2026年5月16日土曜日

松田政男さんと現代思潮社、その2

 


 陶山幾朗『「現代思潮社」という閃光』を読む。

 著者はかつての現代思潮社に6年間編集者として在籍した人で、65年の歴史をもつこの社の10分の1程度を知っているにすぎないが、それでいて現代思潮社はどのような出版社であったかがほぼあまさず語り尽くされている。

 本は創業者である石井恭二氏の死亡記事から始まっているが、それに続く「入社前史」なる章を読んで、松田政男さんが現代思潮社の社員だったことをはじめて知った。陶山氏の入社後しばらくして、二人は編集部で机を並べることになる。まだ編集者はこの二人だけの小さな出版社だった。


 当時、編集部は西神田と呼ばれていた地区の、専修大学神田校舎裏の狭い路地を入った奧にあり、営業部が文京区春日伝通院坂下にあった。編集部は木造しもた屋の二階で、玄関の狭い引き戸を開けると、すぐ目の前に二階に上る階段があり、来訪者は先ずこの土間から二階を見上げて「ごめんください」と声をかける具合になっていた。……ところで、今では信じられないかも知れないが、当時、西神田編集部には冷房が無かった。したがって、夏の猛暑のなかをわれわれ編集部員は、やむをえずパンツ一枚で仕事をしていたのである!(「《西神田》、本日もホコリ高し」)


 1965(昭和50)年の東京の情景である。そうして、僕は自分もまた似たような境遇で働いていたことに気づいた。


冷房のない夏の仕事場

 同じ年、僕は高校を出て岩波書店に入社した。当時の岩波書店の社屋は現在のビルに建て替える前の古い三階建てのビルで、ここもまた冷房のない空間だった。ただし、現代思潮社とは違って、社のフロアのあちこちには扇風機が据えられていた。真夏はどの部署の社員も扇風機の風を受けながら働いた。

 ところが、例外があった。編集部だ。ここにも扇風機はあったが、停められていることが多かった。何故か。当時は、いうまでもなく編集の素材は手書き原稿である。扇風機の風を受ければ、原稿がめくれあがって仕事にならない。だから、編集者は皆扇風機をとめ、首にタオルを巻いて汗を吸い取りつつ仕事したのである。


 僕がはじめてジャズの生演奏に接したのは、そんな1965年の夏のさなかだった。ところは、銀座松屋裏にあった「ジャズ・ギャラリー8」。相倉久人さんが司会をつとめていた。


 その相倉さんに声をかけ、話をするようになったのは、同じ年の秋だったか。その翌年、相倉さんは活動の場を銀座から新宿に移す。その頃から僕はほぼ毎日相倉さんと会って話をするようになり、さらにその5年後、相倉さんを中心に創刊された雑誌『映画批評』の編集部で松田政男さんに出会うことになるのである。

2026年5月12日火曜日

松田政男さんと現代思潮社

 


 松田政男さんについて調べていて、現代思潮新社(旧現代思潮社)が昨年9月末で廃業したことを遅ればせながら知った。元編集者であるらしい柿生隠者なる方のnoteに挨拶文が引用されていた。「1961年、石井恭二が創業した株式会社現代思潮社は、2000年、石井恭二の引退を期に社名を現代思潮新社と改め再出発をし、引き続き皆様にご愛顧いただいてまいりました。しかしながら、今般、諸般の事情により、2025年9月末日をもちまして廃業することにいたしました。……」


 松田さんについて調べる途中で旧現代思潮社をキーワードに検索をかけたのは、松田さんは直接、現代思潮社は発行物を通して、僕の文筆の師であったからだ。松田さんからは、1960年代末だったろうか、新宿にあった喫茶「ぼろん亭」で長文をどう書けばいいかを教わった。「長い文章を書くときはね、いきなり原稿用紙に書き始めちゃだめなんだ。まずはプロットを作る。これから書く文章のテーマに沿って小見出しを考え、小見出しから小見出しへとつなげていく。小さなマッチ箱をいくつも作って、紐でつなげていく要領だよ」という教えだったと思う。実際に実行してみると、長い文章がスムーズに書けた。松田さんが編集同人の一員だった雑誌『映画批評』に寄稿した「祭りなきフェスティバル」という雑文がそれで、いま調べたら初出は1971年3月とある。

 現代思潮社については、60年代に同社から刊行された谷川雁の著作集が文章作成の導き手となった。4冊ある著作集のうち『原点が存在する』が特にそうだが、谷川雁の文章は語り口、リズムなどのいろいろな点で参考になった。そう、まさしく原点がそこにあった。


最後は映画の試写会で

 相倉久人さんの紹介で知己となった松田さんは、その頃は「映画評論家」が肩書だった。しかしながら、ぼろん亭での対話を何度か重ねるうちに、この人がただの映画評論家ではないことを知るのに時間はかからなかった。著作集を発行している航思社という出版社のウェブサイトの略歴欄にはこう書かれている。「都立北園高校在学中の50年に日本共産党入党。以後、共産党所感派に属しながら、高校細胞などで活動し、卒業後は職業革命家となるも、54年の総点検運動により党活動停止処分。その後、共産党神山派で活動するが、ハンガリー事件の評価をきっかけにした神山派分裂後はトロツキズムからアナキズムへ接近。60年代中期以降はゲバラやファノンの第三世界革命論を導入しながら、直接行動の原理を模索し、『テロルの回路』などの戦術論集などを発表、68年前後のアクティヴィストたちに影響を与える」

 僕はここでいうアクティヴィストではないが、『テロルの回路』『薔薇と無名者』などの著作におさめられた論考はこれまた谷川雁同様文章のお手本となった。71年5月『ボップス』に載った「音楽の〈場〉とは何か」などは松田さんの文体を模写したかのごとき文章で、雑誌の発行後に「なんだ、俺の文章を真似してくれたのか」とご本人に笑われたものだ。



 『映画批評』が終刊となった1973年以後は疎遠となった松田さんに最後にお目にかかったのは、映画の試写会でだった。作品はクリス・クリストファーソン主演の『午後の曳航』、1976年の夏だったと思う。

 それから44年を経た2020年3月17日、松田さんは肺炎で河を渡られた。87歳だった。

2026年5月11日月曜日

板橋文夫の「てぃんさぐぬ花」

 


 3年前の引っ越しの際に処分したせいもあって、わが家にあるCDは少ない。ざっと見て100枚といったところか。音楽評論家などとうの昔に廃業しているということもあるが、実は現役の頃も所有しているレコードは少なかった。終電に間に合わなくなってわが家に泊めた『毎日グラフ』の編集者が「いやあ、たったこれだけでよく音楽評論ができますねえ」とあきれたのは、1975年頃だったか。

 そんな少ないCDなのに、もらいものの悲しさ、あまり数多く聴いていないものがある。その1つ、『板橋文夫/お月さま』(アカバナ 1997年)がなぜか気になりだして、久々にじっくり聴いた。感じるものがたくさんあった。


 これはオフノートの神谷一義君がライナーノーツの原稿料の代わりにくれたうちの1枚だと思うが、彼のホームタウンでもある沖縄での録音。板橋文夫は日頃のジャズを半ば放棄して、主に沖縄の歌をストレートに弾いている。大工哲弘が歌で加わった曲も数曲ある。

 全17曲あるその中での出色と思えるのが、「てぃんさぐぬ花」。ピアニカによる演奏とピアノによる演奏の2つのバージョンが収録されている。どちらも原曲のメロディーを素直に弾いているのだが、味わいはそれぞれ異なる。共通しているのは、要は美しさだ。


 聴いていて、71年のある夜のことをふと思い出した。その年にオープンした渋谷BYG。オープニングイベントは、地下でのジャズだった。初日は山下洋輔さん、2日目がこの板橋文夫さん。通路の狭さのために仕方なく入れた家庭用のブラザーのピアノのペダルは初日に1つ、2日目に1つへし折られた。国立音大出身の剛力ピアニスト2人のおそろしさよ。

 そんな板橋さんが、このアルバムでは抒情に徹している。それらの演奏は、弾くというより、ピアノを通してつぶやいているような感じがする。大工さんが加わると、つぶやきがそのまま歌に昇華するといった印象になる。


魔除けにされる赤い花

 「てぃんさぐぬ花」とは、ホウセンカのことだ。沖縄では、赤いホウセンカの花から汁をしぼり、これを爪に塗って魔除けにするらしい。どうせなら大工さん入りの歌バージョンも入れればよかったのにと思うが、こればかりはどうにもならない。

 ちなみに、YouTubeには夏川りみによる歌唱がある(https://www.youtube.com/watch?v=QUeiw3T0Z9Y&list=RDQUeiw3T0Z9Y&start_radio=1)。三線の弾き語りで歌われていて、これがまた素晴らしい。


 ちなみに、元歌はこんな歌詞が歌われる。


  宝玉(タカラダマ)やてぃん

  磨(ミガ)かにば錆(サビ)す

  朝夕(アサユ)肝(チム)磨(ミガ)ち

  浮世(ウチユ)渡(ワタ)ら

  ───

  宝石も

  磨かなくては錆びてしまう

  朝晩心を磨いて、

  世の中を生きていこう。


2026年5月9日土曜日

縁でつながれた詩

 


 「縁」というものがある。

 昨日5月8日の早朝、夢で兵庫在の泉井小太郎さんに再会した。およそ28年振り。夢の中でのことだから本当の再会ではないが、それでもこよなく懐かしい。それで、その日の夜になってからだが、泉井さんが奥様である音座マリカさんと運営するサイト「六角文庫」(http://rokkaku.que.jp/)にアクセス。「泉井小太郎の書斎」と題されたコーナーでこんな詩に出合った。


  雨の九日

  さかんに

  誰やらのへまが降っている

  と眺めていたら

  そうだった

  死んだ者のへまは

  へまではなくなるのだった


 歌の世界に「アンサーソング」というものがあるが、これはその部類。アンサーソング、いや返歌、いや返詩である。誰に向かってかというと、淵上毛錢なる大正初期生まれの詩人。僕ははじめてこの人の名を知った。こういうのを「縁」というのではないか。


義理と人情、縁談

 早速青空文庫にアクセスしてみたが、登録されてはいない。それでも、ネットでしつこく検索すると、こんな詩作品に巡りあった。


   「縁談」


  蛙がわづかに

  六月の小径に

  足あとを残し


  夜が来て

  芋の根つこに

  蛙が枕したとき


  村の

  義理と人情が

  提灯をとぼして


  それもさうだが万事おれにまかせて

  嫁に貰ふことにして

  そんな話が歩いてゐた


 笑った。何も書かれてはいないのに、人のよさそうな村人の顔が浮かぶ。


 以下、ウィキペディアから。


淵上 毛錢 (ふちがみ もうせん、1915年〈大正4年〉1月13日 - 1950年〈昭和25年〉3月9日)は日本の詩人。


概要

熊本県葦北郡水俣町(現・水俣市)に生まれる。本名・喬(たかし)。東京の青山学院中学部へ進学する。東京では、詩人山之口貘の知遇を得、のちのちまで交流は続いた[1]。脊椎カリエスを病んで青山学院を中退・帰郷。以後、寝たきりの生活を余儀なくされる。病床で詩作を始め、「九州文学」などに作品を発表。また戦後の1946年、水俣青年文化会議を組織するなど、郷里の文化活動の発展に貢献した。1950年、35歳で死去。


代表作に「柱時計」「寝姿」など。ユーモラス、また一面スケールの大きい詩風と評される。

2026年5月7日木曜日

仏教世界のメシアの体現者

 


 やっと連休が明けた図書館で『菊地章太/弥勒信仰のアジア』(大修館書店、2003年)を借りてきた。適当にページを繰ると、こんな記述が目に入った。

 アジアの仏教圏において、未来仏弥勒が信仰された時代や地域をかえりみると、そこにはなんらかの共通性があるように思われる。それは王朝や国家が滅亡にひんした混乱のきわみであることが多かった。それはいずれも苦難の時代であった。現在の世にもはや救いが求められないとき、人々は未来に希望を託すほかなかったのか。

 いまこそ弥勒信仰が求められる時代かと思った。


いつか拝観した広隆寺の弥勒

 広隆寺の弥勒を拝観したのは、忘れもしない、1976年の9月だ。シンガー・ソングライターのエリック・アンダースンが来日し、京都のライヴハウス「拾得」でライヴを行った。当時、雑誌『ニューミュージック・マガジン』の編集部にいた太田克彦さんに誘われて、見に行った。その翌日、これまた太田さんに誘われて、広隆寺へ行った。そして見た。

 僕は、仏像には格別の関心はない。かつてもいまもそうだ。ところが、その僕が、広隆寺の弥勒を一目見たとたん、電撃におそわれた。その美しさに目を奪われた。その後、5年ほど経ってから再度出かけたが、印象はさらに増幅するばかりだった。あれほど美しい彫刻は、この世に2つとない。そう思う。

 もっとも、これは言ってみれば「美術品としての鑑賞」の結果でしかない。初見から50年、僕は弥勒について何も知らなかった。知ろうともしなかった。稲垣足穂の「弥勒」は読んだが、それだけだった。いまになって、弥勒がどういう存在なのかを知った。こういうことだ。

「弥勒は未来仏である。人間が8万歳になったとき、この世に現れる。仏教世界のメシアの体現者として」

 そうか、そういうことなのか。あらためて弥勒について読み、考えるとしよう。『弥勒信仰のアジア』はまだ借りてきたばかりだが。


2026年5月6日水曜日

向田邦子の日記と恋文

 



「今日も、道路工事でうるさい。10時半ごろ陽光がみられるようになったので、神田へ出て本をさがして歩くが、今日は少し具合が悪いようだ。

 邦子へ電話し、柏水堂へよってホテルへ行く。少し話をして帰る。

 帰りは電車だったが、やっぱり少しこんで来た。高円寺でそばを食って家へ」(『向田邦子の恋文』「N氏の日記 昭和38年12月12日」)


「きのうは陣中見舞有難うございました。

 つまらなくて、ぼつぼつオヒスがおこりかけていたところだったので、とてもうれしかった。

……

 妹のはなしだと、ロクベエの落タンぶりは見るも哀れだとかで、私がいないと、火の気のない私のコタツの上でないているようで、母などホロリの一幕があったそうです。やっぱりアイツはいい奴だ。誰かさんみたいに、こなくても平気だよ、なんて、ひどいことはいわないもん」

(『向田邦子の恋文』「向田邦子からN氏宛手紙 昭和38年12月13日消印」)


 『向田和子/向田邦子の恋文』を再読する。

 日記と恋文、そしてエッセイからなる1冊。日記は“N氏”によるもの。恋文は向田邦子がそのN氏に宛てて出したもの。この日記と恋文が、本の前半部をなしている。あらためてしみじみと読んだ。暗い話など何も書かれていないのに、読んでいて涙が出そうになった。


 N氏は向田邦子の“隠れた恋人”だった。知りあったのは、向田邦子の最初の勤務先となった教育映画制作の財政文化社でだったという。彼はカメラマンだった。しかし、妻子があった。本の後半部をなす向田和子のエッセイによれば、背丈の低いずんぐりむっくりの人だったらしい。が、向田邦子は、あまり風采のあがらないその人に恋をした。よほど通じ合うところがあったのだろう。

 N氏はのちに離婚したようで、本に収録されている日記と恋文はそれ以後、N氏が母親と暮らすようになってからのものだ。この時期、向田邦子は超売れっ子で、ホテルにこもってシナリオを書く日々が多くなっていた。恋文の多くは、そのホテルの便箋に書かれたものだ。上の引用も、神保町の洋菓子店・柏水堂で買ったケーキをみやげにN氏がホテルを訪ねた日の日記と、その翌日に出された手紙の一部だ。

 本に合わせて“恋文”と書いたが、実は恋文らしい恋文はほとんどない。向田台本によるラジオ番組の感想を主につづられているN氏の日記もそうだが、病気がちだったN氏を気遣う記述はあるものの、多くは仕事が思うように進まない毎日のことが淡々と書かれている。2人が大人らしい大人の関係であったことを示すような大人の文章。しかし、それでいて、向田邦子が少女のような可愛らしさを覗かせることがある。それが愛猫にふれてあてつけを書いた上記の引用。N氏は、向田邦子にとって、甘えることのできる数少ない1人でもあったのだろう。


自分の才能に充分な自信の持てない人だったか

 そんな恋文らしくない恋文を読みながら、僕は別のことを考えていた。手紙の中で、向田邦子はしばしば仕事が進まないことにいらだち、自分を怠け者とののしっている。同年生まれの早坂暁のシナリオを読んで感嘆し、自分とは頭のできが違うと述べる部分もあった。察するところ、自分の才能に充分な自信の持てない人だったらしい。これは、僕には意外だった。あれほどの才気あふれる人だったのだから。


 1981年(昭和56年)、向田邦子が飛行機事故で亡くなったとき、僕はたまたま彼女が第二の故郷と呼んでいた鹿児島にいた。鹿児島のテレビは大騒ぎだった。死去を知らせるニュースが一日中繰り返され、鹿児島時代の写真が何度も画面に出た。

 あのとき、このN氏はどうしていたのだろうと、ふと思った。しかし、本を読み進むと、それはありえないことだったとわかった。向田邦子より13歳年長だったN氏はそれよりずっと早くこの世の人ではなくなっていたのだ。遺品として残されたものを引き取ったのだろう、向田邦子は彼の日記と自分が彼に宛てて送った手紙を茶封筒1つにまとめ、15年あまり大切に保管していた。


2026年5月5日火曜日

薄味人生、最終列車

 


 YouTubeで久々につれれこ社中『雲』を聴く。「煮込みワルツ」がなんだか懐かしい。


  つみれの花の咲く頃に 鶉うづらとまどろめば

  竹輪の友の夢を見る 空にがんもどきの群れ遠く

  ふやけて半片雲になれ 千切れて蒟蒻石になれ

  流れて白滝風になれ 輝いて銀杏星になれ

  (上野茂都「煮込みワルツ」)


薄味人生もまたよし

 わが家の食事は、ひたすら薄味に向かう毎日だ。最近頻繁に食卓にのぼるのが「白菜と豆腐の鍋」。昆布とカツオで出汁をとるが、豆腐を手でちぎって入れて包丁で切った白菜を加え、それ以外には何も入れずに加熱。白菜がやわらかくなったら食べる。食べるときも、ポン酢の類はいっさい使わない。そのまま食べる。老人食だな。


 昼の食事も似たようなものだ。月に1〜2回塩ラーメンを作る。昼だから半分インスタントであって、マルちゃん印の「タンメン」を使う。これ自体が市販の他の塩ラーメンに比べて塩味控えめなのだが、それに加えて、豚肉、もやし、キャベツ、人参、椎茸といった具は油で炒めることなく、ゆがくだけ。ゆがくのに使った湯でラーメンのスープを作る。油で炒めた焼けこげが混じらないから、スープも白く澄んだままだ。

 若い頃は、どちらかといえば濃いめの味を好んだと思う。独身の頃、外で飲む余裕がないので、白波の一升瓶を買って、毎夜お湯割りを飲んだが、つまみはすべて自分で作った。ジャガイモやカボチャの煮物であることが多かったが、かなりきつい醤油味だったと思う。

 その頃からすると嘘みたいなのだが、薄味で満足しているのは、要するに年齢を重ねてきた証左だろう。濃い味に対する抵抗感が強くなってきた。やたらに喉が渇くのも避けたい。

 だが、それだけではない。食材は本来調味しなくても人を喜ばせる元々の味を持つ。白菜の甘みと旨味はその典型だ。「白菜と豆腐の鍋」でいえば、だし汁のしみこんだ豆腐(綿豆腐)にもほのかな甘みがある。手でちぎるのは、だし汁がよくしみこむようにするためだ。

 ただし、がつがつかっ込んで食ったら、そのことには気づかないだろう。まずはよく噛む。すると、味がにじみ出てくる、感じることができる。


 わが家は、この先、この路線でいくことを決めた。薄味人生、最終列車だ。それでいいじゃないか。


2026年5月4日月曜日

『新宿百店』から『銀座百点』へ

 


 酒井五郎さんの『新宿Pit-inn、渋谷BYGはおれが創った』を読み直していて、雑誌『銀座百点』の名が思い浮かんだ。酒井さんが作った『新宿百店』→『銀座百点』という発想。『新宿百店』は『銀座百点』を真似て作られた。

 『銀座百点』はいまも出ているのだろうかと思って検索したら、すぐにHPにたどり着いた。トップページの挨拶文が下記。「ない知恵を絞って」と書かれているところが、何となく気に入った。


「銀座百点」は1955年(昭和30年)に創刊されました。

銀座のかおりをお届けする雑誌として、情報だけでなく、銀座の文化を表現することにポイントを置いて編集しています。

中でも各界の有名人によるエッセイ、座談会は読み応え十分です。

創刊号から久保田万太郎、吉屋信子、源氏鶏太ら著名なメンバーが執筆陣に加わり、その伝統は現在まで受け継がれています。

また、小誌の連載からは向田邦子「父の詫び状」、池波正太郎「銀座日記」、和田誠「銀座界隈ドキドキの日々」などベストセラーがたくさん生まれています。

女性スタッフが銀座じゅうを歩き、アンテナを張り、ない知恵を絞って毎月の企画をたてています。

銀座の街で、ぜひお手にとってお読みください。(『銀座百点』HP https://www.hyakuten.or.jp/)


『銀座24の物語』という1冊

 銀座百店会のPR誌であるこの雑誌をいちばん熱心に読んだのは、『父の詫び状』が連載されていたころだろう。調べてみると連載が始まったのは1976年で、2年後には単行本化されている。ということは、その2年間に何度かは目を通したことになる。銀座にある広告代理店に友達が勤めていて、そのころは何かと銀座へ出かけた。たいていは松屋裏の和菓子店(名前は忘れた)の喫茶コーナーで会い、そこに置いてあったのを読んだのではなかったか。


 というようなことを思い出したのは、たまたま図書館で『銀座24の物語』という1冊を読んだからだ。『銀座百点』に掲載された24人の作家による短編を集めたもので、2001年に文藝春秋から出ている。すべての作品が当然ながら“銀座”をテーマに書かれていて、文芸誌のアンソロジーでは出ないだろう味がある。


 ただし、質は粒選りかというと、そうでもない。藤沢周「Coffee and Cigarettes 3のトム・ウェイツについて」に惹かれて読み出したのだったが、これはつまらなかった。椎名誠「銀座の貧乏の物語」、大岡玲「銀座の穴」もつまらなかった。全部読んだわけではないが、なかで強く引き込まれたのが、皆川博子「迷路」だった。

 方向音痴の女性画家がやっとの思いで展覧会の会場までたどり着く話。引っ越したばかりの家に戻れなくなった子どものときのエピソードから始まるが、これが物語全体の暗示になっていて、迷いつつ画廊を目指す語り手の脳裏に去来するのは、自分が生まれた一家の崩壊の顚末だ。画家を志したが許されずに銀行に就職した弟の自殺、母の病気による早世、外に女を作った父……といったことが、人に道を尋ねるように淡々とさりげなくとぎれとぎれに描かれていく。現実の路上ではなく、人生の道筋を見失った女性の独白といえばいいか。ちょっとせつないけれど、現実から空想の世界へひょいとまたぐようなラストの数行にも心を奪われた。

 皆川博子さんは児童文学から出発し、のちにサスペンス系のミステリ〜幻想小説、時代小説に転向した人だが、僕は今回が初読。いや、前に『写楽』を少し読みかじった気がするが、何も覚えていない。この1作を読んだかぎりでは、人の心理を描くのに長けている。この人の父親は心霊術の著名な研究者だそうだから、血筋というものか。


 おっと、いま思い出した。例の和菓子店の名は「清月堂」だ。


2026年5月2日土曜日

岡田隆彦さんの葬儀の夜

 


 いまでは考えられないことだが、1960年代、雑誌等のメディアには作家や芸能人の住所と電話番号が堂々と掲載されていた。それを見て、多数のファンが自宅へ押しかけたことだろうと想像される。

 かく言う僕も、一度だけそういう行為を実行したことがある。ターゲットは詩人で美術評論家の岡田隆彦さん。僕自身の発案ではないのだが、ジャズ喫茶「響」の常連のUさんにそそのかされて一緒に出かけたのだった。

 岡田さん、時に37歳。詩人としても美術評論家としても若手ではピカイチの存在だったが、訪ねたのは詩や評論に惹かれたからではない。1966年7月、ジョン・コルトレーンが来日し、全国で公演を行った。さまざまなメディアで大きく取り上げられたが、その中でも印象的な記事の一つに日本読書新聞に載ったコンサート評があった。その筆者が岡田さんだった。

 ということは、僕らは66年7月の月末に岡田宅を訪問したのに違いない。


 岡田宅は東京は赤坂、日枝神社の近くにあった。いまではもう記憶は薄れているが、木造の一軒家。電話であらかじめ伝えたのではなく、いきなりの訪問だったが、インターフォンで用件を述べると、岡田さんご自身が現れ、中庭へ案内してくださった。縁側に座って歓談。

 話題はこれまた詩や美術評論ではなく、もっぱらコルトレーンとジャズをめぐってだった。岡田さんにとってはジャズへの関心が大きく高まりつつあった時期だったらしく、話の攻守が入れ替わり、ジャズについての質問を次々と受けた。ほんの30分程度で切り上げるつもりだった会談は途切れることなく続き、1時間ほど経過した頃合いだったろうか、詩集『史乃命』(新芸術社、1963年)で知られる史乃さんの手でビールが運ばれてきた。恐縮しつついただいた。


 話はそれだけのことだが、岡田さんは僕を気に入ってくださったようで、それから後、著書が送られてくるようになった。著書には見返しの部分にブルーブラックのインクで上の写真のようなサインが入れてあった。


出会いは一度きりだった

 いま振り返ると実にもったいないことという思いがするが、赤坂への訪問以後、新しい著書が出る度に贈呈を受けたが、ご本人にお目にかかる機会はなかった。お礼の葉書を出すのが精一杯だった。一度だけ書店のサイン会でお目にかかった気もするが、さだかでない。

 そうするうちに1970年代が来て、僕はジャズを離れた。岡田さんに会っても、もう話すべきことはなくなったということだ。


 それから30年近くが経過した1997年2月26日、岡田さんは下咽頭ガンで旅立たれた。まだ57歳の若さだった。

 葬儀はその数日後だったか、ぜひとも参列せねばと思ったのだが、事情あって行けなかった。葬儀の夜はどしゃぶりの雨だったことをいま思い出す。

2026年5月1日金曜日

桑原一世『クロス・ロード』再読

 


 先に逝ってしまった人を想うことの多い毎日だが、シャルル・ルイ・フィリップの『小さな町』を読み返していて、「クロス・ロード」という言葉がぽっと思い浮かんだ。亡き桑原一世さんの一作のタイトル。すばる文学賞受賞作だ。受賞を祝って渋谷の「三漁洞」に集まったのは、あれは1988年の1月だったか、2月だったか。

 38年も前のこととあって、記憶は薄れている。三漁洞の玄関口で参加者全員が祝いの言葉を贈ったと思うが、誰がそこにいたのかは全く思い出せない。ただ、心の底から祝う気持ちでいたことだけは、いまも記憶の隅にとどまっている。


 思い出したがグッドタイミング。早速、『クロス・ロード』を読む。実に38年ぶりの再読となる。

 

 改札をぬけ、銀座通りを足早に通りすぎると、ぼくは交差点で立ちどまった。左手に渡れば、なだらかな丘陵地帯があり、ぼくの家がある。右手に渡って少し歩くとラブホテルの並ぶ幅広のドブ川があり、その先をさらに行けばコンクリートの堤防の向こうに海が見える。


 最初の1行からすっと呼び込まれた。文章のリズムが心地良い。そうして、リズムにうながされるように段落から段落へと視線はスピーディーに移る。作家があちこちにまぶしたユーモアに心ゆさぶられながら。


 浴槽の中で、ぼくのチンポコは海草に包まれた沈没船だ。人類の歴史をつくる子孫が何億人も乗っているのに、魔のバーミューダ海域に沈んでしまった。クラスの誰かがマザコンはインポテンツになると言っていたが、ぼくのも役立たずになるのだろうか。ぼくはぐにゃぐにゃのチンポコの先を湯比でつまんで天井に向けた。さぁ、立て。しゃんと立って、人類の子孫を吐き出せ。


 38年も経って、作者の文章表現の巧みさをあらためて確認した。ブラボー!


桑原一世(北中幸子)さんをめぐる心残り

 桑原一世こと北中(藤堂)幸子さんは、1960年代末期からの友人である。伴侶である北中正和さんのアパートを訪ねたときが、最初の出会いだったと思う。下北沢の住宅街の片隅の6畳1DKで、入ると幸子さんが何やら壁に飾りつけをしていたのを思い出す。生き生きした空気が部屋を満たしていた。貧しいけれど、幸福感がいっぱいだった。


 その後30数年間あまり、北中夫妻と僕はもっぱら酒席をともにする仲になっていくのだが、いま振り返ると心残りがある。

 1998年の年末か翌年の年初だったと思う、青空文庫で公開していた桑原一世名義の論考「人間の基本―いじめっ子はなぜ生まれるか」について話がしたいということで家に呼ばれた。軽い気持ちで行ったのだが、実際の面談はぎくしゃくした運びになった。彼女が論考のある部分について僕に意見を求める。すると、僕は否定的な見解を述べる。その繰り返しになった。そして、それが1時間ほど続いたところで、長い沈黙がはさまれた。ほどなく、一世さんは黙って部屋を出て行く。突然の面談の決裂だった。


 北中幸子さんが逝ったのはそれから6〜7年ののち、2006年2月28日のことである。肺癌の闘病を数年続けての最期だった。

2026年4月30日木曜日

メタセコイアと河野典生さん

 


[メタセコイア]メタセコイア(学名:Metasequoia glyptostroboides)は、スギ科メタセコイア属の針葉樹。1属1種。和名はアケボノスギ(曙杉)、イチイヒノキ。和名のアケボノスギは、英名Dawn Redwood(または、学名Metasequoia)を訳したもの(ただし、化石種と現生種を別種とする学説もある)。(ウィキペディア)


 京王線八幡山駅近くにある都立松沢病院。その中庭にそそり立つひときわ印象的な樹木がある。メタセコイアだ。約6,500万年前の新生代から存在するとされる、生きた化石。樹形も独特で、きわだった存在感がある。

 そんなメタセコイアという樹種を知ったのは、河野典生の作品でだった。どの作品かは忘れた。SFの『緑の時代』(1972)だったかもしれないし、エッセイ集の『街の博物誌』(1974)だったかもしれない。装画が新井苑子だった記憶があるのに、書名は覚えていない。どちらにしても、あいにく本はもう手元にはない。

 手元に残っている河野作品では、『ペインティング・ナイフの群像』(1974)をいまもときどき開いて読む。短編とショートショートを集めた1冊だが、時代風俗を描いた長編映画が古くなっても、一場面のスチールが古くならないことがあるように、いま読んでも新鮮な発見がある。


「壁」と題された一編がある。「倉庫に似たジャズを演奏する店の壁は」と始まるこれは、わずか4行の超ショートショート。しかし、いまのようにけばしばしくなる前の、簡素なジャズのライブスポットに通った経験のある者なら、ここからいくつもの光景を導き出すことができる。小説と読み手とのダイナミックな関係がここにある。


河野典生さんの思い出

 河野さんには、60年代末に新宿ピットインで何度もお目にかかっている。たいていは筒井康隆さんと一緒だった。河野、筒井ご両所に相倉久人、平岡正明、江藤政治(雑誌『ジャズ批評』初期の編集者)を加えて、戸川昌子経営のバー「蒼ざめた肌」にご一緒したこともある。酔った唐十郎と土方巽がやって来て平岡さんに喧嘩を売り、あわや乱闘となりかけた一夜で、忘れられない記憶になっている。


 ご自宅を訪ねたこともある。お宅は小田急・読売ランド駅の近くの住宅地にあり、2軒手前だったろうか、でっかいシェパードの番犬がいて、猛烈に吠えられたのを思い出す。何かの原稿の受け取りでお邪魔したのだったが、インドで買ってきたというカップで出されたコーヒーのうまさがいまも心に残っている。

 河野さんは、人間関係の激しいもつれを描いたハードボイルド作品諸作とはうらはらに、心やさしい人だった。そのやさしさに甘えて、僕が好きな「腐ったオリーブ」など河野作品の話をついつい遠慮なしにしてしまった。何を言っても、河野さんは穏やかな笑みをたたえて聞いてくださった。


 河野さんは、今から14年前の2012年1月29日、相模原市内の病院で亡くなられた。77歳だった。

2026年4月29日水曜日

モーツァルトを聴く人

 


 谷川俊太郎に『モーツァルトを聴く人』という詩集がある。1995年に出た1冊だが、この詩人には珍しくセンチメンタルな感情表現の色濃い作品が多い。猛烈に濃い蔭を感じさせるものもある。谷川俊太郎、このとき60代半ば。勝手な想像だが、彼は恋をし、失恋したのではないか。次のような詩句がそんな想像をかきたてる。


 何年か前モーツァルトを聴きながら車を運転して

 涙で前が見えなくなって危なかったことが何度かあった

 もうぼくは人の言葉は聞きたくなかったんだそのころ

 特にあの女の言うことは


 モーツァルトは許してくれた

 少なくともテープが回ってる間は

 だがあの女は一瞬たりともほくを許さなかった

 当然だ

 (「つまりきみは」)


感情のバランスを保つ音楽

 詩人が語るモーツァルトの音楽には、母親を失った悲しみもからんでいる。この人の母はピアノを弾く人で、モーツァルトを好んで演奏したらしい。認知症になり、好きな酒がないとオーデコロンを飲むまでになっても、なお弾いた。脳が三歳児に等しいところまで収縮し、やがて死が訪れた。「ふたつのロンド」という詩では、そういう物語(短くてもこれは物語だ)が描かれている。

 音楽がもたらす幸せにはいつもある寂しさがひそんでいる

 帰ることのできぬ過去と

 行き着くことのできぬ未来によって作り出された現在の幻が

 まるでブラック・ホールのように

 人の欲望や悔恨そして愛する苦しみまでも吸いこんでしまう

 (「ふたつのロンド」)

 ここから、僕は10年前に死んだ母親がその晩年同じく三歳児程度の脳と思われる状態となったある日突然絵本を読み出したことを思い浮かべた。大正14年生まれの幼児。もっとも、僕の母親がかつて好んだのはモーツァルトではなく、南こうせつだったが。

 息子の僕は、南こうせつは全く聴かない。モーツァルトも、いまはあまり聴かない。モーツァルトを一番聴いたのは20代だ。60年代末、土曜の夜の新宿・ピットインは山下洋輔トリオと決まっていて、半ドンの仕事を終えていったん家に戻ると、出かける前にモーツァルトを聴いた。なぜだかはよくわからない。

 そんな話をしたら、「おれはブラームスだ」といった人がいる。17年前に亡くなった平岡正明さんだ。山下トリオの破壊的創造とはおよそ対照的な弦楽の響き。感情のバランスを保つために必要だったのかもしれない。


 前にも書いたが、大切な人を喪って精神のバランスを完全に崩してしまった人に、モーツァルトを贈ったことがある。キアラ・バンキーニ率いるアンサンブル415が演奏する「ト短調クインテットK.516」。冬だった。暖房を切った部屋で毛布にくるまり、毎日泣きながら聴いたと、その人は言っていた。涙はすべてを流し去った。モーツァルトの音楽に救われた、とも言っていたっけ。

 そんなことも起こりうるのがモーツァルトの音楽なのだが、残念ながら僕自身がその種の効果を体験したことはない。ただただ美しい音楽というだけだ。

2026年4月28日火曜日

静かなバーめざして

 


 古くからの友人と酒場で会う約束をした。「もう満足に歩くことができない。無理だ」と一旦は断ったのだが、敵は「這ってでも出て来い」という。じゃあ、這っていくかと返事した。

 近々のことではなく、そのうちにということなのだが、どこのどの酒場がいいだろう……と、しばし考える。これがなかなか楽しい。

 僕がこの世で一番好きだった酒場は四谷3丁目のバー「司」で、地下の店だったが、階段を降りていくときからうきうきしたものだ。階下に着地すると、そこは木の調度一色。厚手の木材を磨き上げたカウンターが、なかでも心地よかった。談論風発する酒場ではなく、会話は控え目に、静かに酒を楽しむ場所だった。

 だが、「司」はもうない。


静かなバーがいい

 『永井龍男/東京の横丁』にも酒場の話が出てくる。


「俗人と云うものは、つまらぬことを連想する。二僧が徳利の酒を酌み交す仕草をしげしげ眺めているうちに、若い自分に通った酒場の雰囲気を私は思い出した。素性の知れた銀座の酒場は、どこも静かなもので、バーテンが棚の洋酒の瓶を取り、カウンターでグラスに注ぐ洋酒の音が、かなり遠いテーブルに居ても、聞えてきたような気がする。それが、酒場の持つ色気に通じるかも知れなかった」(「五百羅漢」)

 川越の五百羅漢を眺めていて心に浮かんだことの回想だが、これはとてもよくわかる。僕自身は、銀座の酒場にはさほど深い縁はない。だが、母親が勤めていた銀座のバーには何度か入ったことがあるし、それ以外でも、主に御馳走になる場として幾軒かの酒場に入ったことはある。

 そうして、銀座の酒場の特色はと考えると、答えは1つ。「静かさ」なのだ。そこに銀座ならではの空気がある。


 銀座ではないが、「司」も静かだった。レコード・プレーヤーがあって、音楽が鳴ってはいたが、ジョニー・ハートマンなどのごくごく静かで控え目なジャズ・ヴォーカルが主だった。これはむしろ静かさを引き立てる効果があった。

 といったことをつらつら考えていて、これは一度行ってみなければと思う酒場にWebでめぐりあったのは、この1月のある日のことだった。店の名はBAR ground line。店主の吉田健吾という人がnoteにかつて神保町にあったジャズ喫茶「響」のことを書かれていて、ネット検索でそこにたどり着いた。

 行くならここだな。