谷川俊太郎に『モーツァルトを聴く人』という詩集がある。1995年に出た1冊だが、この詩人には珍しくセンチメンタルな感情表現の色濃い作品が多い。猛烈に濃い蔭を感じさせるものもある。谷川俊太郎、このとき60代半ば。勝手な想像だが、彼は恋をし、失恋したのではないか。次のような詩句がそんな想像をかきたてる。
何年か前モーツァルトを聴きながら車を運転して
涙で前が見えなくなって危なかったことが何度かあった
もうぼくは人の言葉は聞きたくなかったんだそのころ
特にあの女の言うことは
モーツァルトは許してくれた
少なくともテープが回ってる間は
だがあの女は一瞬たりともほくを許さなかった
当然だ
(「つまりきみは」)
感情のバランスを保つ音楽
詩人が語るモーツァルトの音楽には、母親を失った悲しみもからんでいる。この人の母はピアノを弾く人で、モーツァルトを好んで演奏したらしい。認知症になり、好きな酒がないとオーデコロンを飲むまでになっても、なお弾いた。脳が三歳児に等しいところまで収縮し、やがて死が訪れた。「ふたつのロンド」という詩では、そういう物語(短くてもこれは物語だ)が描かれている。
音楽がもたらす幸せにはいつもある寂しさがひそんでいる
帰ることのできぬ過去と
行き着くことのできぬ未来によって作り出された現在の幻が
まるでブラック・ホールのように
人の欲望や悔恨そして愛する苦しみまでも吸いこんでしまう
(「ふたつのロンド」)
ここから、僕は10年前に死んだ母親がその晩年同じく三歳児程度の脳と思われる状態となったある日突然絵本を読み出したことを思い浮かべた。大正14年生まれの幼児。もっとも、僕の母親がかつて好んだのはモーツァルトではなく、南こうせつだったが。
息子の僕は、南こうせつは全く聴かない。モーツァルトも、いまはあまり聴かない。モーツァルトを一番聴いたのは20代だ。60年代末、土曜の夜の新宿・ピットインは山下洋輔トリオと決まっていて、半ドンの仕事を終えていったん家に戻ると、出かける前にモーツァルトを聴いた。なぜだかはよくわからない。
そんな話をしたら、「おれはブラームスだ」といった人がいる。17年前に亡くなった平岡正明さんだ。山下トリオの破壊的創造とはおよそ対照的な弦楽の響き。感情のバランスを保つために必要だったのかもしれない。
前にも書いたが、大切な人を喪って精神のバランスを完全に崩してしまった人に、モーツァルトを贈ったことがある。キアラ・バンキーニ率いるアンサンブル415が演奏する「ト短調クインテットK.516」。冬だった。暖房を切った部屋で毛布にくるまり、毎日泣きながら聴いたと、その人は言っていた。涙はすべてを流し去った。モーツァルトの音楽に救われた、とも言っていたっけ。
そんなことも起こりうるのがモーツァルトの音楽なのだが、残念ながら僕自身がその種の効果を体験したことはない。ただただ美しい音楽というだけだ。


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