2026年3月31日火曜日

「灯ともし頃」と浅川マキさん

 


 浅川マキ「灯ともし頃 抄」(日本の名随筆82『演歌』所収)を再読する。

 歌い手である作者がキャバレー廻りをしていた下積み時代の回想記だが、音楽家ならではの心地良いリズムの文章に自然と引き込まれる。何度読んでもこれは同じだ。


「お客さん、此処へ連れて来たの、良かったのかな」

 突然の男の言葉は思いがけなかった。わたしはとっさに息を殺す。物音ひとつしない闇のなかから響いてきた声、それは時間が経つ程に、耳許で鳴ったと思えてくる。ふたりだけだと自覚させる。いま、わたしの目には、港の灯りは映ってはいない。夜の匂いは、山の中腹であるらしいこの界隈だけを覆っている。


 キャバレーに入るにはまだ時刻が早く、タクシーの運転手任せで山中へ移動、夕闇の中に立って函館の港を見下ろしている場面だが、行間から北国の夜の闇が浮かび上がる、そこから冷たい夜気がもれてくる。

 文章を読んでこういう体験をすることはめったにない。


マキさんの手元に残された白いギター

 浅川マキさんとは、1970年代後半の数年間、テレフォン・フレンドだった。深夜1時〜2時、仕事を終えてそろそろ寝床にもぐりこもうかという時刻に電話のベルが鳴る、マキさんのひそやかな声が耳にしのびこんでくる。それから1時間、2時間、おしゃべりが続く。たいていは音楽の話。そうして、ほとんどの場合、「日本の音楽界ってまだまだ貧しいよね」という一言でしめくくられる。


 出会いは、かつて渋谷にあった喫茶店「マックスロード」だった。『ニューミュージック・マガジン』の編集部に近く、月に何度かは編集部での打ち合わせを終えて寄った。そんなある日の午後、ぼんやりコーヒーを飲んでいると、山下洋輔さんと連れだってマキさんが入ってきた。旧知の山下さんから紹介を受け、座談が始まる。なぜか響き合うものがあった。その翌日から、深夜の電話がかかってくるようになった。

 以後、直接会うことはほとんどなかった。ひたすら電話。実際の話の中身はもうあらかた忘れてしまったが、ただひとつ記憶に残っていることがある。それは、かつて恋人としてつきあっていた男性が亡くなり、マキさんの手元に残していったギターの話。「ボディが白のギターでね、指がふれる部分だけが手脂に染まっているの。見るたびに悲しくて、悲しくて」とマキさんは言った。


 2010年1月17日、ライブで訪れていた名古屋のホテルで倒れ、マキさんは逝った。67歳だった。


2026年3月30日月曜日

「幸福」を物語る1葉の写真

 


 「ボタンの掛け違い」ということが、生きていればよくある。そのために人との縁が失われてしまうこともしばしばだが、後悔先に立たず。あとから悔やんでみたってどうにもならない。自分自身に原因がある場合は、ただうなだれるしかない。

 振り返れば、ここ20年ほどの間にもいくつかある。道路の損傷のように復旧できればいいと思うが、そうはいかない。人には感情があり、感情がすべてを阻む。


幸福がここにある

 生きていれば、幸福でありたいと思うのが普通だろう。それでは、幸福とは何か? 僕の記憶の中には、その象徴のような1葉の写真がある


 『昭和台所なつかし図鑑』(平凡社、1998年)という1冊に載っている1葉で、「家庭菜園で収穫した小麦を使った混ぜご飯を前にした一家の食卓」というキャプションが附されている。夫婦と4人の子、そして祖母。いかにも実直という印象の父親はサラリーマンだろうか。畳がすりきれていることがわかるが、表情は皆明るい。質素な食事ではあっても、食べられる喜びが、ことに子供たちの笑顔に映し出されている。

 撮影は、昭和21年7月とある。ということは、母親に抱かれている赤ん坊だって僕より年長ということだ。一家はいまどうしているだろう? 二親とおばあちゃんはもうこの世の人ではないだろうが、仲良し兄弟はいまも仲良しだろうか? そんなことをぼんやり思いつつ、幸福がここにあると実感する。


 木製のたらいに水を満たし、瓶ビール、牛乳、トマト、キュウリをひたしている写真が、同じ本の中にある。水は井戸水。冷蔵庫のない時代の都会では、夏はこんなふうにして飲み物、食べ物を冷やすのが普通だった。実際、僕の子供時代もそうだった。井戸水の冷たさを活用してできた、ささやかな幸福。

 見ていてこみあげるものがあるが、ノスタルジーではない。人は、いまのように過剰なまでのエネルギーを消費して生きる必要などないのではないか。古い記録は、そう問いかけている気がする。


 折しも世は戦争の余波で高騰する石油価格と供給減で大騒ぎ。これも、エネルギー過剰消費文明が招いた現象だ。

2026年3月26日木曜日

48年前、はじめて渡った日本海で

 


 生まれて間もない頃から小学校に入学するまでは、富山の小さな町で暮らした。「石動」と書いて、「いするぎ」と読む。そのままそこで大人になれば、海と聞けば日本海を思い浮かべるようになっただろう。

 ところが、幸か不幸か家族に連れられて東京へ出てきてしまった僕は、大人になるまで日本海を見ることはなかった。新潟からフェリーで佐渡へ渡ったのは、1978年、31歳のときである。

 その前年からだったと思うが、岡林信康が「さしむかいコンサート」と題するコンサート・ツアーを続けていた。77年の秋、僕はさしむかいコンサートに同行して南九州一円をまわった。それがあまりに素晴らしい経験だったので、あくる夏、再度招かれてツアーについていった。それが、新潟―佐渡のコンサートだった。

 コンサートのことはあまり記憶にないが、帰りの船中でのことはよく覚えている。間仕切りも何もない広い船室の床に腰を下ろしたツアー一行は皆くたびれ果てていて口数が少なかった。皆、ときどき顔をしかめた。少し離れたところに、社員旅行なのだろう、昼間から宴会を開いてご機嫌になっている連中がいて、大声をあげて民謡をうたっていた。民謡は、2時間ほどの船旅の間ずっと続いた。


迷いの人岡林信康の『風詩』


 その20年後の1998年にデビュー30周年を記念して制作された『風詩(かぜうた)』(クラウン2)というアルバムがある。その1曲目は、「乱の舟唄」。


 波を相手に さあ目を覚ませ

 漕げよ海峡に 嵐が近い


 いま聴くと、ふとあの船中でのことを思い出す。海をうたった歌だということもあるが、それよりどう聴いても民謡の一種に聞こえるふしまわしのせいである。道に迷ってあちらこちらをめぐり歩いたらいつの間にか元の場所に出ていた、そんな不可思議さがある。

 岡林はどちらかというと「迷いの人」である。さしむかいコンサートの頃、スタッフの連中は彼を「巨匠」の名で呼んでいた。しかし、ツアーの間、巨匠はしばしばふさぎこんで、ホテルの自室から全く外に出てこないこともあった。

 アーティストはたいていそうだが、神経がデリケートにできている人ほど、「自分自身に対する100%の自信がもてない」ことが多い。岡林がその典型で、「このまま真っ直ぐ進んでいけばいいのに」と思う周囲の気持ちなど全く理解しないように、あえてじぐざぐな道をたどる。自分自身と客へのいらだちが爆発して、コンサートを不意に打ちきってしまった場面を、一度だけだが、南九州のツアーで目撃している。

 その頃に比べて、このアルバムに聴く岡林はなんと伸びやかで自信にあふれていることだろう。何より印象的なのは「聴き手に何かを伝えよう」という押しつけがましいメッセージ性が、ここにはまるでないことだ。彼は徹底して軽くさらりと歌う。バックの人たちも含めて、楽しみながら音楽をつくっているのがはっきりと伝わってくる。だから、音楽が「ひらかれて」いる。

 歌から届いてくるのは、緊張ではなくゆとり、攻撃性ではなくユーモアである。こんなフレーズがある。


 七つ 泣いても死ななきゃならん

 死ななきゃ 地球は人だらけ

      (「浮き世数え唄」)

 世界を又(「股」が正しい)に 駆ける舟も

 陸に上がれば ただのゴミ

      (「ええじゃないか!」)


 巨匠、ええじゃないか!

2026年3月24日火曜日

マイ・マイ・ラスト・ソング

 


 久世光彦に『マイ・ラスト・ソング』という著書がある。副題に「あなたは最後に何を聴きたいか」とあるように、末期に聴きたい歌を問う1冊だ。

「私の死がついそこまでやって来ているとする。たとえば、あと五分というところまで来ている。そんな末期の刻に、誰かがCDプレーヤーを私の枕元に持ってきて、最後に何か一曲、何でもリクエストすれば聴かせてやると言ったら、いったい私はどんな歌を選ぶだろう」


 そうして「末期に聴きたい歌」を探して曲めぐりをしていくのがこの1冊で、合わせて25の歌が俎上に乗せられ、語られる。その冒頭は、洋楽系の流行歌の始まりと言っていい「アラビヤの唄」だ。



 「アラビヤの唄」に始まって、「港が見える丘」「時の過ぎゆくままに」「幌馬車の唄」「さくらの唄」「影を慕いて」……1935年生まれの久世光彦がラインナップした歌はさすがに古色蒼然という感じがつきまとう。12歳、ちょうど一回り年少の僕にも記憶のない、知らない曲がある。「愛国の花」がそうだ。

 しかし、知らない歌も含めて、ここで語られている歌を次々に見ていくと、全曲に共通のトーンがあることに気づく。何かといえば「抒情」だ。そう、末期に聴くにふさわしいのは、やはり抒情歌なのである。


末期の時のための1曲

 それではと、自分自身の末期のための抒情歌を記憶の中から探ってみる。残念ながら、この本で書かれている歌の中にはそれはない。ないけれども、ラ・ゴンドリーナ→燕→北原白秋という連想がはたらき、1曲が思い浮かんだ。「城ヶ島の雨」だ。



 雨はふるふる 城ヶ島の磯に

 利休鼠の 雨がふる


 雨は真珠か 夜明けの霧か

 それともわたしの 忍び泣き




 三浦半島の最南端に位置する城ヶ島には、過去、一度しか行ったことがない。それも横須賀に住む親類を訪ねることが多かった小学生の頃だ。つまりは60年を超える昔のことであって、いったいどんな場所だったのか、風景のかけらすら記憶にない。

 それなのにこの歌が記憶深く沈んでいつまでも心に残っているのは、1960年代の末頃、城ヶ島ならぬ新宿の場末のバーである女性とこの歌をデュエットした時のことがこれまたいつまでも記憶から去らないからである。その人とは短期間で別れたが、いまも嫌いではない。ただひたすらに懐かしい。


 あれから60年近い2026年3月24日の今日、僕は79歳になった。末期を迎えるのも、もうそう遠い話ではない。


2026年3月23日月曜日

名作・名曲への違和感

 


 子供のときから、読書は苦手だった。

 いや、正確にいうなら、ことに「名作」の名で呼ばれるものを読むのが苦手だった。

 高校生の頃に一念発起してゲーテだのトーマス・マンだのロマン・ロランだのに片っ端からチャレンジしてみたが、結局は読み通せなかった。『魔の山』などは数か月かけた末に頓挫した。これらの作家の作品でまともに読めたのは、ロランがヒンドゥー教の聖者たちについて書いたものぐらいではないか。


「未完成」から聴こえてくる悲鳴

 音楽についても、名作と呼ばれるものはどうにも始末におえない感じがつきまとうことが多かった。例えば、ヨーロッパの古典音楽、それもシンフォニーで名作の呼び声高く、日本でことに愛聴されている作品を1つ選べといわれたら、まずはシューベルトの「未完成」を挙げなくてはいけないだろう。これが、徹頭徹尾苦手だった。

 最初に聴いたのは、中学のとき、音楽の教師にすすめられてである。彼はこの曲についてかなりの長時間熱弁をふるった。正確には覚えていないが、「この世に存在する最も美しい音楽」といった意味のことを聞かされた気がする。


 「未完成」の真価を知るようになったのは、ごく近年のことである。仕事でちょっとした必要があってCDを買い込み、聴いてみた。一驚した。昔、あれほど違和感を覚えたのと同じ音楽とは思えなかった。


 シューベルトのシンフォニーでは実はそのあとの「ザ・グレイト」が好きで、こちらは以前からしばしば聴くことがあったのだが、この2曲を比べると、音楽全体のムードはずいぶん違う。「未完成」はメランコリックで、聴くこちらがしめつけられるような痛々しさがある。

 あるとき、これまた必要あって、シューベルトのことを調べてみた。伝記の部類に年譜が載っていて、「未完成」が作曲された年の項に「この年、彼は体調がすぐれなかった」という記述があった。

 なんだかはっきりしない記述である。しかし、なんとなく気になる。それで、別の本にあたってみた。そこには、「この年、シューベルトは自分の体が梅毒におかされていることを知った」と書かれていた。


 ご存じのとおり、「未完成」は2つめの楽章でとぎれてしまった曲だが、白眉は最初の楽章である。かつて教師に聞かされたごとくこよなく美しいのだが、その美しさには深い霧がかかっている。そうして、楽章の終わり近く、音楽が荘重に厳粛に盛り上がる段になると、それはときに悲鳴のように聞こえる。それも、僕には、

――助けてくれ……!

という悲鳴のように聴こえる。

 作品と作家の実人生を結びつける危険はよく承知しているが、これを書いた頃、作曲家は自分の行く末に絶望していたのではあるまいか。彼はこれを絶望のあげくの「白鳥の歌」として書いたのではあるまいか。

 その悲鳴が、たかが中学生に感じとれるはずはない。

2026年3月21日土曜日

上野の蕎麦屋、渋谷のとんかつ屋

 


 保守系の論客とあってこれまで全く無縁だった福田和也の『保守とは横丁の蕎麦屋を守ることである』(2023年、河出書房新社)を読む。

 「保守の前衛」と題されたコラムを除いてほぼ全編が外食店をめぐって展開する。章タイトルにいわく「男はとんかつである」「上野で昼酒の快楽を」「神保町で本を買い、洋食を食べる」……読み進むにつれて、この人の食の好みが自分と共通する部分が多いのに気づいた。違いは「暴食もひどかった。フレンチやイタリアンを食べた後に、カツカレーを食べるということを平気でやっていた」というグルマンぶりか。こちらは、そんな大ぶりの胃袋は持っていない。


 著者と共通の贔屓店がいくつかある。神保町の洋食「キッチン南海」、ビヤホール「ランチョン」。キッチン南海の真っ黒なカレーは、もう一度食べたい料理の一つだ。

 その一方、昔から一度は入りたいと思いながらできていない店がある――上野の蕎麦屋「連玉庵」。久保田万太郎揮毫の看板で知られるこの店に興味を持ったのは同じ仲町通りにジャズ喫茶「イトウ」があった頃だからたぶん1960年代半ば。もはや60年も昔のことだ。それなのにとうとう入らずじまいになっているのは、同じく上野にあったジャズ喫茶「ダンディ」でチンピラに脅されて以来、上野を遠ざかったせいだ。


男はとんかつである、というメッセージ

 本に戻ろう。

 冒頭の1章「男はとんかつである」にこんな記述がある。

 私は自他ともに認めるとんかつ好きである。

 ただ好きなだけではない。男はとんかつだと思っている。とんかつを食べる体力、数多あるとんかつから好みのものを選び食する選択眼、それが男には必要であり、とんかつの食べ方で男の度量が測れると信じている。


 「そうだ! そのとおりだ!」と声を上げたくなる。ここに書かれている「丸八」「とん平」「とん㐂」の3つの店にはあいにく縁がないが、若い頃に遊ぶことが多かった新宿や渋谷では食事といえばとんかつだった。新宿3丁目にいまもある「王ろじ」には、かつの味だけではない思い出がいくつもしみこんでいる。


 夜は新宿・渋谷で過ごすことが多かった時代から時が過ぎること50年。いまはもう外食の文字はわが輩の辞書から消えた。3年前に千葉に越してきてからの外食はただの一度、京成八千代台駅構内にある立ち食い蕎麦屋という始末だ。嗚呼。

2026年3月20日金曜日

野球はラジオで楽しむべし

 


 先日終わったWBCの中継放送がネットのみ、地上波やBSでの放送がなかったことをリポートするテレビのニュース番組の中で、取材を受けたリトルリーグの選手の一人がこんなことをしゃべっていた。「野球の試合はラジオで聴くのがいちばんおもしろい。どんな場面か想像するのが楽しい」

 小学校5〜6年とおぼしき男の子の一言である。思わず「えらい!」と膝を打った。

 まだテレビなどなかった、自分が子どもだった頃のことが思い浮かぶ。家にあるほとんど唯一の電化製品といっていい5球スーパーのラジオが、プロ野球を楽しむ最大のメディアだった。

 小学生時代は早寝の毎日だから夜遅くの試合終了まで聴くわけにはいかなかったが、中学に進学するとラジオを通じての野球熱に火がついた。その頃住んでいたのは大田区の蒲田で、当時のひどい電波事情にあっても電波がスムーズに届くラジオ関東(現ラジオ日本)を選局して聴いた。試験の時期などは、試験勉強をしながらというながら族だった。


渡辺謙太郎アナによる実況の楽しさ

 ラジオのプロ野球中継でいちばん印象的なのは、それより少しあと、高校時代以降のことになる。何かというと、こちらはラジオ関東ならぬラジオ東京(TBS)のナイター中継のおもしろさ。特に、渡辺謙太郎アナが担当の放送は楽しかった。


 「謙太郎節」と呼ばれる独特の話法を駆使した実況は、他のアナウンサーにはない格別の魅力があった。例えば、外野手が凡フライをぽろりとこぼす。すると、この人は「バカ、バカ!」と平気で口にするのだ。

 もう一つ、「誇張」のおもしろさもあった。「打った、打球は右中間へ、センターが追って追って飛びついた!」という実況が、実はさほどの際どいプレーではなかったりした。絵のないラジオ中継放送ならではの楽しさである。

 「プロ野球中継に一時代を築いた」と評された渡辺アナだが、2006年11月14日に76歳で亡くなっている。

2026年3月17日火曜日

あんずの花とケイト・ウルフ

 


 丸田秀三君の個人サイト「満月工房」に美しいあんずの花の写真が掲載されている(http://mangetsu.net/wp/?p=13885)。

 見とれていて、この花が咲く時期に逝った友人知人が多いことに思いがいたった。この3月13日に逝った渡辺達生君がそうだし、もう12年も前になるが、門坂流もまたしかりだ。あんずは桜より少し早く咲く。わが友垣諸氏は桜を待たず、あんずの花に誘われるように天に駆けていった。

 僕自身の好みで言えば、あんずの花は桜より好きである。低木ではないものの、多くは樹高がせいぜい3〜5m。圧迫感のない高さがいい。

 残念ながらいま住んでいる花見川地区には桜の名所はあっても、あんずはほとんど見られない。家のすぐ近くに「杏」という山小屋風のつくりのスナックはあるが。


マイナーの花、ケイト・ウルフ

 あんずの花の写真を見ていると、もう一つ、ケイト・ウルフを思い出す。かつて渋谷百軒店にあったロック喫茶ブラックホークで「マイナーの花」と呼ばれたあのケイト・ウルフを。こじつけめくが、彼女の歌は桜のように華やかではなく、それこそあんずのごとくひっそりと咲く感じがする。

 何もせずにのんびりと時を過ごす――せっぱ詰まった状態で都会で暮らしているとかつても実際には暇になった今もそんな一時が恋しくなることがある。実質できるのは適当なディスクでも選んでぼんやり音楽を聴くのがせいぜいなのだが、そんなときにはケイト・ウルフのベスト盤『GOLD IN CALIFORNIA』(RHINO R2 71485)に手が伸びることが多い。

 彼女の歌に興味をもったのは、マイナー・レーベルから出たデビュー・アルバム『Black Roads』(レーベルその他不明)に出会ったときである。化粧っ気のないジャケット写真の彼女を見て、きっと無用な飾りを捨てた歌をうたう人にちがいないと直感した。

 直感はみごとに当たっていて、およそ巧みとはいえないが、しかし語るように静かに歌うその歌に心ほぐれるものを覚えた。


  埃をかぶった本、色あせた紙の山を

  いつもいつもひっかきまわしていたっけ

  でも、そこから得られるのは

  ずっとずっと昔の

  語りつくされたお話だけ


  それはもう昨日のこと、過ぎ去ったこと

  ふと気づくとわたしはいま

  大分水嶺を横切る川がその流れを変えるところ

  山の斜面にいる

  (Across The Great Divide)


 なぜか『GOLD IN CALIFORNIA』からは洩れている「Green Eyes」がネットでは聴ける(https://youtu.be/PsXGzblg7Ws?si=iABs60x7-20VT2oK)。こちらも文句なしに素晴らしい。静かな歌いぶりのなかに人の心をぐっとつかむ雄弁さが潜んでいる。


 彼女を「マイナーの花」と呼んだのは松平維秋だが、彼と一緒にレコード『Black Roads』を持参して、大昔、ラジオ深夜放送「馬場こずえの深夜営業」に出たことがある。DJのこずえさんがいたく気に入ってくれて、レコードはしばらくTBSに預けたままになった。放送局の重針圧プレーヤーでさんざんかけられた結果だろう、後日、レコードが傷だらけになって戻って来たのを思い出す。


 1986年12月10日、僕より5つ年上のケイト・ウルフは、春を待つことなく、白血病のために44歳の若さで逝った。ハナとマックス、二人の子を残して。


2026年3月16日月曜日

農村の歌、タイの仏教

 

 タイの作家ウイモン・サイニムヌアンの長篇『蛇』を読む。原書は1984年に、邦訳は1992年に出されている。いまとなっては入手不可能だろうが、僕は図書館で借りた。

 素人目で見てもプロットに難があるし、登場人物にしても悪人はあくまでも悪人という紋切り型。しかし、魅入られるようにして読んだ。


 農村を舞台にした小説で、欲にとりつかれた村長と寺の住職の行動が生々しく描かれる。時間がゆったり流れる農村といえどもまぎれもなく現代の一部分であり、そこがすでに「背徳の場所」であることが、ある種の痛さをともなって伝わってくる。

 とりわけ、ひたすら「来世」の幸福を願って寺に寄進するまずしい老婆の姿が哀しい。親はやはり親だというだけで、結局はその老婆の空しい行為を押し止められずにいる主人公の姿がまた哀しい。


「輪廻」を悪用する退廃

 タイの仏教は小乗仏教である。

 小乗仏教は「輪廻」をその基礎に置く。車輪が回転するように、衆生は三界六道を流転し、生成と消滅を繰り返すという思想である。

 これを悪用するとどうなるかということが、『蛇』の主題の1つになっている。「来世のためだぞ」と言いくるめては貧乏人からなけなしの銭をふんだくり、かくして寺はひたすら肥るのである。

 読み終えると、仏教にも農村にも未来はないという実感におそわれるが、それは決してあってはならないことだ。仏教はともかく、農業が衰退すれば人間の社会は確実に破滅へと向かう。


 古い話で恐縮だが、豊田勇造が歌う「ブンミー」が思い出される。ブンミーとはやはりタイの農民の名前で、こちらは実在の人物。森を切られたために水が不自由になった土地で生きる彼もまた、『蛇』の主人公と同じく、苦闘しつつ生きる典型的な現代の農民である。

 しかし、どんな悪条件のもとにあっても、ひび割れた大地に水を導こうとする彼は、いわば農業の原点に立つ。その心がやがては次代の農を開くはずだと思いたい。

 「ブンミー」はCD『マンゴーシャワーラブレター』(1993年 ビレッジプレス http://toyodayuzo.net/discography/disc_mango.html)で聴ける。

2026年3月15日日曜日

銀座から上野、神田

 


 夜明け間もない銀座を歩いたことが、過去に何度かある。古く1960年代の半ば頃のことだ。多くは、オールナイトのジャズイベントが明けての銀座歩きだった。

 記憶に残っているのは、店じまい後に飲食店が出しておいたものなのだろう、あちらこちらに放り出された生ゴミの発するむせるような臭いである。

 丁寧に片づけることなど全く意に介していないらしいそれらのゴミの山は、銀座が「経済活動だけの街」になってしまったことを物語っていた。そこが生活の場であるなら、誰だってもう少し環境を大切にするだろう。

 今は少しは改善されているか。


 銀座で生まれ育った人たちは、過去にはたくさんいたし、現在でももちろんいる。

 出かけることはもうなくなったが、テレビのニュースなどで銀座が映し出されたときにふと思い出すのは、銀座のおでん屋「お多幸」に生まれ、この街を終生愛した俳優の故殿山泰司である。


 この人はジャズのガイキチだった。いくつか本になった「日記」の部類を読むと、あきれるほど足まめにコンサートやライブに出かけていく様子が記述されている。

 1960年代後半から70年代はじめにかけては僕もかなりの頻度で彼が好きだった(当時でいう)ニュー・ジャズを聴きに行ったが、一度も同じ場に居合わせたことはない。関心の対象が微妙にずれていたからだろうか。


神田駿河台下のジャズ喫茶「イトウ」

 『JAMJAM日記』(ちくま文庫)に上野池の端仲町通りのジャズ喫茶「イトウ」の名前が出てくる。ジャズ喫茶といっても音は小さくてまあBGMのようなものだったのだが、コーヒー(ブルーマウンテン)がおいしいという噂を聞いて何度か入ったことがある。どことなく昔風の、妙に落ちつける店だった記憶がある。

 そのイトウの姉妹店がかつて神田駿河台下にあった。上野の店のオーナーの弟さんとやらが経営していた店ではなかったか。


 その神田のイトウではじめて聴いたのが、ピアニスト、レッド・ガーランドの『All Morning Long』だった。

 時々ふとした拍子に思い出すディスクだが、あいにくCDは持っていない。

2026年3月14日土曜日

こなべちゃん、逝く

 


 3月12日、「現代の浮世絵」と呼ばれる魅力的なグラビア写真で知られるカメラマン、渡辺達生が逝った。病死らしい。

 今から52年前の1974年、彼が専属カメラマンだった雑誌『GORO』が創刊されて間もない頃、この雑誌で記者をつとめていた家崎晴夫を介して知り合った。同誌の専属カメラマンにはもう一人渡辺姓がいて、身体が大きい彼を「おおなべちゃん」、小柄な達生君を「こなべちゃん」と呼んだ。

 当時ロック雑誌に多く寄稿していた僕に彼が「ロックのことを教えてよ」とすり寄ってきたのが親しくなるきっかけだった。『GORO』ではもっぱらゴーストライター風の役目をしていた僕は、彼と組んで仕事をしたことはない。それなのに、編集部でいちばん多くおしゃべりする相手が彼だった。

 1978年を境に僕は『GORO』と縁遠くなったので、以後長い間彼に会うことはなかった。再会は2014年、学士会館で開催された「相倉久人さんを送る会」でだった。「うわっ」と叫んで彼が駆け寄ってきたのを思い出す。

 その後はもっぱらFacebook上でやりとりするつきあいで、直接会うのは結局のところ「送る会」が最後となった。

 2011年に彼が立ち上げた遺影撮影のプロジェクト「寿影」は、「あの世へは笑っていこう!」がテーマだった。こなべちゃんもまた笑って河を渡っていったと思いたい。

2026年3月13日金曜日

ガマの油から反戦歌まで

 


 何かのひょうしに子供の頃体験したことをふっと思い出すことがある。

 記憶というのは妙なもので、大事なことはたいてい忘れている。そのかわり、何の役にも立ちそうにないことがしっかり刻まれて定着していたりする。

 小学生時代のことで思い出すのは、浅草の浅草寺の境内で大道芸ふうに演じられていた「空手の瓦割り」に引っ張り出されたことである。ぼんやり見物していたら、不意に「空手の小父さん」が近寄ってきて、手を引っぱる。そのまま、何十人かが取り巻く輪の中央まで出て行った。


 小父さんが小声で耳打ちしたことをいまでも覚えている。

「いいか、坊や。息をとめるんだぞ。とめたままエイヤッと手を振り下ろす。そうすりゃ、瓦は割れる」

 そのとおりにした。真っ二つというわけにはいかなかったが、瓦の面積の3分の1くらいが割れて飛んだ。周りからは「ホホーッ」と感嘆の声があがった。しかし、手がとりたてて痛くなかったことからすると、あの瓦はよほどやわらかくできていたのにちがいない。あるいは、最初からひびを入れてあったか。


 その頃の浅草寺境内にはこの種の人たちがたくさん見せ物芸を提供しながらものを売っていて、空手(これが何を売るものだったのかは、どうしても思い出せない)の隣には「ガマの油売り」がいた。刀で紙をどんどん小さく切っていき、最後に自分の腕の皮膚に切り傷を入れ、ガマの油を塗って効用のほどを示すという、例のやつである。

 僕はどうもボーッと突っ立っている子供だったらしく、このガマの油売りにも引っ張り出されそうになったのだが、これは逃げた。空手の次に腕に切り傷までつくられてはたまらない。

 しかし、その後、薬屋というのによくわからない親しみを覚えるようになったのは、どうもこのガマの油売りの印象のせいではないかという気がする。見せ物芸は見ているだけでおもしろかった。その上、痛い傷をちゃんと直す薬まで売ってくれる。薬屋というのはなんて素晴らしい仕事なんだ、なんて素晴らしい人たちなんだ、というわけである。


古川豪の「絶望と希望」という歌

 京都の新大宮商店街にかつてイスズ薬局という薬屋があった。店主の名は古川豪。フォーク・シンガーとして知られるあの古川豪だ。

 大手のドラッグストアの進出などの影響を受け、7〜8年前に店じまいしてしまったが、あれは1998年の夏、ライブハウス拾得恒例の七夕コンサートを観に行った折りに一晩泊めてもらったことがある。

 昼頃に店に着き、売場で何かの説明を受けていたときだ、まだ小さな男の子を抱いた若い母親が入ってきた。子どもが便秘で、浣腸が欲しいという。

 僕は店の隅で店主と客のやりとりをぼんやり聞いていたのだが、浣腸の使い方についての古川君の懇切丁寧な説明にびっくりした。説明は20分ほど続いたのではないか。そうして、説明が終わって受け取った代金は200円かそこらだったと思う。薬屋という商売の大変さを感じた。と同時に、古川君は片手間に商売をやっているのではない、本物の薬屋なのだと認識を新たにした。


 元薬屋で歌手、さらにはバンジョーの名手でもあるその古川豪に「絶望と希望」という歌がある。2001年9月11日にアメリカで起きた同時多発テロとその実行者の心の動きを歌った1曲で、2003年にオフノートからリリースされた反戦抵抗歌集CD『瓶のなかの球体』(http://offnote.org/SHOP/ON-45.html)におさめられている。

 反戦歌の一種ではあるが、テロリストを一方的に非難する歌ではない。むしろ、テロリストに寄り添うようにその内面の心理と動きを活写する。

 同時多発テロから25年、一転して今度はアメリカがイランを爆撃している。そんな時代の今だからこそ多くの人々に聴き、感じとってもらいたいと思う1曲である。


2026年3月12日木曜日

本の中での出会い

 


 エッセイ本を読んでいて、思いがけない名に出会うことがある。今日は、新聞の連載コラムをまとめた『山口瞳/酒呑みの自己弁護』。「ハモニカ横丁」と題された回にこんな記述がある。

「昭和二十一年九月に、前に書いた小さな出版社に入社した。十九歳だった。

 そのときの社員は、いま岩波書店の重役になっている元山俊彦さんと私の二人だった」

 元山俊彦さん……何十年ぶりで聞く名だろう。僕が岩波書店を辞めた1971年だとすると、55年ぶりか。


人好き、世話好きの元山さん

 初出の表示がないので正確にはわからないが、このコラムが書かれたのはその翌年1972年と思われる。ここでは元山さんを「重役」としてあるが、これは違う気がする。71年に僕が社を辞めたとき、元山さんは編集副部長だった。それからわずか1年で経営幹部になるとは思われない。どうでもいいことだが、そう思う。

 ただし、元山さんが岩波書店という会社を代表する社員の一人であったことは間違いない。けっして大柄ではないが、目立つ人だった。声も大きかった。コラムにもこう書かれている。

「いまから思うと不思議なほどに元山さんは親切に面倒をみてくれた。体つきは細いけれど腕っぷしが強そうで、豪傑の感じがあった」


 71年の夏のある日のことが甦ってくる。

 昼時だった。僕は何かの用事で神保町にいた。食事をすべくすずらん通りを歩いて、店を物色していた。すると、通りの向こう側から突然声が響いた。「浜野君、浜野君! 元気にしてるかあ!」

 その声の主が元山さんだった。


 元山さんは会社組織の上では上司であるが、直接仕事を共にしたことはない。それなのに、会社を辞めて数か月経つ元社員に声をかけてくるのは、氏が根っからの人好き、世話好きだからである。入社して間もない頃から、廊下などですれ違う度に何かしら話しかけられた。叱られたことはない。いつも頑張れよという激励の言葉だった。

 それから55年。とうに鬼籍に入られたと思うが、元山さんのようなタイプの人物は、現代ではごく稀少な存在となっているかもしれない。

2026年3月11日水曜日

東日本大震災から15年

 


 2011年3月11日の東日本大震災から15年が過ぎた。

 震源からはるかに遠い東京は八王子での体験だったが、あの日のことは忘れられない。

 作業が一段落し、連絡のメールを発信すべく送信ボタンにマウスのポインタを近づけた瞬間だった。突然の大きな揺れ。と思う間に、背後にあるスライド式書棚のスライド棚が外れて倒れる、棚に並べていたCDが床に散乱する、机の隅にあるスキャナーが吹き飛ばされる。まさにパニックだった。

 仕事部屋を出てリビングに入ると、女房がテレビを抑えながら震えて立っていた。


飛ばされたその日の夜の約束

 その日の夜は、白山のジャズ喫茶で知人二人と会う予定だった。二人は独身の男女で、結婚相手の候補として引き合わせるつもりだった。つまりはお見合い。しかし、そんな計略もすべて地震で吹き飛ばされた。

 二人の片方、女性の身が案じられた。ケータイで連絡をとろうとしたが、繋がらない。テレビのニュースを見続けるしかなかった。

 夜遅くなって、その人からメールが入った。交通機関がすべてストップしていて、勤務先で一夜を明かすことになったという。ほっとした。と同時に、すべてが夢か幻であってほしいと願った。

 眠れなかったあの夜からもう15年か。

2026年3月10日火曜日

記憶の中のはしご酒

 


 藤圭子に「はしご酒」という歌がある。

  飲めば飲むほど うれしくて

  しらずしらずに はしご酒

  恋は小岩とへたなしゃれ 酒の肴にほすグラス

 作詞ははぞのなな、ヒットしたのは20年ほど前か。


 好きな歌というわけではなく、ごくたまにYoutubeで聴く程度だが、この歌が流れる度に思い出す男がいる。元音楽之友社編集者でのち音楽ライターとして活動した大屋順平だ。

 彼とははしご酒のつきあいだった。


 すでに物故されたが、オーディオ評論家で真空管アンプの権威だった上杉佳郎という人がいる。学生時代はスピードスケートの選手だった偉丈夫で、体力は折り紙付き。オーディオ機器のテストには美空ひばりの「悲しい酒」を使うという酒好きでもあった。

 その上杉氏が誇る酒の上での記録があった。何かというと、はしご酒。氏が打ち立てたはしご記録は店数、いやはしごだから段数にして13。1店1杯としても13杯のグラスがほされたことになる記録である。

 その上杉氏の記録にチャレンジしようと言い出し、僕を道連れに誘ったのが大屋順平その人で、実際には二度実行した。しかし、二度ともはしごの数は上杉氏に遠く及ばない7段。見事に敗退した。7店にとどまった理由は酔いではない。飲み代が尽きたのだ。悲し。


バーを商う家に生まれ、酒で寿命を縮めた

 大屋順平とはそもそもの出会いから酒がらみだった。

 時は1972年、彼が雑誌『レコード藝術』増刊編集部に所属していた時期のことだ。山下洋輔さんにインタビューしてレポート記事を作ろうという企画がもちあがり、筆者として僕が選ばれた。電話があり、まずは打ち合わせをということになった。場所は新宿の酒場「酩酊浮遊ぷあぷあ」。ライターと編集者は特に新規のつきあいとなる場合は直接面談で打ち合わせるのが当時の常識だったが、それを酒場でというのは、僕の場合、後にも先にも大屋順平しかいない。


 それだけではない。少し遅れて酒場に来た彼は席に着くとすぐにウィスキーのボトルを注文。二人して呑み始めた。そうして、1時間。ボトルは3分の2ほどが空になった。のちのち「乱暴な呑み方をするやつだなあと思ったよ」と互いに笑い合うことになる初対面だった。


 編集者のくせして、妙な日本語を使う男でもあった。大屋君の実家は東京赤羽の片隅でバーを営む家だったが、彼はそのことを「赤羽のバマツだよ」と説明する。「バマツ」はもちろん「場末」のことだ。いま思うと、彼は意図してそう言っていたのかもしれない。

 雑誌編集者としてのキャリアは短く終え、70年代後半から彼は音楽ライターとしてものを書くようになった。守備範囲は日本のシンガーソングライター系音楽が中心で、ことに上田知華+KARYOBINを熱烈に支持した。

 しかし、職種が変わって自由な時間が増えたせいだろう、それからの彼の生活は酒浸りの日々という様相を濃くした。僕自身は70年代後半以降彼と会う機会は激減したが、酒の上でのトラブルをよく噂で耳にした。そして、酒は彼の人生の結末を招く。


 さだまさしに「1989年 渋滞―故 大屋順平に捧ぐ」という歌がある。タイトルにある1989年の11月16日、大屋順平は膵臓壊死で逝った。42歳だった。

 その5〜6年前だったろうか、彼は十二指腸潰瘍を病んだ。手術を受け、無事生き延びたが、彼は酒をやめなかった。そのつけが、1989年11月16日の死を招いたのだった。


 偶然だが、大屋君が熱く支持した上田知華も、それから32年後の2021年9月17日、膵臓癌で他界した。


2026年3月9日月曜日

ピジン・イングリッシュ、ピジン・ミュージック

 

 ピジン・イングリッシュと呼ばれる言語がある。「ピジン」はpidginと書く。英和辞典などでは「businessが崩れた語」といったふうに説明されることが多いようだが、実際ははっきりしない。

 ピジン・イングリッシュ自体もまた「崩れた英語」などと言われることがあるが、これは正確ではない。例えば、もともと英語を母語としない地域の人たちが英国の支配下に入り、英語を使わざるをえなくなる。その結果、生来の言語感覚の上に英語をのせるようにして形成されたのが、ピジン・イングリッシュなのである。

 典型を1つ挙げれば、ハワイの人たち、ことに二世代、三世代前のハワイ人が使った独特の英語がそうだ。いや、英語だけではない。植民地主義のあるところ、同じような「ピジン語」がいくつもできた。


「ピジン・ミュージック」の誕生

 似たことは、当然ながら「もう1つの言語」である音楽の世界にもある。書き言葉はラテン語、日常の話し言葉は地域それぞれの言語が使われた中世ヨーロッパにならっていえば、「書き音楽」として誕生したのが、平均律を土台とするヨーロッパ音楽である。基本的なシステムはごく単純化されているから、教育にはもってこいだし、だから世界のあちこちに輸出された。

 より具体的には、ヨーロッパ音楽は固有の楽器を通して伝わっていった。ピアノはもちろん、ギター、サックス、トランペットその他その他、皆ヨーロッパで形が整えられた楽器である。

 しかし、それらの楽器から生まれたのは、純粋ヨーロッパ音楽だけではなかった。アメリカではジャズがヨーロッパの楽器を通して形成されていったし、アルゼンチン、というよりブエノスアイレスではタンゴが誕生した。これらはいってみれば「ピジン・ミュージック」である。いわゆるクラシック音楽や民族音楽を除けば、現代のわれわれがふれることのできる音楽の大半がピジン・ミュージックである、と言ってもいいだろう。


 最初は必要から生まれたピジン語が歳月を重ねるうちに新しい母語となり、語彙や用法を充実させていったように、多くのピジン・ミュージックもまた複雑化と洗練化の過程をたどった。「チャーリー・パーカーはジャズを歌と踊りからはなれたコード進行にした」というのは高橋悠治さんのことばだが(「音に向って」)、1928年のルイ・アームストロングに聴きとることのできる「自然さ」はもはや現代のジャズには求むべくもない。それは、この世にある多くの音楽にあてはまることである。


 ライ・クーダーがキューバのベテラン・ミュージシャンたちと共演した、というよりはキューバ音楽にライ・クーダーがまぎれこんだアルバム『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』(1997)はその好例だろう。少なくとも20世紀前半には考えられなかった「多国籍音楽」がここにある。


2026年3月7日土曜日

向日葵の種とテキーラ

 

 大谷祥平のMLBでの活躍が話題をさらうようになった2019年頃からだろうか、ダッグアウトのベンチで向日葵の種を口に放り込む選手の様子がしきりに取り上げられるようになった。いわく、向日葵の種は選手の試合中の栄養補給剤だ、と。

 実際には彼ら選手は出番を待つ間の暇つぶしに食べているだけなのだが、何十年も前から向日葵の種を好んで食べてきた僕のような人間にとっては嬉しい話題ではあった。


 酒飲みなら、いやそうでなくても、向日葵の種が酒のいいおつまみであることは知っているだろう。酒場に置いてあるのは塩味のきついものだが、こいつはテキーラによく似合う。

 30代だから50年近く前の昔、新宿ゴールデン街によく出かけていたころ、テキーラが飲みたくなったときにだけ入る店があった。テキーラが飲みたくなるのは体調のいい日に決まっているので、どうしてもピッチが上がる。テキーラはドライそのものの酒だが、4杯、5杯とグラスを空にしていくと、だんだん自分の体がウェットになってくるのがわかった。

 もうすぐ79歳を迎える今はテキーラのような強い酒はとても飲めないが、あの味わいと飲み応えはいまも記憶深くに残っている。


テキーラのようにドライでタフな音楽

 ゴールデン街のあの店では音楽がかかっていたろうか、とふと考えてみる。何も音はなかった気がする。いや、有線の部類がかかっていて、それがあまりにも日常的な雑音であるために、記憶に残っていないのかもしれない。


 酒と音楽とはいい連れ合いどうしだが、テキーラのようにドライでタフな音楽。そう考えるときに思い浮かぶのは、アート・アンサンブル・オブ・シカゴの『Full Force』(ECM)をおいてほかにはない。1960年代後半から70年代にかけて生まれたニュー・ジャズはいま聴くと大半が古くさくて辛気くさくてかなわないが、このアルバムに限ってはいまも新しく刺激的である。とことん深い音楽は時代を越えるという証明である。ただし、聴くこちらは耳の病で存分に聴き取ることはできない。無念、残念。

 いつだったか、およそ20数年ぶりでくだんのテキーラの店に出かけたことがある。店は昔と変わらず、ただママさんがだいぶお歳を召しただけだった。入ると、すぐにテキーラを注文した。

「いまはもうテキーラなんて置いてないのよ」

と、ママさんはドライな口調で答えた。

2026年3月5日木曜日

手紙というもの

 


 漱石の『坊っちゃん』で一番心に残っているのは、坊っちゃんが待ちに待った東京の清からの手紙。日頃文章など書くことのない清は、何度も下書きして、何日もかけて1通の手紙を書いた。「真情あふれる」というのは、こういう行為のためにある表現だと思う。

 少し前、必要あって梅棹忠夫『知的生産の技術』を再読した。発行されてまもない頃以来だから、およそ59年ぶりである。

 一番興味深く読んだのは、手紙について書かれた章だった。梅棹忠夫は言う、真情あふれる手紙など書こうと思うな、普通人にはそんな才能はない、用件がはっきり伝わる手紙の書き方を習得せよ、そのためには「形式の確立」が必要だ。

 そのとおりと思う。真情というのは、清の場合のように、「自分の内面に本当に真情がある」場合にしか表現できないものだ。文学的な修辞を適当に使い混ぜた「一見真情風」の手紙など、誰がありがたがるものか。

 『知的生産の技術』から59年たって、世は手紙ならぬEメールの時代。Eメールもすでに30年を超える歴史を数えるが、手紙とは違って、Eメールは最初から万国共通といっていい書式が定まっている。サブジェクトとアドレスの書き表し方、返信を出すときの引用の仕方、メーリングリストで他人の発言に言及する際の方法……。梅棹説に従って言うと、Eメール定着の結果、「日本人の文章表現」はすでにつまらぬ文学性から脱け出ているかもしれない。

 ごく普通の生活人にとって、文章、それも自分の内面にかかわる文章を書く機会などそうそうはないものだ。かつて手紙は、その中心だった。Eメールできちんと相手に用件を伝える文章を書くことは、日常的な言語表現を大きく変える可能性をもっているはずである。


「スペイン革のブーツ」という歌

 「手紙」が重要な小道具になっている歌で真っ先に思い浮かぶのは、ボブ・ディランの「スペイン革のブーツ」である。ある日、恋人(女性)が突然ヨーロッパへの船旅に出る。「私」は、恋人が「危険な大洋」を渡っていくことにためらいをもつ。しかし、彼女は委細かまわず出発する。やがて、船上からの手紙が届く。「私」は思う。

  西風に気をつけて、気をつけて。

  嵐に気をつけて。

  送ってくれるというなら、これだけ、

  スペイン革でできたスペインのブーツ

 「スペイン革のブーツ」がどういうやりとりの中で出てくるのかは、説明しない。自分で歌を聴き、詞を読んでほしい。それが、男と女の間に横たわる永遠の溝を象徴するものであることがわかるだろう。


 この歌は、ディラン自身のものより、1990年代に入ってつくられたナンシー・グリフィスによるカバーが好きだ。『Other Voices,Other Rooms』というアルバムに入っている。

 女性である彼女は、歌の登場人物の男と女を逆にして歌っている。それだけで、歌の世界は全く意味を変える。

 ちなみに、この演奏で控えめな、しかし印象に残るハーモニカを吹いているのは、ディラン本人である。


2026年3月4日水曜日

ジミー・ギャリソンの思い出

 



 アメリカ時間で今日3月3日は、ジャズ・ベーシスト、ジミー・ギャリソンの誕生日。彼は1933年3月3日生まれだ。「3」が並んでいる。

 ギャリソンとは、一度だけじかに話をしたことがある。1966年7月22日、ジョン・コルトレーンの来日公演の東京シーンをしめくくる有楽町ヴィデオホールでのオールナイト・コンサートがあった日だ。

 その日、ギャリソンは神保町にあったジャズ喫茶「響」にやって来た。事前にそのことを知らされていたのだろう、僕もその場にいた。ギャリソンは酒好きだった。それで、「響」オーナーの大木俊之助さんは熱燗の日本酒をふるまった。僕もご相伴にあずかった。すると、時刻が来て店を出ることになったとき、ギャリソンが僕に言った。「君も一緒においで、コンサートに」僕らは店を出て、タクシーに乗り込んだ。

 車中の会話がいまも記憶に残っている。風が強い日で、車の窓外にはゴミが吹き飛ばされていく様が見える。僕は言った。“Tokyo is a dirty city”瞬時に彼が言葉を返した。“Ooo! dirty?!”僕の言い間違いである。dirtyではなくdustyのはずだった。


血をにじませながらベースを弾く

 その夜のコンサートは凄かった。コルトレーンは小さな打楽器をいくつもいれた袋を手にステージに現れ、それら打楽器を叩きならしながらサックスを猛烈に吹いた。その背後にいるジミー・ギャリソンはといえば、これまた必死の表情でベースを弾く。ステージの直下の席にいた僕の目には、彼の手に血がにじんでいることがはっきりと見とれた。

 けっして健康体とは思えない、コルトレーンの疲れ切った表情とともに、その様子が60年経ったいまも記憶に鮮やかだ。事実、それから1年後にコルトレーンは逝った。


 コルトレーンの享年は40。あまりにも早過ぎる死だった。

 コルトレーンだけではない。バックをつとめたジミー・ギャリソンも早世した。彼が世を去ったのは1976年4月7日。わずか43年の人生だった。

2026年3月3日火曜日

20世紀音楽の死物語再スタート

 


 雑誌『CDジャーナル』の仕事をよくしていた頃だから2005〜10年あたりだろうか、CDJ編集部の某君と「ロック・ミュージシャンの死にざまをテーマにムックを1冊作らないか」という話がもちあがった。CDJとの縁が薄くなるとともに話はいつの間にか立ち消えとなったが、あるとき、ふとそのことを思い出し、同じテーマで自分のブログを作ろうと思い立った。2017年だったと思う。

 ロックだけでなくジャズもクラシックもその他民俗音楽も含めて取り上げるミュージシャンのリストを作ると、約100名になった。完走できるかなという疑問を持ちつつも書き始めると、キーボードを叩く勢いは快調そのもの。短期間のうちに25名ほどまで進んだ。

 しかし、物事には翳りがつきまとう。生来何をやっても長続きしない性格もあってだろう、マリア・カラスについて書く段となって、手の動きがぴたり停まった。伝記をいくつか読みそこから発想して文を作成していくという方法で進めてきたのだが、何冊伝記を読んでもマリア・カラスという人物の輪郭がイメージできない。笑い話めくが、彼女が美女であったかそうでなかったかといったレベルで判断不能に陥ってしまったのである。それが足止めとなり、結局はブログの更新停止が以後4年ほど続くことになる。


「20世紀音楽の死物語」、滑ったり転んだり

 2022年の春のある日、その頃日々通っていた八王子市南大沢図書館で特集テーマコーナーの開架に置かれていた1冊の文庫本の表紙が目にとびこんできた。和田誠・村上春樹両氏による『ポートレイト・イン・ジャズ』(新潮文庫)だ。瞬時思いついた、そうだ、肖像画イラストとの組み合わせでブログを仕立て直してみよう、山下セイジ君にお手伝い願おう。

 そうとなったら話は早い、すぐに山下君にメールを送って相談。快諾を得て、Wordpress上にサイトを作り、下準備。原稿はすでに以前のものがあるからイラストの出来上がりを待ち、2022年4月、ページはスタートした。


 作業は順調に進んだ。月に2〜3回のペースでページを更新。年をまたいで1年後の2023年4月、既存の原稿はほぼ使い尽くした。そして、ここでまた一波乱が起きる。

 連載30回目となる二村定一のテキストを送った4月末日、山下君から体調不良の連絡があった。様子見となってその1か月後、二村定一の肖像画イラストが送られてきた。しかし、不吉な文言が添えられていた。彼の体調不良はただの体調不良ではなく、肺結核の怖れがあるという。

 そして、怖れは的中した。6月、山下君は手術を受けるべく入院。それとともに、「20世紀音楽の死物語」も当然ながら更新ストップ。さらに、通常は平均3か月ほどと言われる彼の入院は6か月にまで延び、同時に退院を待つこちらもものを書くことができない精神のトラブルに見舞われた。ブログは停止状態を続け、翌年になって消滅した。


 そんな「20世紀音楽の死物語」ブログを、一昨日再開した。正確にはブログではなく、ここ数年広く注目を集めているnoteフォーマット上で。

 noteのエディターの操作に慣れないせいもあって、なかなかスピーディーにとはいかないが、しばらくは再構築を続けて行く。その結果がどうなるかは、全く予想もつかないが。


2026年3月2日月曜日

忘れられない手紙

 


 立花実さんの遺品の中に、数通の手紙があった。どれも、読者からのファンレターとおぼしきものだった。

 私信だから、本来なら中身を読むわけにはいかない。しかし、遺族からの依頼があって、その人たちへの連絡係をつとめることになった。そのためには、一通り文面に目を通しておく必要があった。

 なかで一通、とても気持ちのこもった手紙があった。十代後半の男性からのファンレターだった。どう書いていいものか迷ったが、「立花さんが亡くなりました」という内容の、単に事務的な手紙を書いて投函したはずである。

 ほどなく、返事が来た。これまた、十代という小生意気な年齢とはとても思えない、心のこもった手紙だった。文面はごく短く、「残念」の一言に要約できる種類のものだったと思う。しかし、読んでいると、行間から涙があふれ出ていると感じられた。

 こんな素敵な読者を持った立花さんの幸福を思った。それはまた、立花さんの真摯そのものの文筆活動の照り返しでもあったろう。


30年後に届いた新たな手紙

 あれは1997年の初夏だったか、雑誌『ジャズ批評』が「ジョン・コルトレーン没後30年」の記念特集をすることになり、僕のところへも珍しや原稿の依頼がきた。書きたいことはたくさんあったが、短い原稿なので、話題を1つに絞ることにした。立花さんはおそらく日本で一番コルトレーンの音楽を愛した人である。日本公演の際のエピソードにふれながら、こんな受けとめ方をした人がいたという文脈で、立花さんの文章を数行引用した。

 版元に原稿を送ったら、それきりで立花さんのこともコルトレーンのことも頭から消えてしまったのだが、掲載誌が街に出てしばらくした頃、見知らぬ人からの手紙が舞い込んだ。Yさんという署名があった。その名前に記憶はなかった。

 読み始めてすぐに思い出した。立花さんの遺品にあった、あのファンレターの主だった。あれから29年、もうジャズを聴くことはなくなった。しかし、あの頃読んだ立花さんの文章はいまも忘れられない。それにひきかえ現代は、そういう人の心深く語りかけてくる書き手のいない時代になった……そんな意味のことがつづられていた。

 Yさんもまた久方ぶりにジャズの雑誌を手に取り、そこに僕の名を見つけて手紙をくれ、それが雑誌の編集部経由で届いたのだったが、読み終えて、熱い感情がこみあげてきた。いまさら、立花さんの死を惜しんでもしかたがない。それはわかっている。しかし、そうでありつつ、こういう読者に応えることのできる書き手や音楽ジャーナリズムが乏しくなった時代に歯ぎしりする思いがした。


 Yさんの現在のお仕事は、ピアノの調律師だという。手紙には、思わず頬のゆるむ楽しい一文があった。いわく、調律師になってから、50〜60年代のジャズ、ことにライブ盤は聴けなくなった。なぜなら、あの頃のジャズ・クラブのピアノはどれも見事に調律が狂っていて、聴くこちらの神経がおかしくなる。

 言われてみると、たしかにそうである。例えば、バードランド。例えば、ヴィレッジ・ヴァンガード。そういった有名ジャズ・クラブで録音されたピアノは、揃いも揃って摩訶不思議な音がする。その典型はコルトレーンの『ライブ・アット・バードランド』だろう。

 しかしながら、実際のところは、そういうものの中にこそ名盤のほまれ高い作品が多かったりする。一例としてすぐに思い浮かぶのが、メモリアル・アルバムを含めて3枚出ている『ファイヴ・スポットのエリック・ドルフィー』シリーズである。


 録音は1961年。トランペッターのブッカー・リトルの急死のために短く潰えたクインテットでピアノを弾いているのは、マル・ウォルドロン。このピアノの音がなんともいいようがないほどに独特なのである。

 ピアノというのは、ギターやサックスとは違って演奏家が自分の愛器を持ち歩くことのできない楽器だが、では、多数のピアニストが共用するクラブのピアノが皆同じ音を発するかというと、そんなことはない。ピアノの音色は、弾き手によって見事なまでに変わるのである。

 この録音に親しんでいた頃はだから、マル・ウォルドロンはなんと不思議な音をピアノから引き出す人だろうと思いこんでいた。言葉で説明するのは難しいが、ピアノのハンマーからフェルトを取り去ったような、金属質の音。それがピアノを打楽器のごとく扱い、横に流れるのではなく上下運動を繰り返すようにしてフレーズを刻んでいく彼のスタイルをよけいに引き立て、ミステリアスな空間をつくりあげる。

 彼はしばしばペダルを踏みっぱなしで演奏したりするが、それもおそらくは調律の狂ったクラブのピアノに業を煮やしたあげくのことだったのに違いない。彼だけではなく、当時のジャズ・ピアニストは皆ろくでもない楽器と苦闘するようにして演奏活動を続けていたのだろう。


 しかし、その時代のジャズには、環境が何もかも整った現代には求めにくい、狂おしいまでの激しい心の動きがある。それがドルフィーの『ファイヴ・スポット』やコルトレーンの『ライブ・アット・バードランド』などの傑作を生んだ。

 環境の貧しさを賛美するわけではない。しかし、聴き手が少数だろうと、会場の音響が悪かろうと、楽器が不備だろうとひるむことなく大胆な表現に挑戦し続けた彼らの姿勢には、あらゆる音楽の魅力の源泉となるものがいまも潜んでいるはずである。

2026年3月1日日曜日

忘れられない人

 


 首都圏ではちょうど今頃、春のように暖かい日が続いたかと思うと、突然冬に逆戻りすることがある。そんな気候の日々、不意にある人物のことを思い出す。その人の名を、立花実という。

 立花さんは、あえて職種で分けるなら、ジャズ評論家だった。「あえて」というのは、僕にとっては年長のジャズ喫茶仲間であり、先輩であり、師匠であると同時に、あまり原稿を多くは書かない文筆家であり、さらに言えば「非難がましい言説はあまり弄することなくひたすら音楽家の美点を称揚した」という意味では「いわゆる評論家」の部類には属さない気がするからだが、しかし基本的にはまぎれもない「文筆の人」だった。

 それではなぜ思い出すのが今頃なのかといえば、これははっきりしている。僕の記憶にある氏の残像が、こんな季節のそれだからである。冬、立花さんはいつだってあまり高級ではないジャンパーを着て、寒そうにしていた。いまになってみれば、それはきちんとした食事をとっていなかったせいではないかと思うが、一杯のコーヒーをあれほど美味しそうに飲む人もなかった。そして、コーヒーを口にふくんで一息つき、ジャズの音に耳をすますと、氏の眼には春の光があらわれる。

 最後に会ったときの、憔悴しきった表情が記憶の底から浮かんでくる。ある夜、氏は酒に深酔いして道に倒れ、鞄を盗まれた。資料やメモがごっそり入った、氏の最大の財産だった。年少の僕に、氏はうなだれたままそのことを語ってくれた。


 氏が故郷仙台の広瀬川で入水自殺をとげたのは、それから間もなく、1968年3月のことである。理由は知らない。あの鞄のせいかもしれない。あるいは、僕にはそっと話してくれた失恋のためかもしれない。葬儀からしばらくあとになって訪れた実家でうかがった話では、その夜、氏の机の上には、テイヤール・ド・シャルダンの『現象としての人間』が読みさしのまま置かれていたという。死に至るヒントはその中に書かれているのかもしれない。


眼に浮かぶ春の光

 立花さんから教わって魅力を知った音楽家は何人もあるが、その中から1つだけ選べば、やはりカウント・ベイシー楽団を挙げなくてはならないだろう。ジョン・コルトレーンを中心に新しい動き、若者の挑戦を常に高く評価した氏は、一方では古いもの、伝統的なものの価値を忘れない人でもあった。ベイシーを語るとき、氏の眼にはやはり春の光があった。

 僕が実際にベイシーの魅力を知るのは、それからさらに長い時がたってからのことになるが、それは「ティックル・トゥー」という1曲に始まり、その1曲に尽きている。ベイシー楽団の素晴らしい演奏は、もちろんほかにもたくさんある。しかし、僕にとってのベイシーは、何はどうあれこの1曲できまり、なのだ。

 家でアナログ盤が聴けなくなってから、この曲のことは長いこと忘れていた。たまたまTVで50年代のベイシーの演奏を記録した短いフィルムを見る機会があって、思い出した。それで、CDを探してきた。


 50年代のベイシーも悪くはないが、30〜40年代のこの楽団には「黄金時代」という形容がぴったりの、燦然と輝く魅力がある。「ティックル・トゥー」もまた、レスター・ヤングがいた時期、1940年の録音である(CD『this is jazz Count Basie』)。

 この曲の魅力を言葉で語る自信はない。ジャンプするようなリズムに乗って、バンドの音が揺れるがごとく動く。ソロ、ことにレスターのそれの素晴らしさ。楽器によるみごとな歌。そして、炸裂するアンサンブルの華麗な音。全盛時代のエリントン楽団もそうだが、単純なメロディーをユニゾンで吹いてもそこに尽きることのない魅力が感じられるのは、一人一人の音色が微妙に異なっていて、それが響きの深さを生んでいるからである。これぞジャズ、うん、まさにそうだ。


 立花さんのお墓参りをしたのは、いまから50年近く前である。お墓は仙台市からバスでかなり長時間行ったところ、自然に囲まれた閑静な斜面の墓地にあった。

 宿を出るときは晴れていたのに、お墓の前で手を合わせていたら、不意に雨になった。冷たい雨だった。僕と妻は、しばらくの間、じっとその雨にうたれた。

 「ティックル・トゥー」を聴いていると、なんの関係もなく、そのときの雨のにおいがもどってくる。