2026年2月17日火曜日

矢吹さんとやり残したこと

 

 

 100%スタジオのイラストレーター矢吹申彦さんのお姿をはじめて見たのは、1969年の冬、雑誌『スイング・ジャーナル』の編集部でだった。僕は当時の編集長児山紀芳さんに「うちの雑誌に書かないか」との誘いを受けて行ったのだが、編集部の隅にグラフィックの作業をするスペースがあり、そこに矢吹さんがいた。あれは何というのだろう、ごく浅いタートルネックで首元がボタン止めのグレーのセーターを着ていらした。アルバイトとして誌面レイアウトの仕事にたずさわっていらしたのだと思う。

 その2年後にはジャズではなくロックの雑誌『ニューミュージック・マガジン』の編集室で再会することになるのだが、そのときは想像もしなかった。


結実しなかった企画

 つかず離れずという言い回しがあるが、矢吹さんとはそういう関係だった。共通の友人に松平維秋がいたせいで、すぐに打ち解けたが、一定の距離は保たれたままだった。

 仕事の上での最初のおつきあいは1973年、風都市の「CITY-Last Time Around」プロジェクトにからんでだった。コンサートの告知ポスター、ソングブック、レコードジャケットでキービジュアルとして使うイラストレーションをお願いした。

 そのイラストを受け取った日のことが、忘れられない。もうすぐ仕上がるとの電話連絡があり、午前11時前後だったろうか、東北沢の矢吹邸を訪ねた。しかし、イラストは未完成だった。アトリエに入り、キャンバスに絵筆を走らせる矢吹さんの背後で待つ。1時間、2時間……昼食のカツ丼が運ばれてきた。食後、さらに待つ。1時間、2時間……「できたよ」という声が響いたのは、アトリエに入ってから6時間後だった。手抜きのできない、職人気質の人だった。



 その後、仕事の上でのおつきあいは絶えてなかった。二度目は、遅く2004年になってのことになる。ムック『風都市伝説』のカバーイラストを担当していただいたのだが、このときは描き下ろしではなかった。既存の作品を使わせてもらった。

 さらにそれから10年ほど経った頃、集英社新書で一緒に本を作る話が持ち上がった。企画はロックのアルバムジャケットのアンソロジー。ジャズのそれは複数出版されてきたが、ロックではない。矢吹さんがアルバムを選んでコメントを付け、それら素材を僕が編集するという役割分担で企画は決まった。


 最終的には、この企画が実現することはなかった。企画が決まってすぐにスタートするはずだった作業は、1年経っても全く動く気配がなかった。そしてそんなある日、「もうやめよう。ぼくは疲れた。大きな仕事をする余力はない」とのメッセージが矢吹さんから届いた。それで終わりだった。


 やがて2022年10月28日、矢吹さん逝去の訃報がネットを流れた。敗血症が彼の命を奪った。それは、ひょっとしたら再生するかもしれなかったいつぞやの企画の完全消滅の告知でもあった。

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