某サイトで自分の生年月日を登録していて、石塚幸一を思い出した。石塚君は1年下だが、僕と誕生日が同じなのだ。3月24日。生年は僕が1947年、彼が1948年。生きていれば、彼は今年78歳という年齢を迎えることになるはずだった。
石塚君はロックのマネージメント集団「風都市」の創立メンバーの一人である。風都市は1971年、渋谷にいまもあるロック喫茶「BYG」を拠点として活動を始めた。マネージメントの対象となるミュージシャンは当時はまだはっぴいえんど、はちみつぱい(蜂蜜ぱい)の2つのバンドが主だったが、彼らはBYG地下のライブスペースの中心的出演者でもあった。
そのBYGの1階にあった玄米食レストランで、石塚君の誕生パーティーが開かれたことがある。石塚君自身の発案で行われたのだが、そのときテーブルに並んだのは複数の缶詰。5〜6個あったろうか。缶を開けたそれらを円形に並べ、玄米のチャーハンを真ん中に置いた。「どうです、豪華でしょ」と本人は自慢げに言ったが、豪華どころか貧乏臭いとしか言いようのないテーブルの光景が、長い時を経たいまも脳裡に焼きついている。
あれから55年だ。
マネージャーとしての石塚君ははちみつぱい及びあがた森魚の担当だった。当時のあがた森魚はまだ全くの無名に近い存在だったが、風都市誕生と同じ1971年の8月7〜8日に岐阜県椛の湖(はなのこ)の湖畔で開催された第3回中津川フォークジャンボリーにはちみつぱいともども出演。そこで歌った「赤色エレジー」で注目を集めた。そして、録音されたテープを聴いたキングレコードのディレクター、三浦光紀の興味を惹き、翌1972年4月、三浦光紀が起ち上げた新レーベル・ベルウッドからの第1弾シングルとして発売された。
そうして、「赤色エレジー」は40万枚のヒットを記録する。
当時はシングルヒットの歌い手という位置づけだったあがた森魚だが、翌年に入るとベルウッドでのアルバム制作が始まった。記憶をたどると、春先に始まったレコーディングは思うようには進まなかった。音作りに苦心するあまり、スタジオの使用時間ばかりがかさんでいく。「大正ロマン風のテーマにブリティッシュ・トラッド系のサウンドをまぶした」などと評されるアルバムが一応の完成を見たのは、夏頃ではなかったか。
そんな苦労の多いレコーディングに単にマネージャーとしてだけでなくディレクター的役割で関わり続けたのが、石塚君だった。そして9月、『乙女の儚夢(ろまん)』のリリース。いま振り返れば、それは石塚幸一最初の大仕事だった。
二度の胃癌にむしばまれて
個人的には、風都市が解散した1974年以降、石塚君と会う機会はほとんどなかった。どちらかというと健啖家の元気印、百軒店の坂を肩で風を切るように歩いていた彼が胃癌に倒れたと聞いたのは、2000年代に入った頃だったか。
やがて2003年、風都市の足跡をまとめる構想で制作が始まったムック『風都市伝説』の取材の一環として彼に再会する機会がめぐってきた。ところは、彼が東急ハンズの仕入れ担当として働くようになっていた二子玉川。飲み屋だった。胃癌の手術後だと聞いていたからおそるおそる飲み屋に入ったのだが、彼は元気だった。大ぶりのグラスに入ったチューハイをがんがんいく。話しぶりも快活で、病後とは思えなかった。
しかし、病魔は再び彼を襲う。翌2004年春、彼は二度目の胃癌手術を受けるべく都心の病院に入院した。そんな彼を見舞いに訪ねたのは、その年の4月のある日だったか。広々としたガラス窓の眼下に街並みが広がるロビーで話をした。「退院したらまた二子玉の飲み屋へ行こうぜ」と僕。彼は「うん」と力のない声で応えた。
去り際、エレベーターに乗り込んで振り返ると、大窓に向かって座っている白の入院着姿の彼の背が目に入った。それが、2週間後に世を去る彼を見た最後となった。


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