新美南吉に「最後の胡弓弾き」という小説がある。かつての村々の旧正月、腕のたつ農民たちの小遣い稼ぎになっていた胡弓と鼓による門付けが消えていくさまを描いた、童話というよりは大人向けの小説に近い作品である。
子供のときから胡弓が好きでたまらなかった一人の男を通して、作者は文明の波に洗われる社会に置かれた伝統的な楽器と芸の運命をいとおしむように描く。読んでいると、人が時間とともに老い、死んでいくように、古くから受け継がれてきた文化にも寿命があることがいやおうなく感じられて、しみじみとした気持ちになる。
ところで、ここでいう「胡弓」は日本の楽器である。形状は三味線に似ていて、棹がだいぶ短い。絃は3本または4本。これを馬の尻尾の毛でつくった長い弓で弾く。邦楽器としては唯一の擦弦楽器だという。
うかつなことに、この小説を読むまで、そのことは全く知らなかった。胡弓と聞いて思い浮かぶのは、二胡など、もっぱら中国の楽器のほうである。おそらくは中国から朝鮮経由で渡ってきたものがもとになっているのだろうが、江戸時代初期から広く使われたそうである。
そうとわかると、胡弓の音を一度ぜひとも聞きたいという思いがつのってきた。しかし、いまとなっては、博物館の類に陳列されているだけで、弾き手はとっくの昔に絶えただろう。そう思って、半分あきらめていた。
浅草で胡弓を聴いた
そんな胡弓を聴く機会がめぐってきたのは、いまから36年前、1990年4月20日のことだった。ところは浅草、隅田川沿いのアサヒビール。胡弓の音はそこのロビーで開かれた、「糸」というバンドのコンサートのステージから聞こえてきた。
「糸」は、三絃を弾く高田和子が呼びかけて賛同者を集め、ピアニスト・作曲家の高橋悠治をリーダーとして発足したバンド。6人編成で、楽器は三味線(細棹)、三味線(太棹)、笙、三絃琴、一絃琴、それに打楽器から構成されている。アフリカや中近東のものらしい打楽器を除けばすべてが邦楽器という点に、その特徴はある。
200人ほどの聴衆がつめかけた広々としたロビーの隅につくられた特設ステージから最初に響いてきたのは、邦楽の古典曲「阿古屋琴責」。古典といってもしかつめらしい感じの全くない、ところどころにはさみこまれる台詞がどっと笑いを誘ういわば「戯れ」を核とした曲だが、胡弓が使われたのはこの曲でだった。
残念ながら胡弓の演奏はほんのさわり程度だったが、それだけでも音の形ははっきりとわかる。予想していた通り、「すすり泣く」といった感じの音色が特色である。「のんびりしたような、また物哀しいような音色」と、南吉は書いている。
もっとも、この夜のコンサートでは、胡弓の音に感心したり聴きほれていたりする暇はなかった。古典のあとには、現代曲が次々に続く。それも、子供の遊びに題材をとった曲あり、ギリシャ系のリズムが生き生きとした表情をつくり出す曲ありの多彩さ。休憩をはさんで2時間弱、たっぷり楽しませてもらった一夜だった。


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