エーリヒ・ケストナーの『飛ぶ教室』を再読する。
わが家から徒歩で7分ほどにある市立図書館を利用することが、この頃はとても多い。狭い敷地に建つ小さな図書館の蔵書はお世辞にも充実しているとはいいにくいが、児童書の部屋だけは例外である。いくらでも読みたい本があって、この1冊もそこから借りてきた。
床をかけまわる小さな子供たちの間をぬうようにして本を探すのはいささか神経を使うが、テーブルセットが置かれていて、そこはとても落ち着く。子供たちがわいわい言う声も不思議に気にならない。
それにしても、子連れではなく、大人だけの来館者の姿をこのコーナーで見つけることが少ないのは、なぜだろう。児童書はけっして子供だけのものではない。大人になってから読むと、子供の頃に読んだ同じ本がまったく違った気持ちで読める。それに、大人向けの小説とは違って、すぐれた児童書は繰り返し読んでも飽きることがない。
『飛ぶ教室』は寄宿制度の男子学校ギムナジウムの少年たちの物語で、まえがきでケストナー自身が語っているとおり、けっして楽しいことばかりではない少年時代があたたかい筆致で丁寧に描き出される。小説を読む価値の1つはこの世の中にはいろいろな人たちがいろいろな境遇と思いをもちつつ生きていて、その人たちのことを現実の生活にもまして身近に思いやることができることにあるが、この作品はそういった経験を深く味わわせてくれる。
楽しさと悲しさの両極を代表する存在として、この物語中の人物では、僕はいつも腹をすかしてばかりいるボクサー志望の少年マチアスと、禁煙車だった車輌を改造してそこに住み、菜園の世話と草の上の読書に明け暮れる禁煙先生が好きである。何度読んでも、実際の友人や知人以上の親しさを彼らに感ずる。
禁煙先生は教師ではなくて、もともとは医者。妻と子を失ったために絶望してあちこちをさまよい、最後に懐かしい母校の近くに戻ってきたという経歴の人物である。物語に描かれる「現在」の彼は、医者はとうに廃業していて、酒場でピアノを弾いて生計を立てている。
酒場のピアノ弾きサティ
そのせいだろうか、禁煙先生の人となりを作中に追っていると、僕はいつのまにかエリック・サティの像をそこに重ね合わせることになる。生涯独身をつらぬいたサティもまた、子供好きではあったけれど家庭をもつことはついになく、禁煙先生の後半生と同じくキャバレーのピアノ弾きをしながら静かにひっそりと暮らし続けた人である。
サティに「官僚的なソナチネ」というピアノ曲がある。その名のとおり、クレメンティのソナチネのいくつかのフレーズを題材に、サティらしいスパイスを加えたコラージュ作品で、はずむような曲調だからうっかりするとあっさり聴き流してしまいがちだが、単なる手慰みでつくった小品ではけっしてない。
ことに3つ目のパート「ヴィヴァーチェ」に著しいが、わずか1分ちょっとの曲中でテンポは不意に変わり、めまぐるしく変転する。そこから聴こえてくるのは、教師に命じられるままにしかつめらしく弾くソナチネではなく、鍵盤の上でたっぷり悪戯する遊びの音楽である。
少年の頃はいやいや鍵盤に向かわされただろうサティと、大人になってむしろ子供にもどりはしゃぐように鍵盤に指を踊らせるサティとが、音の間から交互に見えかくれする気がする。


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