ある町が魅力的かどうかは路地の存在にかかっている、と思っている。
いまは千葉花見川団地住まいだけれど、人工の町であるここには、当然ながら路地なんてものはない。細い道がたくさんあっても、それらはただの通路だ。
その点で対照的なのは、やはり東京の下町だろう。寺が上野なので、彼岸の折りなどに稲荷町の界隈を歩く。路地に入ると鉢植えがひっそり並ぶ光景もいまだあり、故郷にもどった心地がする。ただし、自営業が多いので、建物はコンクリートばかりである。
いつかの夏、京都の裏通りを歩いた。さすがに古い家並が残されていて、気持ちが落ち着く。ここで暮らせるといいのにと思ったが、唯一の不満は、裏通りといえども整然とつくられていて、迷路の魅力に欠けることだろうか。
路地はやはり迷路をなしているほうがいい。
サティを聴いた「自転車屋」
昔、世田谷は松原の裏通りを歩いていて、ピアノの音に思わず足を止めたことがある。どこかの家で弾いているにしては巧みすぎると思ったら、住宅街の一角、マンションの半地下が酒場になっていて、そこから洩れてくるのだった。それが「自転車屋」という店だった。
しばらくその「自転車屋」に通うことになったが、店主の好みなのか、サティばかりかかっている店だった。「ジムノペディ」や「グノシェンヌ」をはじめて聴いたのはここである。
深夜、看板になった店を出ると通りには人っ子ひとりない。近くだから通りを歩きはじめると、自分の歩く音が森閑としたあたりに響き、その音にさっきまでのピアノの音の記憶が重なる。
48年ほど前だろうか、いまは亡き秋山邦晴氏が雑誌『MORE』の巻頭コラムでサティのピアノ曲にふれて「モンマルティの歩道を歩くサティの足音だ」と書いていた。僕にとっても、自転車屋への行き帰り以来、サティの音楽は路地を歩く音になった。

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