。一階が洋菓子店で、二階が喫茶店になっていた。店の奥に再生装置があり、客はリクエストした「名曲」をうやうやしく聴くしくみになっている。……

 ある日、かつて聴いたことがないメロディーが私の耳をうった。私はページを繰るのを忘れてそのヴァイオリン・ソナタに聴き入った。チャイコフスキー、ブラームス、パガニーニ、ベートーヴェンなど私がそれまでくり返し聴いて飽きが来た音楽とはまるでちがっていた。精密に組立てられた分子構造の模型にそれは似ていた。

 再生装置の後ろにある壁には、小さな黒板が掲げられていて、そこには作曲者と演奏家の名前がチョークで記入される。セザール・フランクとあった。


セザール・フランクの「パニス・アンジェリクス」

 2つのことが思い浮かぶ。

 1つは、洋菓子店の2階という喫茶店の存在。調べると、京都は出町柳駅前、昭和28年創業の老舗ベーカリー2階に今もある「柳月堂」がその店であるらしい。

 あいにくその店に入ったことはないが、「京都・店舗2階・大学の近く」というキーワードから畑違いではあるものの同じようなつくりの別の店を思い出した。立命館大学のすぐそばの食料品店の上に短期間存在したジャズ喫茶「ビッグボーイ」だ。柳月堂と同じく再生装置は店の奥にあり、そのスピーカーはJBLパラゴン。JBLの歴史的シンボルともいうべき超大型のスピーカーで、その前に座る客は音楽を楽しむというより礼拝するようなイメージだった。

 もう1つはセザール・フランク。作家は「精密に組立てられた分子構造の模型」と書いているが、遊びのない生真面目な作風がフランクの特徴であって、この点についてはクラシック・ファンの多くが同意するだろう。そうして、僕の脳裡にはいま1曲の歌曲が聴こえてくる。「パニス・アンジェリクス(天使のパン)」である。


 あれは2014〜15年あたりだったろうか、親しい友人が立て続けに世を去り、打ちのめされるような思いで日々を送る時期があった。そんなある日のこと、たまたま入った本郷3丁目の名曲喫茶「麦」に流れたのが「パニス・アンジェリクス」だった。


  天使の糧(パン)は人々の糧となり

  天上の糧は形あるものとなった

  なんと驚くべきこと!

  憐れな者、下僕(しもべ)、卑しき者たちに

  天は自らを糧として与えられた



 ラテン語で歌われる歌だから、歌詞がその場で理解できたわけではない。家に帰って調べた結果が上記の詞だ。だが、「パニス:パン、アンジェリクス:エンジェル」という標題からの連想だろう、聴いていて宗教的法悦に近いものを感じた。何より敬虔な気持ちにつつまれた。友人を次々と失っていく不幸を包み込むような安堵感にやすらいだ。

 歌っていたのはジェシー・ノーマン。このときから、ノーマン歌う「パニス・アンジェリクス」はこの世に存在する歌曲の頂点に位置する1曲となった。


2026年4月15日水曜日

モイヤ・ブレナン、死す

 




 4月13日、モイヤ・ブレナンが亡くなった。73歳。肺を病んでいたという。世紀の変わり目を境にほぼ洋楽とは無縁となった僕にとっては、『ウィスパー・トゥ・ザ・ワイルド・ウォーター』(1999年)、ことにその1曲目「フォロー・ザ・ワード」は、20世紀の音楽体験をしめくくる最後のまばゆい光だった。


 このアルバムの記憶は、松平維秋の名と結びついている。彼の死は、1999年10月15日。『ウィスパー・トゥ・ザ・ワイルド・ウォーター』のリリースは、その数日後だった。モイヤはエンヤの姉だが、そのエンヤを嫌っていた松平さんがこのアルバムを聴いたらどんな感想を持っただろうと思ったものだ。彼にぜひ聴かせてあげたかった。

 と同時に、疑う余地もない正真正銘の絶唱、アルバムの1曲目「フォロー・ザ・ワード」は、彼への追悼の歌とも感じられた。何日も涙しつつ聴き続けた。

2026年4月14日火曜日

脳内辞書の劣化現象

 


 これも老化現象の一つなのだろうが、文章がスムーズには書けなくなった。何よりも言葉が出て来ない。脳内の国語辞典が落丁乱丁になっていると思える。ここは名文と呼ばれるものを読んで刺激を与えるのが一番の救急策だろう。そう思って、志賀直哉の短編集『小僧の神様・城の崎にて』(新潮文庫)を借りてきた。

 手始めに「城の崎にて」を読む。吸いこまれるようにして小説世界に入った。


 或朝の事、自分は一疋の蜂が玄関の屋根で死んでいるのを見つけた。足を腹の下にぴったりとつけ、触角はだらしなく顔へたれ下がっていた。他の蜂は一向に冷淡だった。巣の出入りに忙しくその傍を這いまわるが全く拘泥する様子はなかった。


 1つ1つのセンテンスはごく短く、「た。」を終止形として連続していく。黙読していても、頭の中に心地良いリズムが感じられる。まさしく達意の名文。小説の一部だから残念ながら僕の作業に直接の効果はないが、それでも文章はこう書くべきと思わないではいられない。

 志賀直哉の文章にはじめて接したのは小学校5年のときに国語の教科書でだったが、それはトンボを題材にしたエッセイだったと思う。それから68年が過ぎて、今度は蜂を題材にした描写に魅せられたという次第だ。


直哉ではなく直吉さん

 ふと思い出したことがある。

 あれは高校3年の夏だから1964年、上半身裸で家の縁側に寝そべっていると、不意の客があった。その春に就職が決まった岩波書店の人事課の課長で、入社予定者の身元確認と様子伺いでやってきたのだった。名刺を頂戴した。「志賀直吉」とあった。あとで調べると、直哉の息子さん(次男)であった。


 ものの数分雑談を交わしただけで帰っていかれたが、人あたりのいい、いかにも人の良さそうな人物で好感を持った。いい会社に就職が決まったなと思った。

 ただそれだけのことだが、なんだか忘れがたい思い出の1シーンとなっている。入社後は志賀直吉さんと接する機会はなぜかほとんどなかったが、その後常務にまでなられた氏は、2019年に亡くなられたという。


2026年4月13日月曜日

母語と母国語との不思議な関係

 


 田中克彦『ことばと国家』(岩波新書)は、言語について書かれた一般向けの本としては例外といっていい名著である。発行は1981年だが、およそ45年を経たいまもその存在理由を失ってはいない。

 これは、一言でいえば、「母語と母国語の違い」を論じた本である。「母語」は英語でいえばmother tongueだが、この本にもあるように、この語句はかつては「母国語」と訳されることが多かった。いまでもその名残はあるが、たいていの英和辞典で「母語」が第一の訳語になっているのは、おそらくはこの本の影響だろう。

 この小さな本から得られる刺激はいくつもあるが、個人的には「母国語=母国+国語」という意味の指摘に蒙をひらかれる思いがした。「国語」は明治時代になってできた新語だそうである。いうまでもなく、その背景には、「標準語による統一を図る国策」の存在がある。「国語」という概念はイデオロギーの産物なのだ。

 公用語にも日常語にも同じ一つの言語を用いることによって国家としての枠組みを確固たるものにしようという愚劣な国策の典型はフランスだが(フランス国内に居住する人々すべてがフランス語を日常語としているわけではない)、それがフランス語だろうと英語だろうとスペイン語だろうと、軍事力や経済力をバックにした言語の押しつけは、本来多様であるはずの文化をめちゃくちゃにする。

 ヨーロッパではどうか。ここにも、数え切れないほどの問題がある。しかしながら、文字にアルファベットを用いる言語はいずれもラテン語系統であって、強い近親性がある。英語と日本語のような根底から異質な言語を共存させる場合とは違って、互いの浸透は容易だろう。ただし、その場合でも、中心は経済力の強い側に置かれることとなる。


カリ・ブレムネスの歌から

 カリ・ブレムネスというノルウェーのシンガーがいる。画家ムンクが彼自身の絵画に寄せて書いた詩に音楽をつけたアルバム『別離』(オーマガトキ、2011年)を聴いたことがあるだけだが、音楽としての完成度はきわめて高く、魅力的である。無用な劇性を排除した印象の強い、静かで知的な彼女の歌いぶりが渋い輝きを放つ。


 しかしながら、音楽そのものはあきらかにアメリカのジャズやロックの影響を強く受けている。それでいて、アルバム全体に不自然な感じが全くないのは、やはり言語の音的な構造が大きく左右しているのではないかと思う。ノルウェー語がどんな言語であるのかは知らない。しかし、少なくとも聴いている感じでは、「メリケンギャル風日本語」のいかがわしさはない。英語とノルウェー語とは、もともとそう遠い言語ではないということなのだろう。

 言語はいうまでもなく民族と文化をつくる基盤だが、このアルバムを聴けば聴くほど、あまりにも乱雑ででたらめすぎるいまの日本のボップソングをもう一度根本から見直したいという衝動に駆られる。

2026年4月9日木曜日

勘違いして借りた本を楽しむ

 


 図書館はWebサイトを利用することが多く、時に内容を勘違いして他館の本を借り出すことがある。

 今回間違って借り出したのが、『森まゆみ/昭和ジュークボックス』(旬報社、2003年)。せっかく届けられたものなのでとりあえず読んでみると、なかなかおもしろい。ことに、父親のことがたくさん書かれている点に惹かれるものがあった。その1つが下記。


 休みの日に、まったく珍しく父が酔って電話をかけてきた。

「お前、なんで顔見せに来ないんだ。元気でやってるのか。おれはな、七十年近く生きてきてわかったのは人を殺しちゃいけない、というそのことだけだ。わかるか。わかんないだろうな。おれたちは子どものころ、兵隊さんになって人を殺せ、と教わって育ったんだから。そこから脱け出るのに戦後五十年かかったわけだ。おれはお前が心配だ。ええ、どこ行く気なんだよ」

 オウム真理教が地下鉄でサリンをまいたあとだった。


娘たちは父親をどう見たか

 森まゆみは1954年生まれだが、この世代の娘たちの父親観はなかなか複雑だ。

「顔を合せれば反抗ばかりしていたが、私は父がけっこう好きだ。中学、高校のころ友だちがなぜ、自分の父親をそんなに嫌いなのか、見くびるのかわからなかった。彼女たちにとって、父親は会社にこきつかわれ、時に母親を裏切って浮気し、感性も鈍った“しがないサラリーマン”なのだそうである。父親みたいな人とはぜったいケッコンしたくない、と彼女たちは力説していた」


 「けっこう好きだ」という表現が微妙だが、他の娘たちと違ったのは、この人の父がサラリーマンではなく町医者だったからだけではあるまい。妻を大事にし、子煩悩だったという父親の人柄に、やはりかけがえのないものが感じられたのではないか。


 父親はクラシックファンだったそうだが、酔うと「スーダラ節」をよく歌ったそうだ。

「ちょいと一杯の つもりで飲んで

 いつの間にやら ハシゴ酒

 気がつきゃ ホームのベンチでゴロ寝

 これじゃ 身体にいいわきゃないよ」

 おれはサラリーマンの三倍働いていると自負し、小役人が大嫌いだったという父親は、何を思ってこの歌を歌ったのだろう。酒場で植木等に一度会ったことがあり、「あんなにまじめでいい人みたことない」と言っていたそうだが、だから敬愛こめて真似したというだけでもあるまい。言葉にはならない生きる哀感が、この人を駆り立てていたのではないか。

2026年4月7日火曜日

本は書き出しがおもしろい

 


 すでに絶版だが、海外ミステリの書き出しの部分だけを集めた本『ミステリの名作書き出し100選』が、2006年に早川書房から出た。自分が訳した1冊の書き出しもその中に含まれていたので覚えているのだが、本そのものはあいにく手元にはない。捨てるはずはないのだが、ブックオフあたりに売り払った中にまぎれてしまったのか。

 ちなみに、この本に入れられた訳本の書き出しはこうだ。

「仕事は順調だった」

 ジェイムズ・エルロイ作の『レクイエム』。およそ定型を踏み外したような語り口のこの小説にしてはずいぶん平凡な書き出しと見えるが、そうではない。物語全体の水圧がこの一行にかかっているのだ。これについては簡単には説明できないので、作品を読んで確かめてもらうしかない。


司馬遷をめぐる印象的な文言

 海外ミステリから大きく範囲を広げると、僕の貧しい読書体験の中にもこれはと思える書き出しがある。その筆頭は、これだろう。

「司馬遷は生き恥さらした男である」

 あとには、こう続く。「士人として普通なら生きながえらるはずのない場合に、この男は生き残った。口惜しい、残念至極、情けなや、進退谷(きわ)まった、と知りながら、おめおめと生きていた。腐刑と言い宮刑と言う、耳にするだにけがらわしい、性格まで変るとされた刑罰を受けた後、日中夜身にしみるやるせなさを噛みしめるようにして、生き続けたのである。そして執念深く『史記』を書いていた」

 武田泰淳『司馬遷』の書き出し。僕はこの人の作品の忠実な読者ではないが、これには衝撃を受けた。


 ところで、ご本尊の司馬遷は、こんな言葉を残している。

「私も、命を惜しむ臆病者ではありますが、去就進退の分は、多少わきまえております。罪せられ、辱ずかしめられて、生きながらえるのが、私の本旨でないことは、申すまでもありますまい。また、奴隷奴婢のたぐいも、なお自害して果てることがあります。まして、進退谷(きわ)まった私が、どうして自害せぬわけがありましょうぞ。隠忍して活きながら、糞土の中に幽せられて、あえて辞せぬ所以は、自己のねがいを果たさぬのを恨み、このままうずもれて、文章が後世に表れぬのを、はずるからであります」(「任安に報ずるの書」)


 この2つの文言を読み、対比すると実におもしろい。

2026年4月2日木曜日

馬渕公介さんの修学旅行

 


 図書館で『馬渕公介/大人の修学旅行』(小学館)を借りてきた。

 馬渕さんの著書はほとんど読んでいるが、これは珍しく読み洩らした1冊。発行は1996年だから、30年遅れてやっと読む機会を得たことになる。

 書名からわかるように日本全国の名所旧蹟をめぐり歩く旅行記。馬渕さんには「旅行作家」という肩書があり、つまりは仕事の中心をなす1冊というわけだ。

 北は北海道知床から南は鹿児島桜島までの構成だが、これを内容という観点で見ると流氷から露天風呂までとなる。つまりは、寒〜暖の流れで順次語られていく。

 構成は常識的と言っていいが、内容的には凡庸でない。馬渕さんらしい視点がところどころで輝く。

 例えば、島根出雲大社を訪ねての一節。


 一畑電鉄のとある無人駅である。

 客のいないその待ち合い室は、壁が崩れ、中の竹の芯が剥き出しになっていた。くすんだ柱には、薄紫の野菊が空き缶に差してある。ホームに立てば風が走り、レールの先は秋寂れた色の田んぼが広がっている。

 ファーストクラスで移動し、山海の珍味を食し、風光明媚な名所旧跡を巡ることだけが、贅沢な旅ではない。私にとって贅沢な旅というのはその旅の間に、何げない風景の中で、何げない静かなひと時を持つことなのだ。


 思わず膝を打った。そうして、行間から馬渕さんの肉声が響いてくるように感じた。


馬渕公介よ、旅はいずこへ

 馬渕さんとの出会いは、1980年の昔に遡る。

 その年、僕は旧知の家崎晴夫と組んでエアジンコミュニケーションズなる小さな会社を興した。その家崎君のライター仲間の一人が馬渕さんだった。

 当時の彼は篠沢純太らと起ち上げた編集プロダクション・スーパーシェフのメンバーだったが、当時もそれ以後も仕事をともにする機会はごく少なかった。仕事を離れて親しくつき合うという関係でもなかった。しかし、それでいて、46年後の現在、僕にとって彼は最も心親しくその名を思い浮かべる人物であるのだ。なぜか。これまでの人生を振り返るとき、気質という点で自分といちばん深く通い合うのが彼だからだ。


 ここ20年ほどは、直接会う機会はなかった。


 最後に会ったのは、2006年、取材:馬渕、ライティング:浜野という役割分担で制作した平凡社新書の1冊『熊田紺也/死体とご遺体』の打ち上げのとき。上野だったか、いや本郷だったか、小さな酒場で蕎麦を肴に祝杯をあげた。彼はとびきりの蕎麦好きでもあった。


 それ以後は音信不通状態だったが、2012年頃からだろうか、ネットのFacebookでのFBフレンドとしてのつきあいが始まった。SNSでのつきあいはもちろん間接的なものだが、といって縁遠くなったという印象はない。彼は本業のライター仕事とは違ってぶつぶつとつぶやくような断片的な投稿を頻繁に繰り返していて、それが面白く、読むのが楽しみだった。会う機会はなくても、むしろ親密さが増したようにも感じられた。相変わらず蕎麦屋めぐりをしているらしい日常の様子も好ましかった。

 しかし、そんな彼の投稿も2020年9月19日をもって突然に途切れる。


馬渕公介

2020年9月19日

軽老が

朝まで飲める

有難や

軽老や

パソ眺めつつ

TVもつけ


 以後6年、投稿はない。知る限り、他人のタイムラインへのコメントの書き込みもない。

 『大人の修学旅行』は名所旧跡ではあっても彼自身にとっては多く未知の土地への旅の記録だったが、2020年9月19日から後のいずれかの日、彼は最後の未知の国、天へ向かったのではないか。


2026年4月1日水曜日

松下竜一と『豆腐屋の四季』

 


 『あなたは「豆腐屋の四季」だけで終わるべきでした』という手紙を、後年の読者からいただいたことがある。これほどに直截ではないにしても、同様なニュアンスの読後感となると無数に受け取ってきている。

 久しぶりに松下竜一を読んでいる。30巻にわたった著作集「松下竜一 その仕事」のあとがきをまとめた『巻末の記』(河出書房)。上記はその最初にある「四季を綴る」の書き出しの部分だが、これを読んで、50年近く前まで引き戻された。

 そう、あれは1976年か77年だった。捕鯨戦争ともいうべきアメリカの現実を考える機会として進めていたイベント、ローリング・ココナツ・レビューの準備会議のとき、仲間のIに松下竜一の名を教えられ、それで手にしたのが『豆腐屋の四季』だった。


「火力発電所建設阻止運動を引っ張る福岡の闘士」というのがIの触れ込みだったが、それは別の著書『暗闇の思想』や『砦に拠る』の松下竜一に見られる人物像であって、『豆腐屋の四季』には全く別の松下竜一がいた。後年の読者からの抗議というのは、その落差から受けるショックに発したものなのだろう。

 僕にはそのことがよくわかるのだが、といって「『豆腐屋の四季』だけで終わるべき」だったなどとは全く思わない。人は、時とともに変容するものだ。『豆腐屋の四季』の病弱なために豆腐屋の仕事を投げ出すにいたった青年は、同じく頼りない身体を投げ出すようにして反火力発電所運動に身を投じた。家族を愛し、人を愛し、自然なままの自然を愛する彼の心は、そうであるからこそ社会に亀裂を入れる資本と権力の横暴に抗すべく立ち上がったのだ。


短歌を機軸にした日録

 あらためて『豆腐屋の四季』を開いた。うかつにも忘れていたが、これは短歌を機軸にして日録を重ねていった1冊だ。親から豆腐屋を引き継いだ松下竜一は仕事に熟達できず、ともすれば挫けそうになる思いを短歌に託した。その過程からこの本は生まれた。

「冷え深き夜は合羽着て働きぬさわさわと鳴りまつわる音よ

 つばらかに由布岳澄みて明けは冷ゆヤッケに着ぶくれ豆腐積み行く

 深夜。激しい風がいちだんと深まった冷えを運んできた。私はビニール合羽を着て働く。動くたびにかすかな音がまつわりつく。配達に出る未明、合羽の下にヤッケを着こんだ。ヤッケを着始めると、もう私にとって早い冬が始まるのだ。ひと冬に二着のヤッケを着つぶす」


 30巻は無理だが、手元にある松下竜一の本だけでもこれから読み直したいと思う。

2026年3月31日火曜日

「灯ともし頃」と浅川マキさん

 


 浅川マキ「灯ともし頃 抄」(日本の名随筆82『演歌』所収)を再読する。

 歌い手である作者がキャバレー廻りをしていた下積み時代の回想記だが、音楽家ならではの心地良いリズムの文章に自然と引き込まれる。何度読んでもこれは同じだ。


「お客さん、此処へ連れて来たの、良かったのかな」

 突然の男の言葉は思いがけなかった。わたしはとっさに息を殺す。物音ひとつしない闇のなかから響いてきた声、それは時間が経つ程に、耳許で鳴ったと思えてくる。ふたりだけだと自覚させる。いま、わたしの目には、港の灯りは映ってはいない。夜の匂いは、山の中腹であるらしいこの界隈だけを覆っている。


 キャバレーに入るにはまだ時刻が早く、タクシーの運転手任せで山中へ移動、夕闇の中に立って函館の港を見下ろしている場面だが、行間から北国の夜の闇が浮かび上がる、そこから冷たい夜気がもれてくる。

 文章を読んでこういう体験をすることはめったにない。


マキさんの手元に残された白いギター

 浅川マキさんとは、1970年代後半の数年間、テレフォン・フレンドだった。深夜1時〜2時、仕事を終えてそろそろ寝床にもぐりこもうかという時刻に電話のベルが鳴る、マキさんのひそやかな声が耳にしのびこんでくる。それから1時間、2時間、おしゃべりが続く。たいていは音楽の話。そうして、ほとんどの場合、「日本の音楽界ってまだまだ貧しいよね」という一言でしめくくられる。


 出会いは、かつて渋谷にあった喫茶店「マックスロード」だった。『ニューミュージック・マガジン』の編集部に近く、月に何度かは編集部での打ち合わせを終えて寄った。そんなある日の午後、ぼんやりコーヒーを飲んでいると、山下洋輔さんと連れだってマキさんが入ってきた。旧知の山下さんから紹介を受け、座談が始まる。なぜか響き合うものがあった。その翌日から、深夜の電話がかかってくるようになった。

 以後、直接会うことはほとんどなかった。ひたすら電話。実際の話の中身はもうあらかた忘れてしまったが、ただひとつ記憶に残っていることがある。それは、かつて恋人としてつきあっていた男性が亡くなり、マキさんの手元に残していったギターの話。「ボディが白のギターでね、指がふれる部分だけが手脂に染まっているの。見るたびに悲しくて、悲しくて」とマキさんは言った。


 2010年1月17日、ライブで訪れていた名古屋のホテルで倒れ、マキさんは逝った。67歳だった。