2026年6月30日火曜日

町を歩けば、思い出がいくつも甦る(最終回)

 


 あれは1999年の11月だったか、初対面の鈴木常吉と宮の坂近辺を歩いたとき、彼が言った。「特定の人の記憶と結びついた町がいくつかあるんですよ。例えば、国立なら山口瞳。歩けば、きまってその人のことが思い浮かぶんです。ここ宮の坂〜豪徳寺は、これからは松平(維秋)さんを思い出す町になりそう」

 松平維秋が亡くなって、彼が最晩年に通ったスナックを一緒に訪ねた夜のことだった。


 いまになってみれば、僕とて同じである。東京で暮らしたのは富山石動から一家で墨田区業平に移り住んだ1956年以降の67年間だが、誰か特定の人の記憶と結びついている場所は枚挙に暇がない。地下鉄神保町駅から白山通りを水道橋方向に少し進んだ神保町1丁目あたりならこの地でジャズ喫茶「響」を営んでいた大木俊之助さん、千代田区永田町2丁目日枝神社あたりなら岡田隆彦さん、京王井の頭線池ノ上〜下北沢あたりなら松平維秋さんといった塩梅。そうして、渋谷東部宮益坂へ行けば脳裡に浮かぶのが、菅野圀彦さんだ。


 菅野圀彦。早川書房の元編集部長であり『ミステリ・マガジン』の元編集長。最初の出会いは、稲葉明雄さんによる紹介を得て早川書房編集部に出向いた1978〜79年のある日だと思う。ただし、すぐに仕事を共にしたわけではなかった。いや、というより直接仕事を共にすることはほとんどなかった。

 それなのに親しくなったのは、気質が合ったからである。ある年の早川書房恒例の忘年会を思い出す。立ち飲みをしていた僕に菅野さんが近づいてきて言った。「女の訳者ども、訳は下手くそなくせに偉そうにし過ぎだと思わない?」僕は笑った。

 それだけのことだが、なぜか記憶に深く刻まれている1シーンだ。


共に企画したフレンチ・ポルノの電子書籍

 菅野さんと最後にお目にかかったのは、宮益坂に入ってすぐの左手、「珈琲茶館集&ガトーナチュレールシュウ渋谷宮益坂店」ではなかったかと思う。時は2005年か2006年の秋。年がはっきりしないのに秋だと言えるのは、「枯葉」か何かシャンソンの秋の歌が話題にのぼったからだ。ただし、話の本題は違う。シャンソンの国フランスのポルノ小説についてだった。


 菅野さんはすでに早川書房から身を引かれていて、フリーの立場で編集者活動をされていた。出版の世界では電子書籍が市場を広げ始めていて、多少ではあるが電子書籍の世界に詳しい僕が「一緒に電子出版をやりませんか」と声をかけた。それに「じゃあフレンチ・ポルノだ」と菅野さんが応答し、打ち合わせとなったのだった。

 具体的な計画などまだ白紙状態の打ち合わせで、「フレンチ・ポルノの版権料など僕が調べて計画を立てるよ」という菅野さんの一言でお開きとなった。それから店を出て、通りの向かい側の三省堂書店へ行き、ポルノ系の本が並ぶ棚を眺めたりした。そして別れた。


 いまにして思えばその後菅野さんは体調を崩されたのだろう、音信は途絶えがちになり、やがて2007年11月16日かその翌日、かつて早川書房編集部で菅野さんの部下だった長戸東三(雨沢泰)さんからメールで知らせがあった。「菅野さんが亡くなった。肺癌を病まれての最期だった」

 そのときの茫然自失がいまも記憶に鮮やかだ。(了)


2026年6月27日土曜日

石田善彦さんと「待っている」

 


 稲葉明雄さんにまつわる思い出の続き。

 稲葉さんから早川書房に紹介されてすぐ『ミステリマガジン』の新刊書評を担当することになった。早川刊の本については町に出る前に読むことができるので、まことに嬉しい仕事だった。

 書評の仕事を始めて数か月後だったろうか、今度は座談会に呼ばれた。そこで同席した一人が、石田善彦さんだった。


 座談会を終えて帰り、一緒に電車に乗り込むと、ミステリの翻訳の話になった。その中でこれが最高という評価になったのが、稲葉訳のレイモンド・チャンドラー「待っている」(創元推理文庫『チャンドラー傑作集〈3〉』所収)だった。

 石田さんは読書会なるものを主催されていて、後日、「『待っている』をテーマに君が講師をやってくれないか」との申し出を受けたが、これは遠慮した記憶がある。いずれにしても、「待っている」の稲葉訳についての評価は互いに高かった。

 石田さんとはその後は会う機会はなかったのだが、あのとき講師を務めてより親しくなっていればよかったなあという後悔が、あれから50年近く経ったいまもある。


音楽ジャーナリズム→ミステリの翻訳という道筋

 石田善彦さんはもともとは音楽誌『新譜ジャーナル』でライターとして活動していた人で、音楽ジャーナリズム→ミステリの翻訳という道筋は、僕と共通している。互いになんとなくウマが合ったのは、そのせいもあったか。


 もっとも翻訳者しての石田さんは、僕などとは比較にならない大きな仕事をされた人である。石田さんが手がけたミステリ作家は多数にのぼるが、なかで代表というべきものが『A型の女』に始まる一連のマイクル・Z・リューイン作品だろう。

 僕個人の読書体験の上でも、『A型の女』は海外ミステリの世界に関するイメージを一新するような刺激的な作品だった。この作品はいわゆる「ネオ・ハードボイルド」ジャンルを形成する1作として知られているが、それ以上に本格ハードボイルド小説の文学性をひときわ高めた作品という印象が強い。そして、歴史的にもちょっとしたトピックとなるこの1作の訳者が石田さんなのだ。


 石田さんとは1990年代以降疎遠になったが、いつ頃だったか、北海道へ移住されたと聞いた。その地でも海外ミステリをテーマにしたサークル活動をされているとも。

 2006年10月23日の石田さんの逝去を知ったのも、そのサークルの方が公開しているブログでだった。おそらくはこれが翻訳家としての最後の仕事だったろう、リューインの『眼を開く』がハヤカワ・ミステリの1冊として出た数週間後のことだった。


2026年6月26日金曜日

川崎貴嗣さんの遺言

 



 図書館に向かって歩くと、向こうから老人が一人、ややおぼつかない足取りで近づいてくる。すれちがうときに顔を見ると、眼力の強い人だった。いやおうなく川崎貴嗣さんを思い出した。


 川崎さんに最後に会ったのは、2013年2月上旬。日本橋某社のウェブサイトの企画会議でのことだった。体調が悪いのはわかっていたが、僕が無理言って出てもらった。ろくでもない意見を思いつきで言うやつに一言ぴしゃっと言ってもらいたかったからだ。

 会議は盛り上がらず、誰もたいした発言はしなかった。やれやれと思いながら、川崎さんとルノワールへ行った。


 亡くなった北原亞以子の話をひとしきりしたあと、突然、川崎さんが言った。

「読んだかね、今年の芥川賞受賞作。うん、黒田夏子だ」

「いいえ、まだ」

「そう。実は、僕も読んだことは読んだんだが、読み切れなかった。作風が独特でね、最後までついていけなかった」

「へえ。じゃ、今度読んでみましょう」


 話はここでとぎれ、場所を蕎麦と酒の店、稲田屋へと移動。ほどなくして、川崎さんがまた言った。

「でもね、今度の芥川賞からひとつだけ、そこからメッセージをもらったよ。70歳でも賞がとれるんだ、と」


 ここからは、「凡庸な一生の末尾にどんな句読点が打てるか」という話になった。川崎さんは「芥川賞をとるぞ」という。「きみはどうだ?」と訊かれたが、僕は答えに窮した。

 川崎貴嗣さん78歳の死はその5か月後。その間、とうとう会う機会はなかった。いま振り返ると、あれは川崎さんの遺言だったのにちがいない。「おれも死力を尽くしてやるから、おまえも頑張れよ」と。


2026年6月24日水曜日

稲葉明雄さんと出会って

 


 ウィリアム・アイリッシュ『幻の女』を再読する。名訳として名高い稲葉明雄訳。広く知られているように、小説はきわめて印象的な書き出しから始まる。

  夜は若く、彼も若かった。が、夜の空気は甘いのに、彼の気分は苦かった。

 原文はこうだ。

  The night was young, and so was he. But the night was sweet, and he was sour.

 倒置法が効果的に用いられた名文。最近になって知ったことだが、作家は歌曲「恋人よ我に帰れ(Lover, Come Back to Me)」の歌詞をヒントに発想したものらしい。歌い出しはこうだ。

  The sky was blue,

  And high above,

  The moon was new,

  And so was love.

 歌と散文との幸福な出会い、とでもいえばいいか。


稲葉明雄さんとの幸福な出会い

 出会いと言えば、僕にとって稲葉明雄さんとの出会いがまさしく幸福な出会いだった。

 キーコーヒーのPR誌『珈琲ふぁん』を編集していた頃だからたぶん1978〜79年のある日、その『珈琲ふぁん』に掲載すべく依頼した原稿の受け取りでお目にかかったのだった。EメールどころかFAXもこの世にない当時、原稿は執筆者に直接会って受け取るのが当たり前だった。稲葉さんとの出会いもそれ。ところは、西武新宿線久米川駅前の喫茶店。ファミリーレストランのような広い店だった記憶がある。

 原稿の受け取りと確認はものの10分で済んだが、のちになって「雑談王の稲葉」と呼ばれていることを知ることになる稲葉さんとの会話はそれから3時間ほども続いた。話の中身は主に海外ミステリと翻訳。そうして、そのときに約束されたわけではなかったが、その数日後、僕は稲葉さんが早川書房の編集部に僕をライターとして推薦されたことを知ることとなる。以後1985年頃まで続くことになるミステリ書評家・翻訳者としての僕の仕事は、そのときに始まった。

 稲葉さんは「遅筆」で知られた人である。主たるお仕事である翻訳もそうだが、1975年に晶文社から出たレイモンド・チャンドラー『マーロウ最後の事件』にいたっては、訳者である稲葉さんのあとがきが遅れに遅れたために発行が半年延期されたという逸話がある。いま振り返ると、あれほど長時間よどみなく会話できる人がどうしてそこまで遅筆だったのかと不思議でならない。


 稲葉さんは1999年3月17日、東村山市内のご自宅で脳出血のために倒れ、逝去された。まだ65歳だった。出会いはその20年ほど前の一度きりで終わったが、僕にとっては生涯忘れがたい人である。

2026年6月22日月曜日

デパートの食堂が恋しい

 


 社会の下層に位置する庶民にとって、デパートの食堂は、かつては晴れがましい場所だったと思う。何しろたまの外出、たまの外食。蕎麦屋やラーメン屋ではわが町と変わらない。ここは、やはりデパートの食堂でなくてはならなかった。いまでいえば、最近何かと騒がしいホテルのレストランのようなものか。

 寺田寅彦『柿の種』にも、デパートの食堂が出てくる。上野松坂屋7階の食堂。平日らしく、老母と母子の3人の家族の様子が描かれている。老母は幕の内、母子はカツレツを食べる。

 平凡だがほほえましい光景が描かれていて、読むと何やらほっとするものがある。そうして、自分のデパートの食堂体験をそこに重ね合わせる。


わがデパ食体験

 デパートの食堂に入ったことは、実はこれまでに3〜4回しかない。79年生きてきてこの回数というのは、相当に少数だ。僕が社会人となって給料をもらうようになったとき、デパートの食堂はもう庶民の晴れがましい席ではなくなっていた。

 そんな数回のうち、いまも覚えているのは、小学校5年か6年のときに入った浅草・松屋の食堂だ。わが家は父親がいなくて、祖父が父親代わりだったが、その祖父は外食嫌い。だから、松屋の食堂に入るのはとんでもなく珍しいことだった。しかも、子供の僕には初体験。


 お子様ランチを注文してもらった。皿の真ん中にピラフ(僕たちは「焼きめし」と呼んでいたが)があり、小さな国旗が立っていた。そのまわりにはカツレツか何かおかずがあったはずだが、覚えていない。国旗がどこのものだったのかも覚えていない。

 ただ、広いガラスの窓越しにさんさんと陽光が射し込んでいたのは、いまも記憶にある。下町のモルタルアパートの2階で暮らす僕にとって、それはかけがえのない経験だった。


 消えつつあるといわれるデパートの食堂。いま、デパートの食堂を利用するのは、どんな人々だろうか。15年ほど前にある人と浅草・松屋の食堂で食事する約束をしたが、あの3・11の大震災でつぶれた。

 行って検分したいが、もう遠出は無理となった。

2026年6月20日土曜日

ケストナーの「人生処方詩集」

 


 「人生処方詩集」と題された詩集がいくつかある。古いところでは寺山修司にこの題の詩集があるし、まど・みちおにもある。しかし、最も広く知られているのは、ケストナーのそれだろう。


 「人生処方詩集」とは「生きていて何か問題にぶつかり、困ったときに読む詩」を集めたものと言っていいが、もともと単なる個人的感情や意見の公開は厳しく抑えてきた人だけに、「読む薬」という面が強い。「抒情的家庭薬局」だと、本人も書いている。


 目次はなくて巻頭にインデックスが入っているが、「用法」と題されたこれがまた一般的な詩集とは大いに異なっている。例えば、

  年齢が悲しくなったら

  結婚が破綻したら

  秋になったら

といったぐあいに、悩めることもしくはそれに類することから「薬となる詩」がたちどころに検索できるのだ。


 最初から2つめにある詩「男声のためのホテルでの独唱」。

  これはおれの部屋であり しかもおれの部屋でない

  そこにはベッドが二つ 手をつないでいる

  ベッドは二つでも 一つしか要らない

  なぜって おれはまたひとりぼっちになったんだから」


 ホテルのツインの一室での男の独白。男の年齢はわからない。だが、あまり若くはなさそうな気がする。そうして、連から連へと進むと、男は愛する女性を他の男に奪われたのだとわかる。だから、こう言う。

  しかし女があやまちを犯すためには

  はたから邪魔をしてはならないのだ」


 最後に処方が来る。

  世界はひろい 君はその中で迷子になる

  ただ願わくは あまり迷子になり過ぎないように……

  おれは しかし 今夜はよっぱらって

  君が幸福になるように いささか祈ろう」


2026年6月19日金曜日

パイプの煙が漂う

 


 花見川団地商店街は、中央に木製のテーブルセットをいくつも並べてある。午後、そこを通ると、煙が漂ってきた。パイプ煙草だ。独特の香りがして、これは断定できる。オランダの“アンホーラ”だ。

 アンホーラは、数年前に亡くなった田川律さんが愛煙していたと思うが、僕は苦手だった。パイプを楽しんだのは3年ほどと短いが、その間はずっと“スウィート・ダブリン”だった。スウィート・ダブリンはアンホーラよりほんの少し高い。


 パイプ煙草はいいものだ。僕が毎日パイプに明け暮れていたのは20代後半だが、味わいの豊かさは驚嘆ものだった。人前ではさすがに恥ずかしいので(若造には似合わない)、もっぱら家でだったが、パイプを4〜5本集め、机にパイプ・スタンドを置いて並べ、かわるがわる使っていた。ほとんどはビリヤード型だったが、エリック・ドルフィー『イン・ヨーロッパ2』のジャケット写真に惹かれて、ベント型も1本持っていた。銀座の菊水で買ったもので、持っている中ではこれが一番高価だった。7,000〜8,000円ほどしたのではなかったか。

 もっとも、高級品が並ぶ菊水では、最も低い価格ゾーンに入るものでもあった。1970年代半ばの当時、10万円を超える高級品も珍しくなかった。通常の英国型ではなくデンマーク型のパイプとなると、15〜30万円もした。


三野村泰一さんからいただいたパイプ


 僕の机の隅には、ベント型のパイプが1本転がっている。27年前にやめた煙草を吸い始めたわけではない。いただきものだ。誰から? かつて高円寺でジャズ喫茶「サンジェルマン」を営んでいた三野村泰一さんからいただいた。どういう経緯でいただいたのかはもう覚えていないが、煙草の煙が充満していた昔のジャズ喫茶の思い出話か何かがきっかけだったのではないか。


 手元に在りし日の「サンジェルマン」店内を写した写真が1葉残っている。カウンターの隅に三野村さんの姿がぼんやり写っていて、その周りの客は2人。2人とも紙巻きをくゆらしている。これがジャズ喫茶の日常だった。


 「サンジェルマン」の開店は1966年。これについては、このブログの1月の項に書いた。当時の都内には数多くのジャズ喫茶があったが、はじめて訪ねたその日からいちばんお気に入りの店となった。スキンヘッドでユル・ブリンナー似、一見おっかなそうな三野村さんともたちまち打ち解けた。

 僕は1971年を境にジャズとは縁遠くなり、当然ながら「サンジェルマン」へ足を向けることもなくなった。「サンジェルマン」自体も、80年代の中頃に店じまいした。風の便りにそのことを知ったのは、どんな経緯でだったか。

 そうして縁もゆかりもなくなった三野村さんだったが、2006年、ジャズ・レコードのムックを企画編集したとき、偶然がいくつか重なって再会した。

 おつきあいが戻り、その後は半年に一度ほどのペースでお目にかかり、ご自宅で昔懐かしいジャズ・アルバムを楽しんだりしたが、それも長続きはしなかった。


 長年甲状腺の癌で苦しまれた三野村さんが河を渡ったのは、2020年5月だったか。そのときから、机の上のパイプは形見の品となった。

2026年6月18日木曜日

「オイヤン」で思い出す町野修三さん

 


 道を歩いていたら、すぐ前を行く二人が「オイヤンがどうしたこうした」と話していた。関西の人だね。町野修三さんを思い出した。


 青空文庫掲載のプロフィール:

  作家名: 町野 修三

  作家名読み: まちの しゅうぞう

  ローマ字表記: Machino, Shuzo

  生年: 1943-11-18

  没年: 2002-12-05

  人物について: 1943年大阪生まれ。歌人。2002年12月逝去。


 大阪生まれの大阪育ちだから当たり前だが、町野修三さんはこの種の関西独特の言葉の響きがお気に入りで、短歌にもしばしば用いた。オイヤンを使った歌もいくつかある。以下は町野さん晩年の歌。


  着るものもユニクロ風でちょっと見はオレもオイヤンも普通のオジン

  週二度の風呂を自慢するオイヤンのテントの中はぐちゃぐちゃである

  踏み倒す度胸ひとつも無きゆえと身につまされるオイヤンたちは

  オイヤンのテントの前を健やかな脚美しいアスリートたち


 家業の染色業がたちゆかなくなって無為の生活に入った晩年の町野さんは、ホームレスのオイヤンとつきあっていたらしい。


青空文庫で出会った

 町野さんとは青空文庫で出会った。ご自身の著書『大伴家持論Ⅰ』(平成4年、短歌新聞社)を文庫に登録したいという連絡が文庫に入り、編集制作は僕が引き受けることとなって連絡を取り合うようになった。


 大伴家持には特に関心のない僕ではあったが、時には電話で直接よもやま話を交わすようになり、親しくなった。『大伴家持論Ⅰ』はなかなかの大著で、しかも和歌を扱う本であるからいわゆるレ点が頻出する。プレーンテキストではどうにもならず、結局はいったんInDesignでページ組みをし、それをPDFに書き出すことになった。文庫の図書カードには「校正:浜野智」とあるが、実際には校正に加えてPDF作成も僕が担当したのだった。


 大阪の人である町野修三さんとは、一度だけ直接お目にかかった。正確なところは覚えていないが、1999年ではなかったかと思う。メールで頻繁にやりとりするなかで、あるとき、僕が京都・拾得恒例のイベント「七夕コンサート」のことをお知らせした。すると、フォーク・ソングになど一度も接したことのないはずの町野さんが興味を示し、では一緒に行きましょうとなったのだった。

 コンサート当日、イベントが終わったあとの町野さんのやや興奮気味の顔を思い出す。古川豪やひがしのひとしの歌にふれて町野さんは言った。「いい刺激をもらった。音楽の歌ではなくて短歌だが、おれも頑張る」


 町野さんが肺癌を病んだのはそれから1年ほどあとのことである。ある日突然の電話があり、「末期癌だよ」と言われた。それからさらに1年、町野さんは名医と呼ばれる医師にすがるべく、治療のためにしばしば首都圏にいらした。だが、会う機会はなかった。

 その頃作歌された作品が悲しい。


  浅草は心優しい駅にして萎えたる足を鍛えてくれる

  階段の手すりたよりにばあちゃんの降り行く地下の駅の深さや

  エスカレーターの備え無き駅多くして足弱き吾には辛き東京

  弱者への配慮はあらずそれはそも首都は強者の都市であるゆえ


 2002年12月5日、町野さんは力尽きて逝った。まだ59歳だった。


2026年6月15日月曜日

短歌のレノン君と呼びたい歌人

 


 本人が亡くなったあとにその作品に出合うことになる作家がしばしばある。「インターネットから出た最初の本格歌人」と言われる笹井宏之はそんな1人。かれこれ13年前になるだろうか、多数のリクエストが集まったとかで再放送されたNHK-BSのドキュメンタリーをたまたま見て、そこに引用された短歌に心を奪われた。ジョン・レノン似の風貌のこの青年が、わずか26歳で急死したことも、そのときに知った。


 歌集『ひとさらい』中の5首。

  まばたきの数え方を忘れてしまった 鳥に静かに満ちてゆく潮

  拾ったら手紙のようで開いたらあなたのようでもう見れません

  上空のコンビニエンスストアから木の葉のように降ってくる遺書

  隣ではベートーベンに似た人が五の段からを暗記している

  レシートの隅っこかじる音だけでオーケストラを作る計画


病床で書かれた歌だが

 「15歳の頃から身体表現性障害という難病で寝たきりになり」とウィキに書かれているが(http://ja.wikipedia.org/wiki/笹井宏之)、これらの歌はそんな日常の中で書かれた。にもかかわらず、病者の翳りは薄く、透明でのびやかで、センス・オブ・ワンダーに満ちている。

 歌集『ひとさらい』からもう5首。

  からだにはいのちがひとつ入ってて水と食事を求めたりする

  冬用のふとんで父をはさんだら気品あふれる楽器になった

  野菜売るおばさんが「意味いらんかねぇ、いらんよねぇ」と畑へ帰る

  すっぴんで星をつめたくしていたらひゅーんとおりてきた正義感

  思い出せるかぎりのことを思い出しただ一度だけ日傘をたたむ



 もう新作に出合えないのはやはり残念だが、彼の短歌はどんな歌手の歌よりも音楽よりも親しい友となった。ありがとう、笹井君。

2026年6月14日日曜日

牛肉大和煮と川崎貴嗣さん

 


 仕事部屋の机の隅に、牛肉大和煮の缶詰がずっと置いてある。2013年7月10日に川崎貴嗣さん(ほんの4年ほどのつきあいで終わってしまったが、僕の大切な大先輩編集者)が亡くなった直後に買ったものの1つ。ただの缶詰だが、川崎さんにまつわる思い出の品でもある。

 川崎さんの自宅は湘南の茅ヶ崎だが、ウィークデイは南林間のワンルームマンションで仕事をしていた。週末だけ茅ヶ崎の家に帰るという生活。いつ頃からそうなったのかは知らないが、僕がしばしば土曜に訪れるようになってからは、週末の茅ヶ崎帰りも崩れたらしい。


南林間の仕事場で牛肉大和煮を

 南林間の仕事場へはじめて行ったのは、たしか金曜の夕刻だった。あくまでも仕事上の打ち合わせ。ウェブサイトの構築に関する打ち合わせをしたのではなかったかと思う。打ち合わせは短時間で終わり、やがてなぜか好みの文学作品の話になり、場所を駅前の飲み屋に移してそれが続いた。



 その次の機会はすぐにやってきた。今度は、「いいワインをもらった。1人では飲みきれないから、来てくれ」と言われて出かけたのだった。僕は気の利かない人間であって、つまみも何も持っていかなかった。いや、暫時そのことは頭にあったのだが、面倒でやめた。着くと、川崎さんの仕事場にはつまみに適するものはほとんどなかった。苦手だという川崎さんに代わってワインのコルク栓をあけると、さて、どうしようということになった。

 それで、川崎さんが出してきたのが、牛肉大和煮の缶詰だったのだ。


 飲み始めた。

 大和煮を皿にあけ、箸でつまむ。

「うむ、なかなかおつじゃないか」

「白ワインに合いますねえ、存外」

 そんな話になった。


 これだけのことなのだが、30〜40年ぶりで食べた大和煮はなぜか旨かった。

 大和煮はまた、川崎さんとの間の垣根を取り払うきっかけになった気もする。

2026年6月13日土曜日

植物のしたたかさ、大地のような音楽

 


 毎年、夏が近くなると、夕顔を植える。

 ご存じのとおり、夕顔の種皮は厚くて堅いので、表面に傷をつけてから一晩水につけておく。小さな鉢にまいた種が芽を出すのはそれからさらに10日ほどたってからだが、土の上にひょっくり顔をだした小さな葉を見るのは何度経験しても嬉しい。

 今年は、どういうわけか、夕顔があまり育っていない。気候のせいなのか、それとも単純に土がよくなかったのか。

 それでも、つるは徐々に伸びてきて、枯れることはない。そのうち、あのかぐわしい白い花が咲くだろう。


 植物を見ていていつも感じるのは、美しさや可憐さではなく、しぶとさ、したたかさである。鉢植えの植物はいってみれば団地住まいの人間のようなものだが、ストレスをためこんで十二指腸潰瘍をわずらったりする人間様に比べ、植物はなんとか環境に耐えて生き延びる。

 考えてみれば、すべての植物は大地に太い根を張って屹立する大樹の兄弟分なのだから、しぶといのはあたりまえか。


グレツキの3番『悲歌のシンフォニー』

 大地のような音楽という言葉が思い浮かぶ。


 このたとえで思い出すのは、ポーランドの作曲家、グレツキの3番『悲歌のシンフォニー』である。コレクションになどとんと興味のない僕だが、この曲のCDだけはなぜか4〜5枚持っていて、ことにポーランドの指揮者と歌手、オーケストラが録音したものの1枚『HENRYK GORECKI:SYMPHONY NO.3』(VOX 7511)というアルバムはよく聴く。

 ナチスの独房に閉じこめられて死を待つだけとなった18歳の娘が爪で石壁に刻んだという詩をはじめ、この曲には悲しみを基調にした3つのテキストがとりこまれていて、ソプラノで歌われるが、彼らの演奏が始まってまず感じるのは大地から噴き上がってくるようなエネルギーである。そのエネルギーは、数々の悲劇を乗り越えてきたポーランドの歴史と密接なつながりがある。

 民族主義は常に野蛮を伴うものだが、それでも、歴史を振り返ることなく、時代や社会への関心も薄いいまのわれわれには、彼らポーランドの人たちのような「植物の強さ」は求めようがないと言うしかない。

2026年6月12日金曜日

ギネスにまつわる思い出

 


 松島駿二郎『ケルト紀行』という1冊を読む。アイルランド〜ウェールズ〜フランスへとケルトを探索した旅の記録。

 アイルランドへ行った人がほとんど例外なく口にする一言がある。「アイルランドで飲むギネスは、日本で飲むそれとは別物だ」


 この本にもそいつが出てくる。

「わたしはためらわず、ギネスのオン・タップを注文した。オン・タップとは樽から直接腕木の付いたポンプで注いでくれるということだ。つまり、生ギネスである。……それがわたしの本物のギネスとの出会いの瞬間だった。本物のギネス! それはびっくりマーク(感嘆符)付きで記述するのが正しい。……今まで日本をはじめ世界各地で飲んできたギネスはギネスではない」


 僕もまたギネスが好きだが、この種の記述にふれるたびにアイルランドへ行きたくてたまらなくなる。アイリッシュ・ハープをあしらったギネスのロゴは同じでも、東京のアイリッシュ・パブではだめなのだ。

 その機会はもうありえないだろうが。


下北沢「宮鍵」に3人が集まった夜

 ギネスで思い出す店がある。かつて下北沢にあった酒場「宮鍵」。おでんがメインの飲み屋なのに、ギネスが置いてあった。常連の一人にギネス好きの大学教授がいて、その人の注文で置くようになったと聞いた。

 といって僕自身はこの店ではギネスは飲まなかったのだが、店そのものの思い出は深い。27年前に逝った松平維秋に教わった店であり、いつも彼と行った店だからだ。


 1999年10月末のある夜が記憶の中から浮かんでくる。10月15日に逝った松平さんを偲んで、同じ下北沢で酒場「いーはとーぼ」を営む今沢裕、松平夫人だった洋子さんという、ふだんは一緒に飲むことのない顔ぶれで集まった。

 話ははずまなかった。3人揃って黙々と飲んだ。僕自身についていえば、杯を重ねるうちに涙が出て来た。涙はとめどなく流れた。そして泥酔した。

 そんな夜だった。

 「宮鍵」は2019年8月末に店じまいしている。


2026年6月6日土曜日

秋海棠の記憶

 


 寺田寅彦はいうまでもなく漱石の弟子にあたる人であって、科学者なのに俳句もよく詠んだ。俳句での筆名は牛頓。牛頓=ニュートン、ということらしい。

 そんな牛頓先生が遺した一句。

「中庭や小窓に雨の秋海棠」

 一見して、凡庸。だが、いい句だなあと思う。秋海棠は地味な植物で、花も華麗ではない。しかし、日陰にひっそりと咲く花にはえもいわれぬ味がある。それを小窓越しに見ているというのがいい。しかも、秋海棠は雨にうたれている。


 秋海棠の中国での呼び名は断腸花。荷風散人の号はここから来た。


 秋海棠については、個人的な思い出もある。

 結婚した直後だから1977〜78年頃だろうか。家内とは立花実さんの『ジャズへの愛着』が縁で知り合った間柄なので、亡き立花さんの仙台の実家を訪ねた。ご母堂の立花重子さんが迎えてくださった。

 広々としたリビングでしばしの歓談。そのあと、仏間に案内された。床の間があった。大ぶりの鉢がそこにあり、見事な枝ぶりの樹木が入れてあった。それが秋海棠だった。秋海棠という植物名も、そのときはじめて知った。


 秋海棠の名を聞くと、いまもあのときの情景と立花重子さんの穏やかな笑顔が思い浮かぶ。その後、立花重子さんとは年賀状をやりとりするだけのおつきあいだったが、いまから10年ほど前だろうか、100歳で物故されたという。