2026年5月6日水曜日

向田邦子の日記と恋文

 



「今日も、道路工事でうるさい。10時半ごろ陽光がみられるようになったので、神田へ出て本をさがして歩くが、今日は少し具合が悪いようだ。

 邦子へ電話し、柏水堂へよってホテルへ行く。少し話をして帰る。

 帰りは電車だったが、やっぱり少しこんで来た。高円寺でそばを食って家へ」(『向田邦子の恋文』「N氏の日記 昭和38年12月12日」)


「きのうは陣中見舞有難うございました。

 つまらなくて、ぼつぼつオヒスがおこりかけていたところだったので、とてもうれしかった。

……

 妹のはなしだと、ロクベエの落タンぶりは見るも哀れだとかで、私がいないと、火の気のない私のコタツの上でないているようで、母などホロリの一幕があったそうです。やっぱりアイツはいい奴だ。誰かさんみたいに、こなくても平気だよ、なんて、ひどいことはいわないもん」

(『向田邦子の恋文』「向田邦子からN氏宛手紙 昭和38年12月13日消印」)


 『向田和子/向田邦子の恋文』を再読する。

 日記と恋文、そしてエッセイからなる1冊。日記は“N氏”によるもの。恋文は向田邦子がそのN氏に宛てて出したもの。この日記と恋文が、本の前半部をなしている。あらためてしみじみと読んだ。暗い話など何も書かれていないのに、読んでいて涙が出そうになった。


 N氏は向田邦子の“隠れた恋人”だった。知りあったのは、向田邦子の最初の勤務先となった教育映画制作の財政文化社でだったという。彼はカメラマンだった。しかし、妻子があった。本の後半部をなす向田和子のエッセイによれば、背丈の低いずんぐりむっくりの人だったらしい。が、向田邦子は、あまり風采のあがらないその人に恋をした。よほど通じ合うところがあったのだろう。

 N氏はのちに離婚したようで、本に収録されている日記と恋文はそれ以後、N氏が母親と暮らすようになってからのものだ。この時期、向田邦子は超売れっ子で、ホテルにこもってシナリオを書く日々が多くなっていた。恋文の多くは、そのホテルの便箋に書かれたものだ。上の引用も、神保町の洋菓子店・柏水堂で買ったケーキをみやげにN氏がホテルを訪ねた日の日記と、その翌日に出された手紙の一部だ。

 本に合わせて“恋文”と書いたが、実は恋文らしい恋文はほとんどない。向田台本によるラジオ番組の感想を主につづられているN氏の日記もそうだが、病気がちだったN氏を気遣う記述はあるものの、多くは仕事が思うように進まない毎日のことが淡々と書かれている。2人が大人らしい大人の関係であったことを示すような大人の文章。しかし、それでいて、向田邦子が少女のような可愛らしさを覗かせることがある。それが愛猫にふれてあてつけを書いた上記の引用。N氏は、向田邦子にとって、甘えることのできる数少ない1人でもあったのだろう。


自分の才能に充分な自信の持てない人だったか

 そんな恋文らしくない恋文を読みながら、僕は別のことを考えていた。手紙の中で、向田邦子はしばしば仕事が進まないことにいらだち、自分を怠け者とののしっている。同年生まれの早坂暁のシナリオを読んで感嘆し、自分とは頭のできが違うと述べる部分もあった。察するところ、自分の才能に充分な自信の持てない人だったらしい。これは、僕には意外だった。あれほどの才気あふれる人だったのだから。


 1981年(昭和56年)、向田邦子が飛行機事故で亡くなったとき、僕はたまたま彼女が第二の故郷と呼んでいた鹿児島にいた。鹿児島のテレビは大騒ぎだった。死去を知らせるニュースが一日中繰り返され、鹿児島時代の写真が何度も画面に出た。

 あのとき、このN氏はどうしていたのだろうと、ふと思った。しかし、本を読み進むと、それはありえないことだったとわかった。向田邦子より13歳年長だったN氏はそれよりずっと早くこの世の人ではなくなっていたのだ。遺品として残されたものを引き取ったのだろう、向田邦子は彼の日記と自分が彼に宛てて送った手紙を茶封筒1つにまとめ、15年あまり大切に保管していた。


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