日曜の昼下がり、花見川団地商店街の休憩スペースには多くの人の姿が見える。なかでも目立つのは、団地南の工場街で働く人たちだろう、中近東系とおぼしき顔立ちの男たちとその家族だ。日曜に限らない、夕刻を過ぎて家族そろって町中に集まるのが彼らの風習らしく、ほぼ毎日聞きなれない言語の会話が商店街を飛び交っている。
その中に、こちらはれっきとした日本人だが、おそろしくみすぼらしい身なりの老人が一人いる。衣服はところどころにかぎ裂きが目立つ古着。足元は真冬でも素足にサンダル。さすがに寒さがこたえると見えて、背を丸めて椅子に縮こまっている。その姿からは、「終わった人間」という言葉が思い浮かぶ。
バカにしているのではない。見下しているのでもない。一歩間違えれば、自分もまた終わりかけた人間になる、そんな気がするのだ。
海を越え、時代を越えて流れる歌
1980年に死んだロシアのシンガー=ソングライター、ウラジーミル・ヴイソーツキイにそのものずばり「終わった人間」という歌がある。
愛に胸塞ぐこともなく
神経はもはや緊張を知らず、破りすてていい
垂れ下った神経は、物干の紐のよう
誰にも構わず、誰からも構われない
と淋しい心境を歌う歌は、次のように閉じられる。
地球の引力と戦うことに疲れ
横になる、その方が少し首つり輪から遠い
だが心臓は、俺の外で鼓動しているのか
そこへ行く時が来た、何もない所へ
そこへ行く時が来た、何もない所へ
(宮沢俊一訳)
ヴイソーツキイの歌は暗い。それも、「激しい暗さ」とでもいうしかないような独特の暗さだ。しゃがれ声をたたきつけるように歌う彼は本来は舞台俳優で、歌にも劇的な筋立てをもつものが多いが、その暗さは1960〜70年代のソヴェトを生きた民衆の心の闇をみごとに浮かび上がらせる。
あくまでも激しく生き、やがて心臓発作に倒れた彼の歌は深い影となって海を越え、時代を越え、「不自由なソヴェト」とは違って自由を謳歌しているはずのここ日本を死んだような目でさまよう「終わりかけた人間たち」の頭上をそっと音もなく流れていく。

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