2026年5月21日木曜日

平岡正明さんとジャズ批評誌

 


 調べたいことがあって、平岡正明『昭和ジャズ喫茶伝説』を再読する。以前読んだ平凡社の単行本オリジナルはではなく、ちくま文庫版。

 知りたかったことは結局載っていなかったのだが、懐かしさも手伝って全編読み通した。ちょっと疲れた、とにかくわっせわっせと押しかけてくる文体だから。


 ジャズ喫茶のオーディオ装置ことにスピーカーシステムに関するくどいほどの記述を読んで、平岡さんがオーディオマニアだったことをあらためて思い出した。それにからんで、平岡さんのお宅を訪ねたときのことも思い出した。平岡宅のリビングの隅には、コーナー型のエンクロージャーにおさめられたグッドマンのアキショム80がセットされていた。後年、ご本人に言われたことだが、そのとき僕は「えーっ、グッドマンでジャズが聴けるんですかあ」と言ったらしい。長年恨まれた。

 何の目的で訪ねたのかはもう忘れたが、中澤まゆみさんと一緒だった。当時の中澤さんはシンコーミュージック刊の音楽誌の編集者だったから、取材だったのか。

用事を終えて路上に出ると、「おーい、君たち結婚しろよーっ」という平岡さんの声が2階の窓から降りかかってきた記憶がある。


『ジャズ批評』の時代、編集室で平岡さんと徹夜

 懐かしさのつのる記述に出合った。


 ジャッキー・マクリーンは、東銀座松坂屋裏「オレオ」の、ローサーのスピーカーで聴くのがいちばんだった。英国製ダブルコーン、公称二〇センチ口径の、マグネットの塊みたいなスピーカー。

 この店は「ジャズ批評」発行人・松坂比呂の店だった。銀座七丁目、古いビルの二階にあって細長く、ちかく、深沢七郎が東京一うまい餃子といっていた「東華飯店」があり、電通社員時代の荒木経惟が、ラーメン屋写真展を月例のようにやっていた「キッチン・ラーメン」があり、あと二丁行くと築地で、イーストエンドの気配がした。

 一九六七年六月、「ジャズ批評」創刊号は、和文タイプ印刷。巻頭が、俺の「ジャズ宣言」だ。……

 この宣言で、俺はジャズ評論家になった。(「東銀座『オレオ』)



 『ジャズ批評』創刊号には僕は直接の関わりはないが、出版社に在籍していたこともあって、編集の進行管理の仕方などを松坂さんに幾度となくアドバイスした。そんな経緯があって次の号からは直接編集を手伝うようになるのだが、その号から企画は相倉久人さん以下3人の編集同人が行うことになった。その一人が平岡さんだった。

 僕が平岡さんとじかに接したのも、その号の編集会議でだったろう。時期はその年の夏のさなかか。場所は、高田馬場の木造アパートの一室。そこが編集室だった。アパートの建つ敷地の入口にはでかい犬がいて、人を見れば猛烈に吠え立てた。そのそばに寄って手なづけていた平岡さんの姿が記憶に残っている。


 その編集室で平岡さんと徹夜したことがある。締切が迫っているのに原稿が一向に進まない平岡さん自身の希望で、僕をサポート役として一夜編集室にこもったのだ。出版界で言う「かんづめ」である。

 60年近くも前のことなので原稿のテーマその他何も覚えていないが、夜がしらじらと明けてようやく脱稿となったことはぼんやり覚えている。かたわらにいた僕は手持ち無沙汰なので自分でも原稿を書いた。水虫のゲリラ兵士はジャングルでどう対処するだろうかという、400字原稿用紙3枚の馬鹿げたコラムだった。


 平岡さんの逝去は、それから長い時を経た2009年7月9日。葬儀はその3日後だったか。暑い日だった。式場にはかつての『アワ・ジャズ』同人、持田昌宏さん、白山のジャズ喫茶「映画館」の店主・吉田昌弘さんがいて、帰りは一緒に新宿まで出、スナックで追悼の真似事をした。

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