首都圏ではちょうど今頃、春のように暖かい日が続いたかと思うと、突然冬に逆戻りすることがある。そんな気候の日々、不意にある人物のことを思い出す。その人の名を、立花実という。
立花さんは、あえて職種で分けるなら、ジャズ評論家だった。「あえて」というのは、僕にとっては年長のジャズ喫茶仲間であり、先輩であり、師匠であると同時に、あまり原稿を多くは書かない文筆家であり、さらに言えば「非難がましい言説はあまり弄することなくひたすら音楽家の美点を称揚した」という意味では「いわゆる評論家」の部類には属さない気がするからだが、しかし基本的にはまぎれもない「文筆の人」だった。
それではなぜ思い出すのが今頃なのかといえば、これははっきりしている。僕の記憶にある氏の残像が、こんな季節のそれだからである。冬、立花さんはいつだってあまり高級ではないジャンパーを着て、寒そうにしていた。いまになってみれば、それはきちんとした食事をとっていなかったせいではないかと思うが、一杯のコーヒーをあれほど美味しそうに飲む人もなかった。そして、コーヒーを口にふくんで一息つき、ジャズの音に耳をすますと、氏の眼には春の光があらわれる。
最後に会ったときの、憔悴しきった表情が記憶の底から浮かんでくる。ある夜、氏は酒に深酔いして道に倒れ、鞄を盗まれた。資料やメモがごっそり入った、氏の最大の財産だった。年少の僕に、氏はうなだれたままそのことを語ってくれた。
氏が故郷仙台の広瀬川で入水自殺をとげたのは、それから間もなく、1968年3月のことである。理由は知らない。あの鞄のせいかもしれない。あるいは、僕にはそっと話してくれた失恋のためかもしれない。葬儀からしばらくあとになって訪れた実家でうかがった話では、その夜、氏の机の上には、テイヤール・ド・シャルダンの『現象としての人間』が読みさしのまま置かれていたという。死に至るヒントはその中に書かれているのかもしれない。
眼に浮かぶ春の光
立花さんから教わって魅力を知った音楽家は何人もあるが、その中から1つだけ選べば、やはりカウント・ベイシー楽団を挙げなくてはならないだろう。ジョン・コルトレーンを中心に新しい動き、若者の挑戦を常に高く評価した氏は、一方では古いもの、伝統的なものの価値を忘れない人でもあった。ベイシーを語るとき、氏の眼にはやはり春の光があった。
僕が実際にベイシーの魅力を知るのは、それからさらに長い時がたってからのことになるが、それは「ティックル・トゥー」という1曲に始まり、その1曲に尽きている。ベイシー楽団の素晴らしい演奏は、もちろんほかにもたくさんある。しかし、僕にとってのベイシーは、何はどうあれこの1曲できまり、なのだ。
家でアナログ盤が聴けなくなってから、この曲のことは長いこと忘れていた。たまたまTVで50年代のベイシーの演奏を記録した短いフィルムを見る機会があって、思い出した。それで、CDを探してきた。
50年代のベイシーも悪くはないが、30〜40年代のこの楽団には「黄金時代」という形容がぴったりの、燦然と輝く魅力がある。「ティックル・トゥー」もまた、レスター・ヤングがいた時期、1940年の録音である(CD『this is jazz Count Basie』)。
この曲の魅力を言葉で語る自信はない。ジャンプするようなリズムに乗って、バンドの音が揺れるがごとく動く。ソロ、ことにレスターのそれの素晴らしさ。楽器によるみごとな歌。そして、炸裂するアンサンブルの華麗な音。全盛時代のエリントン楽団もそうだが、単純なメロディーをユニゾンで吹いてもそこに尽きることのない魅力が感じられるのは、一人一人の音色が微妙に異なっていて、それが響きの深さを生んでいるからである。これぞジャズ、うん、まさにそうだ。
立花さんのお墓参りをしたのは、いまから50年近く前である。お墓は仙台市からバスでかなり長時間行ったところ、自然に囲まれた閑静な斜面の墓地にあった。
宿を出るときは晴れていたのに、お墓の前で手を合わせていたら、不意に雨になった。冷たい雨だった。僕と妻は、しばらくの間、じっとその雨にうたれた。
「ティックル・トゥー」を聴いていると、なんの関係もなく、そのときの雨のにおいがもどってくる。



0 件のコメント:
コメントを投稿