20代に入ってまもない頃から、漢詩が好きだった。実をいえば、いまもって詳しくはない。けれど、やはり好きである。ことに、陶淵明や寒山の詩は飽きることがない。
例えば、陶淵明のあまりにも有名な「園田の居に帰る」。「其の三」にある
晨(あした)に興(お)きて荒穢(こうあい)を理(おさ)め
月を帯び鋤を担いて帰る
という一節からは、何度読み返しても「生活とはこのことだ」という思いがふつふつと湧いてくる。
あるいは、寒山のこれまた有名な詩の一節。
群女 夕陽に戯むる
風来って満路香わし
夕日を背景に遊びたわむれる乙女たちの何気ない光景。風とともに漂い来るかぐわしさ。「生活の中にあるべきゆとりとは、本当はこんな瞬間のことだ」という思いに駆られないではいられない。
よく知られているように、陶淵明は自らの死を想定した挽歌で、
但だ恨むらくは 世に在りし時に
酒を飲むこと 足るを得ざりしを
と、うたった。生きている間に酒を存分に飲めなかったことだけが心残りだ、というのである。
いったいに、中国の詩人たちは酒好きである。酒好きというより、生きることは常に酒とともにあり、とでも言うほうが真実に近い。
マーラーのシンフォニー『大地の歌』
グスタフ・マーラーのシンフォニー『大地の歌』は、李白その他の中国の詩人たちの詩とともに展開する。全部で6つの楽章からなるこの曲中でも白眉といっていい第1楽章では、テノールが李白の詩をこう歌う。
さあ友よ、盃を持て!
金色に輝く酒を
いまこそ飲み干すのだ。
生は暗く、死はまた暗い!
マーラーは、死の恐怖にがんじがらめになって晩年を生きた人である。彼が漢詩をどれだけ読んでいたかは知らない。しかし、狭心症の発作の直後にこの惜別の作品を書いていたとき、彼の心の眼に漢詩の虚無――それはいってみれば「明るい虚無」だ――がひたひたとしみこんできただろうことは想像に難くない。
マーラーはあまり好きではないが、この曲、というよりワルター指揮ウィーン・フィルの1952年の録音(英デッカ盤)は素晴らしい。コントラルトの名花キャスリーン・フェリアーも素晴らしいが、ことにテノールのユリウス・パツァークが素晴らしい。
パツァークは声量に乏しい人だったそうである。そのパツァークが、ここではその声量の乏しさゆえにリアルそのものの歌唱を展開する。これを声量の豊かな歌手が朗々と歌ったのでは、逆にさまにならないはずである。
もっとも、マーラーのオーケストレーションのダイナミズムは、いま聴けばホラー映画かアクション映画の背景音楽としか感じられないだろう。ウィーン・フィルの演奏はこれ以上ないほどの見事さだが、強弱を意図しすぎたオーバーアクションは現代の感性にとっては滑稽すれすれとなる。


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