陶山幾朗『「現代思潮社」という閃光』を読む。
著者はかつての現代思潮社に6年間編集者として在籍した人で、65年の歴史をもつこの社の10分の1程度を知っているにすぎないが、それでいて現代思潮社はどのような出版社であったかがほぼあまさず語り尽くされている。
本は創業者である石井恭二氏の死亡記事から始まっているが、それに続く「入社前史」なる章を読んで、松田政男さんが現代思潮社の社員だったことをはじめて知った。陶山氏の入社後しばらくして、二人は編集部で机を並べることになる。まだ編集者はこの二人だけの小さな出版社だった。
当時、編集部は西神田と呼ばれていた地区の、専修大学神田校舎裏の狭い路地を入った奧にあり、営業部が文京区春日伝通院坂下にあった。編集部は木造しもた屋の二階で、玄関の狭い引き戸を開けると、すぐ目の前に二階に上る階段があり、来訪者は先ずこの土間から二階を見上げて「ごめんください」と声をかける具合になっていた。……ところで、今では信じられないかも知れないが、当時、西神田編集部には冷房が無かった。したがって、夏の猛暑のなかをわれわれ編集部員は、やむをえずパンツ一枚で仕事をしていたのである!(「《西神田》、本日もホコリ高し」)
1965(昭和50)年の東京の情景である。そうして、僕は自分もまた似たような境遇で働いていたことに気づいた。
冷房のない夏の仕事場
同じ年、僕は高校を出て岩波書店に入社した。当時の岩波書店の社屋は現在のビルに建て替える前の古い三階建てのビルで、ここもまた冷房のない空間だった。ただし、現代思潮社とは違って、社のフロアのあちこちには扇風機が据えられていた。真夏はどの部署の社員も扇風機の風を受けながら働いた。
ところが、例外があった。編集部だ。ここにも扇風機はあったが、停められていることが多かった。何故か。当時は、いうまでもなく編集の素材は手書き原稿である。扇風機の風を受ければ、原稿がめくれあがって仕事にならない。だから、編集者は皆扇風機をとめ、首にタオルを巻いて汗を吸い取りつつ仕事したのである。
僕がはじめてジャズの生演奏に接したのは、そんな1965年の夏のさなかだった。ところは、銀座松屋裏にあった「ジャズ・ギャラリー8」。相倉久人さんが司会をつとめていた。
その相倉さんに声をかけ、話をするようになったのは、同じ年の秋だったか。その翌年、相倉さんは活動の場を銀座から新宿に移す。その頃から僕はほぼ毎日相倉さんと会って話をするようになり、さらにその5年後、相倉さんを中心に創刊された雑誌『映画批評』の編集部で松田政男さんに出会うことになるのである。


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