2026年3月11日水曜日

東日本大震災から15年

 


 2011年3月11日の東日本大震災から15年が過ぎた。

 震源からはるかに遠い東京は八王子での体験だったが、あの日のことは忘れられない。

 作業が一段落し、連絡のメールを発信すべく送信ボタンにマウスのポインタを近づけた瞬間だった。突然の大きな揺れ。と思う間に、背後にあるスライド式書棚のスライド棚が外れて倒れる、棚に並べていたCDが床に散乱する、机の隅にあるスキャナーが吹き飛ばされる。まさにパニックだった。

 仕事部屋を出てリビングに入ると、女房がテレビを抑えながら震えて立っていた。


飛ばされたその日の夜の約束

 その日の夜は、白山のジャズ喫茶で知人二人と会う予定だった。二人は独身の男女で、結婚相手の候補として引き合わせるつもりだった。つまりはお見合い。しかし、そんな計略もすべて地震で吹き飛ばされた。

 二人の片方、女性の身が案じられた。ケータイで連絡をとろうとしたが、繋がらない。テレビのニュースを見続けるしかなかった。

 夜遅くなって、その人からメールが入った。交通機関がすべてストップしていて、勤務先で一夜を明かすことになったという。ほっとした。と同時に、すべてが夢か幻であってほしいと願った。

 眠れなかったあの夜からもう15年か。

2026年3月10日火曜日

記憶の中のはしご酒

 


 藤圭子に「はしご酒」という歌がある。

  飲めば飲むほど うれしくて

  しらずしらずに はしご酒

  恋は小岩とへたなしゃれ 酒の肴にほすグラス

 作詞ははぞのなな、ヒットしたのは20年ほど前か。


 好きな歌というわけではなく、ごくたまにYoutubeで聴く程度だが、この歌が流れる度に思い出す男がいる。元音楽之友社編集者でのち音楽ライターとして活動した大屋順平だ。

 彼とははしご酒のつきあいだった。


 すでに物故されたが、オーディオ評論家で真空管アンプの権威だった上杉佳郎という人がいる。学生時代はスピードスケートの選手だった偉丈夫で、体力は折り紙付き。オーディオ機器のテストには美空ひばりの「悲しい酒」を使うという酒好きでもあった。

 その上杉氏が誇る酒の上での記録があった。何かというと、はしご酒。氏が打ち立てたはしご記録は店数、いやはしごだから段数にして13。1店1杯としても13杯のグラスがほされたことになる記録である。

 その上杉氏の記録にチャレンジしようと言い出し、僕を道連れに誘ったのが大屋順平その人で、実際には二度実行した。しかし、二度ともはしごの数は上杉氏に遠く及ばない7段。見事に敗退した。7店にとどまった理由は酔いではない。飲み代が尽きたのだ。悲し。


バーを商う家に生まれ、酒で寿命を縮めた

 大屋順平とはそもそもの出会いから酒がらみだった。

 時は1972年、彼が雑誌『レコード藝術』増刊編集部に所属していた時期のことだ。山下洋輔さんにインタビューしてレポート記事を作ろうという企画がもちあがり、筆者として僕が選ばれた。電話があり、まずは打ち合わせをということになった。場所は新宿の酒場「酩酊浮遊ぷあぷあ」。ライターと編集者は特に新規のつきあいとなる場合は直接面談で打ち合わせるのが当時の常識だったが、それを酒場でというのは、僕の場合、後にも先にも大屋順平しかいない。


 それだけではない。少し遅れて酒場に来た彼は席に着くとすぐにウィスキーのボトルを注文。二人して呑み始めた。そうして、1時間。ボトルは3分の2ほどが空になった。のちのち「乱暴な呑み方をするやつだなあと思ったよ」と互いに笑い合うことになる初対面だった。


 編集者のくせして、妙な日本語を使う男でもあった。大屋君の実家は東京赤羽の片隅でバーを営む家だったが、彼はそのことを「赤羽のバマツだよ」と説明する。「バマツ」はもちろん「場末」のことだ。いま思うと、彼は意図してそう言っていたのかもしれない。

 雑誌編集者としてのキャリアは短く終え、70年代後半から彼は音楽ライターとしてものを書くようになった。守備範囲は日本のシンガーソングライター系音楽が中心で、ことに上田知華+KARYOBINを熱烈に支持した。

 しかし、職種が変わって自由な時間が増えたせいだろう、それからの彼の生活は酒浸りの日々という様相を濃くした。僕自身は70年代後半以降彼と会う機会は激減したが、酒の上でのトラブルをよく噂で耳にした。そして、酒は彼の人生の結末を招く。


 さだまさしに「1989年 渋滞―故 大屋順平に捧ぐ」という歌がある。タイトルにある1989年の11月16日、大屋順平は膵臓壊死で逝った。42歳だった。

 その5〜6年前だったろうか、彼は十二指腸潰瘍を病んだ。手術を受け、無事生き延びたが、彼は酒をやめなかった。そのつけが、1989年11月16日の死を招いたのだった。


 偶然だが、大屋君が熱く支持した上田知華も、それから32年後の2021年9月17日、膵臓癌で他界した。


2026年3月9日月曜日

ピジン・イングリッシュ、ピジン・ミュージック

 

 ピジン・イングリッシュと呼ばれる言語がある。「ピジン」はpidginと書く。英和辞典などでは「businessが崩れた語」といったふうに説明されることが多いようだが、実際ははっきりしない。

 ピジン・イングリッシュ自体もまた「崩れた英語」などと言われることがあるが、これは正確ではない。例えば、もともと英語を母語としない地域の人たちが英国の支配下に入り、英語を使わざるをえなくなる。その結果、生来の言語感覚の上に英語をのせるようにして形成されたのが、ピジン・イングリッシュなのである。

 典型を1つ挙げれば、ハワイの人たち、ことに二世代、三世代前のハワイ人が使った独特の英語がそうだ。いや、英語だけではない。植民地主義のあるところ、同じような「ピジン語」がいくつもできた。


「ピジン・ミュージック」の誕生

 似たことは、当然ながら「もう1つの言語」である音楽の世界にもある。書き言葉はラテン語、日常の話し言葉は地域それぞれの言語が使われた中世ヨーロッパにならっていえば、「書き音楽」として誕生したのが、平均律を土台とするヨーロッパ音楽である。基本的なシステムはごく単純化されているから、教育にはもってこいだし、だから世界のあちこちに輸出された。

 より具体的には、ヨーロッパ音楽は固有の楽器を通して伝わっていった。ピアノはもちろん、ギター、サックス、トランペットその他その他、皆ヨーロッパで形が整えられた楽器である。

 しかし、それらの楽器から生まれたのは、純粋ヨーロッパ音楽だけではなかった。アメリカではジャズがヨーロッパの楽器を通して形成されていったし、アルゼンチン、というよりブエノスアイレスではタンゴが誕生した。これらはいってみれば「ピジン・ミュージック」である。いわゆるクラシック音楽や民族音楽を除けば、現代のわれわれがふれることのできる音楽の大半がピジン・ミュージックである、と言ってもいいだろう。


 最初は必要から生まれたピジン語が歳月を重ねるうちに新しい母語となり、語彙や用法を充実させていったように、多くのピジン・ミュージックもまた複雑化と洗練化の過程をたどった。「チャーリー・パーカーはジャズを歌と踊りからはなれたコード進行にした」というのは高橋悠治さんのことばだが(「音に向って」)、1928年のルイ・アームストロングに聴きとることのできる「自然さ」はもはや現代のジャズには求むべくもない。それは、この世にある多くの音楽にあてはまることである。


 ライ・クーダーがキューバのベテラン・ミュージシャンたちと共演した、というよりはキューバ音楽にライ・クーダーがまぎれこんだアルバム『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』(1997)はその好例だろう。少なくとも20世紀前半には考えられなかった「多国籍音楽」がここにある。


2026年3月7日土曜日

向日葵の種とテキーラ

 

 大谷祥平のMLBでの活躍が話題をさらうようになった2019年頃からだろうか、ダッグアウトのベンチで向日葵の種を口に放り込む選手の様子がしきりに取り上げられるようになった。いわく、向日葵の種は選手の試合中の栄養補給剤だ、と。

 実際には彼ら選手は出番を待つ間の暇つぶしに食べているだけなのだが、何十年も前から向日葵の種を好んで食べてきた僕のような人間にとっては嬉しい話題ではあった。


 酒飲みなら、いやそうでなくても、向日葵の種が酒のいいおつまみであることは知っているだろう。酒場に置いてあるのは塩味のきついものだが、こいつはテキーラによく似合う。

 30代だから50年近く前の昔、新宿ゴールデン街によく出かけていたころ、テキーラが飲みたくなったときにだけ入る店があった。テキーラが飲みたくなるのは体調のいい日に決まっているので、どうしてもピッチが上がる。テキーラはドライそのものの酒だが、4杯、5杯とグラスを空にしていくと、だんだん自分の体がウェットになってくるのがわかった。

 もうすぐ79歳を迎える今はテキーラのような強い酒はとても飲めないが、あの味わいと飲み応えはいまも記憶深くに残っている。


テキーラのようにドライでタフな音楽

 ゴールデン街のあの店では音楽がかかっていたろうか、とふと考えてみる。何も音はなかった気がする。いや、有線の部類がかかっていて、それがあまりにも日常的な雑音であるために、記憶に残っていないのかもしれない。


 酒と音楽とはいい連れ合いどうしだが、テキーラのようにドライでタフな音楽。そう考えるときに思い浮かぶのは、アート・アンサンブル・オブ・シカゴの『Full Force』(ECM)をおいてほかにはない。1960年代後半から70年代にかけて生まれたニュー・ジャズはいま聴くと大半が古くさくて辛気くさくてかなわないが、このアルバムに限ってはいまも新しく刺激的である。とことん深い音楽は時代を越えるという証明である。ただし、聴くこちらは耳の病で存分に聴き取ることはできない。無念、残念。

 いつだったか、およそ20数年ぶりでくだんのテキーラの店に出かけたことがある。店は昔と変わらず、ただママさんがだいぶお歳を召しただけだった。入ると、すぐにテキーラを注文した。

「いまはもうテキーラなんて置いてないのよ」

と、ママさんはドライな口調で答えた。

2026年3月5日木曜日

手紙というもの

 


 漱石の『坊っちゃん』で一番心に残っているのは、坊っちゃんが待ちに待った東京の清からの手紙。日頃文章など書くことのない清は、何度も下書きして、何日もかけて1通の手紙を書いた。「真情あふれる」というのは、こういう行為のためにある表現だと思う。

 少し前、必要あって梅棹忠夫『知的生産の技術』を再読した。発行されてまもない頃以来だから、およそ59年ぶりである。

 一番興味深く読んだのは、手紙について書かれた章だった。梅棹忠夫は言う、真情あふれる手紙など書こうと思うな、普通人にはそんな才能はない、用件がはっきり伝わる手紙の書き方を習得せよ、そのためには「形式の確立」が必要だ。

 そのとおりと思う。真情というのは、清の場合のように、「自分の内面に本当に真情がある」場合にしか表現できないものだ。文学的な修辞を適当に使い混ぜた「一見真情風」の手紙など、誰がありがたがるものか。

 『知的生産の技術』から59年たって、世は手紙ならぬEメールの時代。Eメールもすでに30年を超える歴史を数えるが、手紙とは違って、Eメールは最初から万国共通といっていい書式が定まっている。サブジェクトとアドレスの書き表し方、返信を出すときの引用の仕方、メーリングリストで他人の発言に言及する際の方法……。梅棹説に従って言うと、Eメール定着の結果、「日本人の文章表現」はすでにつまらぬ文学性から脱け出ているかもしれない。

 ごく普通の生活人にとって、文章、それも自分の内面にかかわる文章を書く機会などそうそうはないものだ。かつて手紙は、その中心だった。Eメールできちんと相手に用件を伝える文章を書くことは、日常的な言語表現を大きく変える可能性をもっているはずである。


「スペイン革のブーツ」という歌

 「手紙」が重要な小道具になっている歌で真っ先に思い浮かぶのは、ボブ・ディランの「スペイン革のブーツ」である。ある日、恋人(女性)が突然ヨーロッパへの船旅に出る。「私」は、恋人が「危険な大洋」を渡っていくことにためらいをもつ。しかし、彼女は委細かまわず出発する。やがて、船上からの手紙が届く。「私」は思う。

  西風に気をつけて、気をつけて。

  嵐に気をつけて。

  送ってくれるというなら、これだけ、

  スペイン革でできたスペインのブーツ

 「スペイン革のブーツ」がどういうやりとりの中で出てくるのかは、説明しない。自分で歌を聴き、詞を読んでほしい。それが、男と女の間に横たわる永遠の溝を象徴するものであることがわかるだろう。


 この歌は、ディラン自身のものより、1990年代に入ってつくられたナンシー・グリフィスによるカバーが好きだ。『Other Voices,Other Rooms』というアルバムに入っている。

 女性である彼女は、歌の登場人物の男と女を逆にして歌っている。それだけで、歌の世界は全く意味を変える。

 ちなみに、この演奏で控えめな、しかし印象に残るハーモニカを吹いているのは、ディラン本人である。


2026年3月4日水曜日

ジミー・ギャリソンの思い出

 



 アメリカ時間で今日3月3日は、ジャズ・ベーシスト、ジミー・ギャリソンの誕生日。彼は1933年3月3日生まれだ。「3」が並んでいる。

 ギャリソンとは、一度だけじかに話をしたことがある。1966年7月22日、ジョン・コルトレーンの来日公演の東京シーンをしめくくる有楽町ヴィデオホールでのオールナイト・コンサートがあった日だ。

 その日、ギャリソンは神保町にあったジャズ喫茶「響」にやって来た。事前にそのことを知らされていたのだろう、僕もその場にいた。ギャリソンは酒好きだった。それで、「響」オーナーの大木俊之助さんは熱燗の日本酒をふるまった。僕もご相伴にあずかった。すると、時刻が来て店を出ることになったとき、ギャリソンが僕に言った。「君も一緒においで、コンサートに」僕らは店を出て、タクシーに乗り込んだ。

 車中の会話がいまも記憶に残っている。風が強い日で、車の窓外にはゴミが吹き飛ばされていく様が見える。僕は言った。“Tokyo is a dirty city”瞬時に彼が言葉を返した。“Ooo! dirty?!”僕の言い間違いである。dirtyではなくdustyのはずだった。


血をにじませながらベースを弾く

 その夜のコンサートは凄かった。コルトレーンは小さな打楽器をいくつもいれた袋を手にステージに現れ、それら打楽器を叩きならしながらサックスを猛烈に吹いた。その背後にいるジミー・ギャリソンはといえば、これまた必死の表情でベースを弾く。ステージの直下の席にいた僕の目には、彼の手に血がにじんでいることがはっきりと見とれた。

 けっして健康体とは思えない、コルトレーンの疲れ切った表情とともに、その様子が60年経ったいまも記憶に鮮やかだ。事実、それから1年後にコルトレーンは逝った。


 コルトレーンの享年は40。あまりにも早過ぎる死だった。

 コルトレーンだけではない。バックをつとめたジミー・ギャリソンも早世した。彼が世を去ったのは1976年4月7日。わずか43年の人生だった。

2026年3月3日火曜日

20世紀音楽の死物語再スタート

 


 雑誌『CDジャーナル』の仕事をよくしていた頃だから2005〜10年あたりだろうか、CDJ編集部の某君と「ロック・ミュージシャンの死にざまをテーマにムックを1冊作らないか」という話がもちあがった。CDJとの縁が薄くなるとともに話はいつの間にか立ち消えとなったが、あるとき、ふとそのことを思い出し、同じテーマで自分のブログを作ろうと思い立った。2017年だったと思う。

 ロックだけでなくジャズもクラシックもその他民俗音楽も含めて取り上げるミュージシャンのリストを作ると、約100名になった。完走できるかなという疑問を持ちつつも書き始めると、キーボードを叩く勢いは快調そのもの。短期間のうちに25名ほどまで進んだ。

 しかし、物事には翳りがつきまとう。生来何をやっても長続きしない性格もあってだろう、マリア・カラスについて書く段となって、手の動きがぴたり停まった。伝記をいくつか読みそこから発想して文を作成していくという方法で進めてきたのだが、何冊伝記を読んでもマリア・カラスという人物の輪郭がイメージできない。笑い話めくが、彼女が美女であったかそうでなかったかといったレベルで判断不能に陥ってしまったのである。それが足止めとなり、結局はブログの更新停止が以後4年ほど続くことになる。


「20世紀音楽の死物語」、滑ったり転んだり

 2022年の春のある日、その頃日々通っていた八王子市南大沢図書館で特集テーマコーナーの開架に置かれていた1冊の文庫本の表紙が目にとびこんできた。和田誠・村上春樹両氏による『ポートレイト・イン・ジャズ』(新潮文庫)だ。瞬時思いついた、そうだ、肖像画イラストとの組み合わせでブログを仕立て直してみよう、山下セイジ君にお手伝い願おう。

 そうとなったら話は早い、すぐに山下君にメールを送って相談。快諾を得て、Wordpress上にサイトを作り、下準備。原稿はすでに以前のものがあるからイラストの出来上がりを待ち、2022年4月、ページはスタートした。


 作業は順調に進んだ。月に2〜3回のペースでページを更新。年をまたいで1年後の2023年4月、既存の原稿はほぼ使い尽くした。そして、ここでまた一波乱が起きる。

 連載30回目となる二村定一のテキストを送った4月末日、山下君から体調不良の連絡があった。様子見となってその1か月後、二村定一の肖像画イラストが送られてきた。しかし、不吉な文言が添えられていた。彼の体調不良はただの体調不良ではなく、肺結核の怖れがあるという。

 そして、怖れは的中した。6月、山下君は手術を受けるべく入院。それとともに、「20世紀音楽の死物語」も当然ながら更新ストップ。さらに、通常は平均3か月ほどと言われる彼の入院は6か月にまで延び、同時に退院を待つこちらもものを書くことができない精神のトラブルに見舞われた。ブログは停止状態を続け、翌年になって消滅した。


 そんな「20世紀音楽の死物語」ブログを、一昨日再開した。正確にはブログではなく、ここ数年広く注目を集めているnoteフォーマット上で。

 noteのエディターの操作に慣れないせいもあって、なかなかスピーディーにとはいかないが、しばらくは再構築を続けて行く。その結果がどうなるかは、全く予想もつかないが。


2026年3月2日月曜日

忘れられない手紙

 


 立花実さんの遺品の中に、数通の手紙があった。どれも、読者からのファンレターとおぼしきものだった。

 私信だから、本来なら中身を読むわけにはいかない。しかし、遺族からの依頼があって、その人たちへの連絡係をつとめることになった。そのためには、一通り文面に目を通しておく必要があった。

 なかで一通、とても気持ちのこもった手紙があった。十代後半の男性からのファンレターだった。どう書いていいものか迷ったが、「立花さんが亡くなりました」という内容の、単に事務的な手紙を書いて投函したはずである。

 ほどなく、返事が来た。これまた、十代という小生意気な年齢とはとても思えない、心のこもった手紙だった。文面はごく短く、「残念」の一言に要約できる種類のものだったと思う。しかし、読んでいると、行間から涙があふれ出ていると感じられた。

 こんな素敵な読者を持った立花さんの幸福を思った。それはまた、立花さんの真摯そのものの文筆活動の照り返しでもあったろう。


30年後に届いた新たな手紙

 あれは1997年の初夏だったか、雑誌『ジャズ批評』が「ジョン・コルトレーン没後30年」の記念特集をすることになり、僕のところへも珍しや原稿の依頼がきた。書きたいことはたくさんあったが、短い原稿なので、話題を1つに絞ることにした。立花さんはおそらく日本で一番コルトレーンの音楽を愛した人である。日本公演の際のエピソードにふれながら、こんな受けとめ方をした人がいたという文脈で、立花さんの文章を数行引用した。

 版元に原稿を送ったら、それきりで立花さんのこともコルトレーンのことも頭から消えてしまったのだが、掲載誌が街に出てしばらくした頃、見知らぬ人からの手紙が舞い込んだ。Yさんという署名があった。その名前に記憶はなかった。

 読み始めてすぐに思い出した。立花さんの遺品にあった、あのファンレターの主だった。あれから29年、もうジャズを聴くことはなくなった。しかし、あの頃読んだ立花さんの文章はいまも忘れられない。それにひきかえ現代は、そういう人の心深く語りかけてくる書き手のいない時代になった……そんな意味のことがつづられていた。

 Yさんもまた久方ぶりにジャズの雑誌を手に取り、そこに僕の名を見つけて手紙をくれ、それが雑誌の編集部経由で届いたのだったが、読み終えて、熱い感情がこみあげてきた。いまさら、立花さんの死を惜しんでもしかたがない。それはわかっている。しかし、そうでありつつ、こういう読者に応えることのできる書き手や音楽ジャーナリズムが乏しくなった時代に歯ぎしりする思いがした。


 Yさんの現在のお仕事は、ピアノの調律師だという。手紙には、思わず頬のゆるむ楽しい一文があった。いわく、調律師になってから、50〜60年代のジャズ、ことにライブ盤は聴けなくなった。なぜなら、あの頃のジャズ・クラブのピアノはどれも見事に調律が狂っていて、聴くこちらの神経がおかしくなる。

 言われてみると、たしかにそうである。例えば、バードランド。例えば、ヴィレッジ・ヴァンガード。そういった有名ジャズ・クラブで録音されたピアノは、揃いも揃って摩訶不思議な音がする。その典型はコルトレーンの『ライブ・アット・バードランド』だろう。

 しかしながら、実際のところは、そういうものの中にこそ名盤のほまれ高い作品が多かったりする。一例としてすぐに思い浮かぶのが、メモリアル・アルバムを含めて3枚出ている『ファイヴ・スポットのエリック・ドルフィー』シリーズである。


 録音は1961年。トランペッターのブッカー・リトルの急死のために短く潰えたクインテットでピアノを弾いているのは、マル・ウォルドロン。このピアノの音がなんともいいようがないほどに独特なのである。

 ピアノというのは、ギターやサックスとは違って演奏家が自分の愛器を持ち歩くことのできない楽器だが、では、多数のピアニストが共用するクラブのピアノが皆同じ音を発するかというと、そんなことはない。ピアノの音色は、弾き手によって見事なまでに変わるのである。

 この録音に親しんでいた頃はだから、マル・ウォルドロンはなんと不思議な音をピアノから引き出す人だろうと思いこんでいた。言葉で説明するのは難しいが、ピアノのハンマーからフェルトを取り去ったような、金属質の音。それがピアノを打楽器のごとく扱い、横に流れるのではなく上下運動を繰り返すようにしてフレーズを刻んでいく彼のスタイルをよけいに引き立て、ミステリアスな空間をつくりあげる。

 彼はしばしばペダルを踏みっぱなしで演奏したりするが、それもおそらくは調律の狂ったクラブのピアノに業を煮やしたあげくのことだったのに違いない。彼だけではなく、当時のジャズ・ピアニストは皆ろくでもない楽器と苦闘するようにして演奏活動を続けていたのだろう。


 しかし、その時代のジャズには、環境が何もかも整った現代には求めにくい、狂おしいまでの激しい心の動きがある。それがドルフィーの『ファイヴ・スポット』やコルトレーンの『ライブ・アット・バードランド』などの傑作を生んだ。

 環境の貧しさを賛美するわけではない。しかし、聴き手が少数だろうと、会場の音響が悪かろうと、楽器が不備だろうとひるむことなく大胆な表現に挑戦し続けた彼らの姿勢には、あらゆる音楽の魅力の源泉となるものがいまも潜んでいるはずである。

2026年3月1日日曜日

忘れられない人

 


 首都圏ではちょうど今頃、春のように暖かい日が続いたかと思うと、突然冬に逆戻りすることがある。そんな気候の日々、不意にある人物のことを思い出す。その人の名を、立花実という。

 立花さんは、あえて職種で分けるなら、ジャズ評論家だった。「あえて」というのは、僕にとっては年長のジャズ喫茶仲間であり、先輩であり、師匠であると同時に、あまり原稿を多くは書かない文筆家であり、さらに言えば「非難がましい言説はあまり弄することなくひたすら音楽家の美点を称揚した」という意味では「いわゆる評論家」の部類には属さない気がするからだが、しかし基本的にはまぎれもない「文筆の人」だった。

 それではなぜ思い出すのが今頃なのかといえば、これははっきりしている。僕の記憶にある氏の残像が、こんな季節のそれだからである。冬、立花さんはいつだってあまり高級ではないジャンパーを着て、寒そうにしていた。いまになってみれば、それはきちんとした食事をとっていなかったせいではないかと思うが、一杯のコーヒーをあれほど美味しそうに飲む人もなかった。そして、コーヒーを口にふくんで一息つき、ジャズの音に耳をすますと、氏の眼には春の光があらわれる。

 最後に会ったときの、憔悴しきった表情が記憶の底から浮かんでくる。ある夜、氏は酒に深酔いして道に倒れ、鞄を盗まれた。資料やメモがごっそり入った、氏の最大の財産だった。年少の僕に、氏はうなだれたままそのことを語ってくれた。


 氏が故郷仙台の広瀬川で入水自殺をとげたのは、それから間もなく、1968年3月のことである。理由は知らない。あの鞄のせいかもしれない。あるいは、僕にはそっと話してくれた失恋のためかもしれない。葬儀からしばらくあとになって訪れた実家でうかがった話では、その夜、氏の机の上には、テイヤール・ド・シャルダンの『現象としての人間』が読みさしのまま置かれていたという。死に至るヒントはその中に書かれているのかもしれない。


眼に浮かぶ春の光

 立花さんから教わって魅力を知った音楽家は何人もあるが、その中から1つだけ選べば、やはりカウント・ベイシー楽団を挙げなくてはならないだろう。ジョン・コルトレーンを中心に新しい動き、若者の挑戦を常に高く評価した氏は、一方では古いもの、伝統的なものの価値を忘れない人でもあった。ベイシーを語るとき、氏の眼にはやはり春の光があった。

 僕が実際にベイシーの魅力を知るのは、それからさらに長い時がたってからのことになるが、それは「ティックル・トゥー」という1曲に始まり、その1曲に尽きている。ベイシー楽団の素晴らしい演奏は、もちろんほかにもたくさんある。しかし、僕にとってのベイシーは、何はどうあれこの1曲できまり、なのだ。

 家でアナログ盤が聴けなくなってから、この曲のことは長いこと忘れていた。たまたまTVで50年代のベイシーの演奏を記録した短いフィルムを見る機会があって、思い出した。それで、CDを探してきた。


 50年代のベイシーも悪くはないが、30〜40年代のこの楽団には「黄金時代」という形容がぴったりの、燦然と輝く魅力がある。「ティックル・トゥー」もまた、レスター・ヤングがいた時期、1940年の録音である(CD『this is jazz Count Basie』)。

 この曲の魅力を言葉で語る自信はない。ジャンプするようなリズムに乗って、バンドの音が揺れるがごとく動く。ソロ、ことにレスターのそれの素晴らしさ。楽器によるみごとな歌。そして、炸裂するアンサンブルの華麗な音。全盛時代のエリントン楽団もそうだが、単純なメロディーをユニゾンで吹いてもそこに尽きることのない魅力が感じられるのは、一人一人の音色が微妙に異なっていて、それが響きの深さを生んでいるからである。これぞジャズ、うん、まさにそうだ。


 立花さんのお墓参りをしたのは、いまから50年近く前である。お墓は仙台市からバスでかなり長時間行ったところ、自然に囲まれた閑静な斜面の墓地にあった。

 宿を出るときは晴れていたのに、お墓の前で手を合わせていたら、不意に雨になった。冷たい雨だった。僕と妻は、しばらくの間、じっとその雨にうたれた。

 「ティックル・トゥー」を聴いていると、なんの関係もなく、そのときの雨のにおいがもどってくる。


2026年2月28日土曜日

明治人の顔、現代人の顔

 


 岡本綺堂の随筆集『綺堂むかし語り』を読む。

 綺堂の随筆をまとまった形で読むのは久しぶり。半七捕物帳についてちょいと知りたいことがあってページを開いたのだが、そもそもの目的はどこへやら、関係のない話にずんずん引き込まれた。


 「獅子舞」という、ごくごく短い一篇がある。綺堂がまだ子供だった頃、町内に宮内庁に勤める人があって、その人は毎年正月になると本物の獅子舞(これは5〜6人の集団で、踊りをつけたりかなり大がかりにやったものらしい)を呼び入れ、そればかりか近所の子供を邸に呼び入れて見物させたという話である。

 30年住み続けた東京麹町の元園町の来し方をふりかえりつつ綺堂は書く。

「元園町は年毎に栄えてゆくと同時に、獅子を呼んで子供に見せてやろうなどと云うのんびりした人は、だんだんに亡びてしまった。口を明いて獅子を見ているような奴は、いちがいに馬鹿だと罵られる世の中となった。眉が険しく、眼が鋭い今の元園町人は、獅子舞を見るべく余りに怜悧(りこう)になった」


 これが書かれたのは、明治40年代である。現代のわれわれにはただ想像してみるだけの遠い昔だが、その頃すでに東京の町で暮らす人々の顔つきは相当にけわしくなっていたことがわかる。綺堂は明治5年の生まれだが、外見はともかく内面的には江戸人そのものだった明治20年代頃までとそれ以後の東京人の間にある否定しがたい変化を、彼はそこに見ているのだろう。

 これを現代に移しかえれば、昨今の東京人の顔つきなど、おそらくは綺堂が見たら、ほんの一瞥、卒倒しかねないだろうという気がする。


 騒々しくてめまぐるしい、何をするにも金のかかる現代がそこに投影しているわけだが、これはただ生きていくだけでものすごく疲れる時代である。なんとか耐えてはいるが、ときには暴発しそうになる。最近アメリカで連続している無差別乱射事件犯の心理は、案外このわれわれの内側にも潜んでいるのではないか。

 しかし、疲れたらどこかに逃避するしかない。さしあたって手軽に見つけられる逃避先は、古い時代の音楽だろうか。


古楽という新しい音楽

 すっかり無気力になっているくせになぜか気分だけがいらだつとき、この頃きまって聴くものの1つに、クリストファー・ウィルソンの『ダラクィラ/ダ・クレマ:リチェルカーレ集』(Naxos)がある。16世紀イタリアのリュート曲を集めたもので、囁くような静かな響きが耳に心地よい。

 リュートは演奏時間より調弦時間のほうが長いといわれるほどに狂いの激しい楽器で、しかも小さな音しか出ないために音楽の表舞台から姿を消した。しかし、そのマイナスの特性が騒がしい現代にはプラスに転化する。


 この音楽はまちがってもボリュームを上げて聴いてはいけない。小さな音に寄り添うようにして聴く。すると、そこだけは澄みわたった空間が自分の中に少しずつ広がっていくのが、確実に体感できるだろう。

 古楽は現代人にとっては時空を超えて届く「新しい音楽」である。


2026年2月27日金曜日

ジャズ最終章のだいご味

 


 1週間前、稲毛図書館で見つけて一部分を読んだ『小野好恵/ジャズ最終章』をあらためて取り寄せ、読んだ。まだ全体を読み通したわけではないが、満腹感がある。まさしく充実した読書体験と言っていい。

 1998年3月に深夜叢書社から発行された1冊だが、書名の「最終章」が意味深い。発行の2年前6月に著者の小野好恵が物故しているからだが、それだけではない。Ⅰ・Ⅱ章を読めばはっきりつかめるが、これは60年代に時代をリードする祝祭として爆発したジャズが、70年代が進むにつれてそのリアリティを失っていった時代経過の記録だからだ。

 「渡邊香津美 あるいはテクニックのアナーキズム」と題された一文の中で著者は言う。「ジャズは死んだ。いや〈ジャズ神話〉は死んだ。この悲痛な認識から始めるしかない。そして、だからこそ〈自由の王国〉だったジャズの蘇生を熱烈に願わずにはいられないのだ」

 そう、この本は、ジャズが時代精神の推進力を失っていった経過を記す野辺送りの歌なのである。


 60年代後半に日本ジャズを革新した山下洋輔トリオについてのエッセイの中に印象的な記述がひとつある。「この頃は、ジャズ・ジャーナリズムは、彼らを無視しており、少数の優れた批評家である油井正一、相倉久人、平岡正明などが支持したにすぎなかった。しかし、当時、二十歳前後だった私たちは、口コミで山下トリオや阿部薫の素晴らしさを伝えあった。他の領域の表現者には支持者が多かった。たとえば粟津潔は『山下洋輔トリオは、始めからオリジナルだった。すごい連中が登場したと思った』と後に書いている。

 しかし、ジャズ・ジャーナリズムの無理解な人々は、彼らの演奏をデタラメだ、これはもはや音楽ではないと非難した。彼らは後にほとんどが評価を変えている。山下トリオがヨーロッパ遠征で圧倒的な成功を収めるとともに」

 当時のジャズ・ジャーナリズムの退廃が、この一言に語り尽くされている。


先端的なジャズへの共感の共有

 著者の小野好恵さんとは一度だけ同じ場に同席した記憶がある。主役が誰だったかは思い出せないが、東銀座にあったジャズ喫茶「オレオ」でしばしば開かれたレコード解説会の夜だった。主役は白石かずこさんだったかもしれない。

 解説会終了後の懇談の中で言葉を交わした。何を話したかはもう覚えていないが、時代を率いる先端的なジャズへの共感を共有できた記憶がある。

 小野さんはいわゆるジャズ評論家ではなかったが、平岡正明氏同様、文筆家としてジャズ評論に大きく関わった。先のジャズ・ジャーナリズムとの比較でいえば、外野にあって最もジャズの渦の中心に近くいた人なのだとあらためて思える。

 小野さんの死去は1996年6月23日午後3時36分。舌癌を患い、3年間闘病生活を送っての最期だった。入院を拒否し、自宅で迎えた死だったという。

2026年2月26日木曜日

漢詩を読んで、マーラーを聴く

 


 20代に入ってまもない頃から、漢詩が好きだった。実をいえば、いまもって詳しくはない。けれど、やはり好きである。ことに、陶淵明や寒山の詩は飽きることがない。

 例えば、陶淵明のあまりにも有名な「園田の居に帰る」。「其の三」にある

  晨(あした)に興(お)きて荒穢(こうあい)を理(おさ)め

  月を帯び鋤を担いて帰る

という一節からは、何度読み返しても「生活とはこのことだ」という思いがふつふつと湧いてくる。

 あるいは、寒山のこれまた有名な詩の一節。

  群女 夕陽に戯むる

  風来って満路香わし

 夕日を背景に遊びたわむれる乙女たちの何気ない光景。風とともに漂い来るかぐわしさ。「生活の中にあるべきゆとりとは、本当はこんな瞬間のことだ」という思いに駆られないではいられない。


 よく知られているように、陶淵明は自らの死を想定した挽歌で、

  但だ恨むらくは 世に在りし時に

  酒を飲むこと 足るを得ざりしを

と、うたった。生きている間に酒を存分に飲めなかったことだけが心残りだ、というのである。

 いったいに、中国の詩人たちは酒好きである。酒好きというより、生きることは常に酒とともにあり、とでも言うほうが真実に近い。


マーラーのシンフォニー『大地の歌』

 グスタフ・マーラーのシンフォニー『大地の歌』は、李白その他の中国の詩人たちの詩とともに展開する。全部で6つの楽章からなるこの曲中でも白眉といっていい第1楽章では、テノールが李白の詩をこう歌う。

  さあ友よ、盃を持て!

  金色に輝く酒を

  いまこそ飲み干すのだ。

  生は暗く、死はまた暗い!

 マーラーは、死の恐怖にがんじがらめになって晩年を生きた人である。彼が漢詩をどれだけ読んでいたかは知らない。しかし、狭心症の発作の直後にこの惜別の作品を書いていたとき、彼の心の眼に漢詩の虚無――それはいってみれば「明るい虚無」だ――がひたひたとしみこんできただろうことは想像に難くない。


 マーラーはあまり好きではないが、この曲、というよりワルター指揮ウィーン・フィルの1952年の録音(英デッカ盤)は素晴らしい。コントラルトの名花キャスリーン・フェリアーも素晴らしいが、ことにテノールのユリウス・パツァークが素晴らしい。

 パツァークは声量に乏しい人だったそうである。そのパツァークが、ここではその声量の乏しさゆえにリアルそのものの歌唱を展開する。これを声量の豊かな歌手が朗々と歌ったのでは、逆にさまにならないはずである。

 もっとも、マーラーのオーケストレーションのダイナミズムは、いま聴けばホラー映画かアクション映画の背景音楽としか感じられないだろう。ウィーン・フィルの演奏はこれ以上ないほどの見事さだが、強弱を意図しすぎたオーバーアクションは現代の感性にとっては滑稽すれすれとなる。

2026年2月25日水曜日

音楽とうまいもののとりあわせ

 




 企業が集中する地区には、早朝から営業している飲食店が多数ある。いうまでもない、家では朝食がとれないサラリーマン目当ての店である。

 渋谷のハチ公口から宮益坂へ抜けるガード下にもその種の店が何軒かあって、うち1軒のラーメン屋は舗道上にテーブルセットを2つ置いている。渋谷に事務所があった頃、僕は毎朝そこを通り抜けていったのだが、おそらくは深夜からの仕事を終えた人たちなのだろう、餃子なんぞをつつきながら生ビールを飲んでいる光景をしばしば見かけた。朝の9時20分前後のことである。

 根が食いしんぼうだからよけいなのだろうが、あれほどうまそうに見える餃子とビールはなかった。なにしろ、こちらは出勤の途中なのである。「できれば仲間に入れてもらいたいなあ」と思いつつその人たちをちらりと眺め、足早に過ぎ去る。ほどなく事務所に入った僕は、顔をしかめながら渋茶を1杯飲んだものだ。


 それから20年。いまもってその店に入って、めしを食ったことはない。ないけれど、特別うまい料理を出すような店でないのは、構えを見ただけでわかる。どこにでもあるようなラーメン屋である。しかも、東京というのは、「高くてまずい店」に「安くてまずい店」を足したような環境の街だから、「安くてうまい店」に当たる確率はおそろしく低い。

 しかしである、ものの味なんてものは時と場合によって大いに変わるものだ。夜通しの仕事のあとの餃子とビールがうまくないはずがない。いや、うまいに決まっている。


 首都圏での暮らしはかれこれ70年ほどになるが、「音楽にからんで記憶に残っている味」というのがいくつかある。1つは、新宿のアカシアのロールキャベツ。まだ20代だった頃、ジャズ喫茶からジャズ喫茶へとはしごする途中、よく食べた。少し塩味のきついロールキャベツだったが、安くてうまかった。皿の隅にちょこんと載っていたつけもの(福神漬けだったか?)がこれまた美味だった。

 最近になって、そのアカシヤがいまだに健在であるのを、あるテレビ番組で知った。もう何十年も入ったことはないが、画面で見るロールキャベツは昔と同じように見えた。店内にたくさんいた若い人たちに、昔の自分の記憶がぴたりと重なった。



 もう1つ、やはり新宿のおでん屋、お多幸の茶飯も忘れられない。ここは、60年代末から70年代初頭、ピットインで山下洋輔トリオを聴いたあとによく入った。興奮さめやらぬままに仲間たちと談論風発、熱燗の日本酒をたっぷり体内に流し込んだあとの茶飯は格別な味がした。


山下トリオを聴いた日々の古楽

 ……というようなことを書きながら、実はモーツァルトを聴いている。イタリアの女流バイオリニスト、キアラ・バンキーニ率いる古楽器グループ、アンサンブル415が演奏する「ト短調五重奏曲 K.516」(仏ハルモニアムンディ HMC901512。現在廃盤)である。

 この曲の最初の記憶は、さっき言った洋輔トリオに夢中になっていた日々にさかのぼる。週に一度のライブだけでなく、爆発するフリージャズをジャズ喫茶で連日のごとく浴びるこちらの心の隙間をつくように静かにしかし確実な浸透感をもって入り込んできたのが、この曲だった。とにかく、美しくて、哀しくて、この世のものとは思えないような「天上の音楽」である。


 当時はもっぱらアマデウス四重奏団の演奏を楽しんでいたが、CDには復刻されなかったらしく、いくら探しても見つからない。いくつかのグループの演奏によるCDを何度か買い、失望を繰り返したあげくにたどり着いたのが、このアンサンブル415による録音だった。

 古楽器独特の渋い音色は、この曲のミステリアスなムードを一段と盛り上げる。しかも、速めのテンポで演奏されているのがまたいい。曲の成立こそ古いが、そこから届いてくるのはまさしく現代人による現代人のための、現代の音楽である。

 聴いていると、いつか、イタリアの小さな店で土地の料理でも味わいながら彼女らの演奏にふれられたらいいのに……と、ひとりごちたりする。

 ちなみに、松平維秋が世を去ったあと、喪失感に悩む松平洋子さんにこのCDをプレゼントした。毎日泣きながら聴いて、心のバランスを回復できたとの連絡が、後日あった。26年前のある日のことだ。


2026年2月24日火曜日

岩波ホールのジャズ音楽講座

 


 20日金曜の稲毛・フルハウスでの会合のあと、60〜70年代に経験したことが次から次へとよみがえってきた。その1つに1969年か70年に岩波ホールで開催した「ジャズ音楽講座」がある。

 岩波ホールの当時の総支配人・高野悦子さんの発案で生まれたイベントだが、イベントの中身を構成したのは当時岩波書店の社員だった僕。「書店にジャズに詳しいやつが一人いる」と誰かが高野さんの耳に入れ、それで企画のまとめに参加した。

 イベントのメインプログラムには、山下洋輔さんによる「ブルー・ノート研究」のピアノ実演付解説を置いた。「ブルー・ノート研究」は1969年の春に雑誌『音楽芸術』に2か月にわたって掲載された論文で、黒人音楽独特の音であるブルー・ノートについての論究は以後も全くない唯一無二のものだ。楽典の知識がない僕のような者にはいまひとつ理解ができず、そのこともあってピアノを弾きながら解説してもらえないかと山下さんに直接お願いしたのだった。

 印象的な1シーンがある。「ブルー・ノート研究」解説の締めの部分だった。山下さんが突然傍らに置かれたピアノを指さして言った、「このがさつな楽器!」。平均律の権化ピアノではブルー・ノートが弾けないことを揶揄する一言だった。


植草甚一さんの思い出

 イベントのもう1つの柱パネルディスカッションのメンバーの一人に植草甚一さんがいた。その植草さんをめぐって、これまたいまも記憶から去らない印象的な1シーンがある。

 僕はイベント実施の責任者の一人であるから、当日はイベント開始時刻の2時間ほど前からホールの入口に立って出演者を待ち受けていた。開始時刻間際になって、植草さんが姿を現した。と思うと、植草さんは階段を駆け上がってくる、大声で叫びながら。「岩波は原稿料が安い、安い!」その手には、植草さんのエッセイも掲載されているこの日のプログラムがあった。

 植草さんとは格別懇意にしていたわけではないが、いまも記憶に残るおつきあいがいくつかあった。あれはキャノンボール・アダレイの来日公演だったろうか、終演後のロビーでお見かけし、神保町のジャズ喫茶「響」へお連れしたことがあった。植草さん愛用のスピーカーを譲り受けた「響」の常連客高野君が一緒だったと思う。というか、植草さんと旧知の高野君がその場にいたから植草さんと話ができたのだった。


 植草さんと「響」にいたのはものの1時間ほどだが、そのあと一緒に店を出、神保町界隈の古書店をめぐることとなった。植草さんの趣味である古書店歩きのお供である。

 いくつかの古書店を覗いて最後に行ったのは、古書店街から少し離れた駿河台の坂の途中にある書店だった。アメリカのペーパーバックの古本を大量に在庫している店で、店名は川村書店だったろうか。

 店の入口には廉価で放出する本をいれたワゴンがあった。植草さんはそのワゴンに手を入れ、物色する。ほどなく1冊の本を取り上げた。そして言う「これは掘り出し物だ。君が買え」

 店の奥へ行って、代金を払った。そして、店を出る。そのとき、植草さんからまたも一言があった。「悪いけど、この本は僕が預かっておくよ。いいね」早い話が強奪である。

 いまとなっては、何だか幻のようにも思える1シーンだ。

2026年2月23日月曜日

『ワンダーランド/宝島』創刊の頃

 




 老齢になると、日々の思いは過去へ過去へと遡る。昨日ミラノ/コルティナの冬季オリンピックをテレビで見ていて思い出したのが、雑誌『ワンダーランド』(のちの『宝島』)創刊当時のことだった。

 創刊は1973年。その準備として東京は渋谷区神宮前に編集室ができたのは、その前年1972年の冬だった。つまりは、冬季オリンピック札幌大会の年。で、ある日、編集室に集まった面々で女子フィギュアのテレビ中継に見入っていたのだが、そのときひとりの女性が入ってきて言った。「おい、男ども。みんなスケーターのお尻ばかり見ているんじゃないの。いいかげんにしなさいよ」

 声の主は高平哲郎氏の奥様。どっと笑い声が起こった。


校正マンとしての現場で

 『ワンダーランド』はそもそもは米音楽誌 "Rolling Stone" の日本版をという企画が紆余曲折あって純粋に和製の文化誌(サブカルチャー誌)として誕生した雑誌である。責任編集は植草甚一。ただし、これはあくまでも看板であって、実際に編集を仕切ったのは片岡義男、津野海太郎の両氏だった。版元は晶文社。しかし、書籍出版が本業の晶文社には雑誌を継続発行するだけの資金的余裕はなく、3号から誌名を『宝島』に変えてのち、6号をもって力尽きる。雑誌は片岡、津野両氏を除く編集部ごとJICC出版局(現在の宝島社)に譲渡された。

 僕はそんな『ワンダーランド/宝島』の1〜6号に寄稿者兼校正マンとしてかかわった。そうして、校正マンとしての仕事で忘れられない1シーンがある。


 『ワンダーランド/宝島』はタブロイド判の大判雑誌で、本文の書体は新聞明朝。組版は一般の印刷会社ではなく日刊スポーツ新聞社で行われた。日刊スポーツには業界紙などの組版印刷を請け負う部署があり、どういう経緯かはわからないが、『ワンダーランド/宝島』も製作はその部署にゆだねられたのだった。

 完全デジタル化されたいまはいざ知らず、当時の雑誌編集では校了間際に印刷所で出張校正をするのが決まりだった。日刊スポーツ新聞社には20人ほどが作業できる広々とした校正室があり、そこで最終校正をした。

 そんなある日の出来事である。届けられた校正紙に目を通していると、突然罵声が響きわたった。続いて体をぶつけてもみ合う音。最後は乱闘となった。

 日刊スポーツ新聞社に組版印刷を委託する多くは、政治系・宗教系の新聞等のミニメディアだった。その日は、たまたま右翼系、左翼系の新聞編集者が同席した。それで大騒ぎとなったのだった。

 令和8年現在では考えられない、遠い情景。

2026年2月21日土曜日

稲毛のホットスポット・フルハウスの夕べ

 


 20日日曜、午後2時に家を出て、稲毛へ。夕方からの会合に招かれたからだが、予定の4時まではまだまだ間があるので、稲毛図書館を覗く。理由あって前々から一度行きたいと思っていた図書館だ。

 一歩入って、びっくり。日頃利用している花見川団地分館のざっと4倍はあろうかという広さだ。千葉へ移ってくる前は八王子の南大沢図書館を利用していて、その広さと蔵書の数を懐かしく思い出すことが多かったが、稲毛はそれよりも広い。

 芸術書のコーナーで1998年に深夜叢書社から出た『小野好恵/ジャズ最終章』を見つけた。館内窓際に置かれたスツールに座って読んだ。


2年ぶりのフルハウスで

 午後4時、稲毛駅前の老舗ロックバー、フルハウスに入る。麻田浩さんのトークショーがあった一昨年の3月3日以来だから、ほぼ2年ぶり。入口にある「OPEN」のネオンサインが何やら懐かしい。


 会合をセットしてくれた増田和彦、松澤明彦のお二人がすでに来ていて、丸テーブルに移る。そのとき気づいた、耳管開放症の薬を持ってくるのを忘れたと。ひどいことになりそうだという予感がする。そして、予感は的中した。

 まずはご挨拶だが、お二人の言葉が聞き取れない。内心困ったなと思っていると、そこへ柳澤洋平君が着。彼の挨拶がこれまた聞き取れない。仕方がないので、耳元に手をやり、補聴器のボリュームを上げた。耳管開放症には無力だが、割れた音のままであっても音量は増す。話す人の顔を正面から見るようにして、なんとか会話に加わった。

 柳澤君は、1977年にローリング・ココナツ・レヴューを開催したドルフィン・プロジェクト・ジャパンの仲間である。当時の彼は第一ホテルに勤務していて、ドルフィンの会議が深夜まで長引いたときに何度か無料で泊めてもらったりした。彼と会っていると、自然にその頃のことに思いが飛ぶ。「感謝、感謝」と内心でつぶやいた。

 ローリング・ココナツの話題から、話はあの頃の音楽シーンのもろもろへと流れる。渋谷百軒店のブラックホークやBYG、風都市とショーボート・レーベル、はっぴいえんどと岡林信康、その他その他。ビールを口に運びながら、過ぎた時の長さをつくづくと感じた。

 7時近くになって、フルハウスを出る。

 この店ではしばしばトークショーやDJイベントが開かれる。少し先には室矢憲治や小倉エージのショーが予定されているらしい。

 帰りの電車の車中、その二人の名から不意に思い出したことがある。あれは1970年、三一書房の編集者Tがボブ・ディラン論集なるものを企画した。複数の筆者による共著で、その顔ぶれは前記の二人に加え、北中正和そして僕。全員で集まった記憶はないが、北中氏と親しくなったのは、この企画がきっかけではなかったか。

 最終的には肝心の原稿は僕の分しか出来上がらず、企画はお流れとなってしまうのだが、僕自身の原稿は、当時北中氏が編集部の一員だった雑誌『ニューミュージック・マガジン』に掲載された。それは、僕のロック・マガジンへのデビューとなった。

 遠い、遠い昔の話だ。

2026年2月20日金曜日

器と機――蓄音器と蓄音機

 


 岩波文庫から出ている寺田寅彦の『随筆集』第二巻に、「蓄音器」と題された一文がある。母親が亡くなってさびしがってばかりいる子どもたちのために銀座の楽器店だかで蓄音器を注文した、という内容のお話だった。

 いうまでもなく電蓄(電気式蓄音機)ではなくてまだ手動式、それも家計が豊かな家でなければ買えない時代に書かれたものだが、蓄音器が届くのをいまかいまかと待ちわびる子どもたちが道路に出ては様子を確かめる情景が、まるで映画の一こまのように心に残っている。記憶するところでは、蓄音器は風呂敷につつまれ、店員の手で運ばれてきたのではなかったか。

 寺田寅彦の時代とは違って、第二次大戦後、特に1960年代のはじめからは17cm径の小さなターンテーブルを持つ簡易方式の電蓄が一般家庭にも急速に普及していくことになるのだが、わが家にはじめてレコードの再生装置が来た日のことはいまでもよく覚えている。1947年生まれの僕が中学1〜2年だった頃のことで、機械マニアの親類の者が置き場所がなくて預けていったのだった。


 当時すでにステレオ録音が始まっていたはずだが、家の床の間風のスペースに鎮座ましましたのは、モノラルの装置だった。アンプは真空管方式。そのアンプは、20cm径のシングル・コーンのスピーカー・ユニット(パイオニア製)がおさめられたどでかいエンクロージャーの上に載せてあった。「最初はラジオにこのスピーカーを無理矢理つっこんだんだよ。そしたら、音が出てくるとラジオがカタカタ踊り出しやがるのよ」と、親類の者が笑いながら言っていたっけ。


置かれていった2枚のシングル盤

 ソフトのないコンピュータと同じく、レコードのないオーディオも当然ながらただの箱、それも狭い家には邪魔なだけの箱である。だから、親類はレコードを2枚だけ置いていってくれた。どちらもシングル盤で、1枚はイヴェット・ジロー、もう1枚はマリアン・アンダースンだった。そのうち、後者は、僕にとっては、アメリカの黒人の歌い手とのはじめての本格的な出会いになった。


 マリアン・アンダースンは、ソウルやジャズの歌い手ではなく、オペラ歌手である。ニューヨークのメトロポリタン・オペラハウスの舞台に立った初の黒人歌手であり、声域はコントラルト。オペラのプリマドンナとしては本来損な声域でありながらスターダムにのぼれたのは、よほどの才能があったからにちがいない。


 いま、手元にはCDの時代になってから再編集されたディスクが1枚あるが、ノイズ混じりのひどい録音状態でも、その魅力ははっきりつかめる。おさめられているのはシューベルトのリートなど短い曲ばかりだが、とにかくはりつめたような緊張感に満ちた声が生々しい。そして、妙な言い方だが、黒人独特の「太い声」なのである。

 その太い声は、なかでも黒人霊歌を歌う際に圧倒的なまでに生きてくる。静かな、しかし力強い声を堪能していると、やがてはジェシー・ノーマンにまで引き継がれていく「黒いプリマドンナ」の道筋が見えてくる。

2026年2月18日水曜日

藤井暁君と電話の関係

 

 電話を使うことがほとんどなくなった。廃業とともに仕事上の電話連絡がなくなったせいだが、それに耳の病が加わり、電話での会話そのものが不自由になった。スマホでインターネットにアクセスすることはほとんどないので、毎月8,000円ほど払っているauのアカウントは無駄でしかない。

 振り返ると、二十代の頃はいまでは考えられないほどの電話魔だった。もっぱら深夜だが、1時間を超える長電話はざら。酒が入った状態で電話することが多く、電話の途中で眠ってしまったこともある。後日、えらく怒られたなあ。相手は、新宿「酩酊浮遊ぷあぷあ」で働く外間三枝子さんだった。


 もっとも長時間の長電話をした相手は、浅川マキさんだった。この場合は、こちらから電話をかけたのではない。電話は深夜1〜2時にマキさんからくる。そして、話が始まると、ゆっくりではあるが、マキさんの声は止まらなくなる。最長3時間話した記憶がある。

 では、何を話したのかというと、話は単純。もっぱら音楽の話だった。あちらはご本人の音楽体験を、こちらはお薦めのミュージシャンやディスクをだらだらしゃべり続けた。「日本の音楽状況って、やっばり貧しいよね」というのが、マキさんのいつもの止め言葉だった。


片耳の電話は使わない

 その一方、親しくつきあっているのに、一度も電話で話すことがなかった人物がいる。レコーディング・エンジニアの藤井暁君だ。なぜか。彼は電話というものを一切使わない人だったからだ。

 その理由を尋ねたことがある。「電話の受話器は片耳でしょ。頻繁に使うと、片耳だけ悪くなるおそれがある。それは避けたい」と、彼は言った。見上げたものだ、まさしくレコーディング・エンジニアのプロフェッショナル。


 藤井君とは北中正和さんの紹介で知り合ったのだが、酒を呑まないのに忘年会などの酒席でよく顔を並べた。話し上手で、こちらをすっと引き込んでいく引力がある。京都出身だが、京都時代は喫茶店のマスターをしていた。そのときの客扱いの経験が生きていたのかもしれない。


 僕とウマが合ったのは、もうひとつ、互いに熱烈なMacユーザーだったことが大きい。Windows 3.0が出たときだから1990年だろうか、井の頭線渋谷駅の改札を出たところでばったり出くわしてパソコンの話になり、「Windowsを撲滅する会を作ろうよ」と大盛り上がりになったこともあったっけ。シンガーの平方亜弥子さんも一緒だったかもしれない。

 レコーディング・エンジニアとしての彼は、その平方さんのHaLoのアルバム『blue』『yellow』など数々の秀作を残した。その中でも特筆すべきは、フィンランドのアコーディオン奏者マリア・カラニエミの『トーキョー・コンサート』(Nordic Notes DHN-1052)だろう。アコーディオンによる川の流れのように自然な北欧のトラッド演奏が聴けるこれは、レコード会社と契約して録音されたものではない。カラニエミに惚れ込んだ藤井君が記録として残すために録った1作だ。縁あって商品化されたが、藤井君の私家盤というに近い。


 単にビジネスとしてレコーディングするのではなく、音楽を創造する側の一人として録音機材と真摯に向き合っていた彼の魂がこもった傑作盤である。


 ライブ収録は2004年だが、それから9年が過ぎた2013年11月25日、藤井暁は自宅の仕事部屋で遺体となって発見された。スタジオで収録した録音データの編集中に心臓発作に見舞われたのだ。

 録音の仕事に生きて生きぬいた藤井君らしい最期といっていいが、まだ50代。いくらなんでも早過ぎた。その1年ほど前、ジャズ系の新しいレーベルをスタートさせる話が出ていて、彼にレコーディングのチーフスタッフになってくれるよう依頼した。それが彼との最後の面会になった。その話をした渋谷の喫茶店トップ渋谷駅前店も、いまはない。

2026年2月17日火曜日

矢吹さんとやり残したこと

 

 

 100%スタジオのイラストレーター矢吹申彦さんのお姿をはじめて見たのは、1969年の冬、雑誌『スイング・ジャーナル』の編集部でだった。僕は当時の編集長児山紀芳さんに「うちの雑誌に書かないか」との誘いを受けて行ったのだが、編集部の隅にグラフィックの作業をするスペースがあり、そこに矢吹さんがいた。あれは何というのだろう、ごく浅いタートルネックで首元がボタン止めのグレーのセーターを着ていらした。アルバイトとして誌面レイアウトの仕事にたずさわっていらしたのだと思う。

 その2年後にはジャズではなくロックの雑誌『ニューミュージック・マガジン』の編集室で再会することになるのだが、そのときは想像もしなかった。


結実しなかった企画

 つかず離れずという言い回しがあるが、矢吹さんとはそういう関係だった。共通の友人に松平維秋がいたせいで、すぐに打ち解けたが、一定の距離は保たれたままだった。

 仕事の上での最初のおつきあいは1973年、風都市の「CITY-Last Time Around」プロジェクトにからんでだった。コンサートの告知ポスター、ソングブック、レコードジャケットでキービジュアルとして使うイラストレーションをお願いした。

 そのイラストを受け取った日のことが、忘れられない。もうすぐ仕上がるとの電話連絡があり、午前11時前後だったろうか、東北沢の矢吹邸を訪ねた。しかし、イラストは未完成だった。アトリエに入り、キャンバスに絵筆を走らせる矢吹さんの背後で待つ。1時間、2時間……昼食のカツ丼が運ばれてきた。食後、さらに待つ。1時間、2時間……「できたよ」という声が響いたのは、アトリエに入ってから6時間後だった。手抜きのできない、職人気質の人だった。



 その後、仕事の上でのおつきあいは絶えてなかった。二度目は、遅く2004年になってのことになる。ムック『風都市伝説』のカバーイラストを担当していただいたのだが、このときは描き下ろしではなかった。既存の作品を使わせてもらった。

 さらにそれから10年ほど経った頃、集英社新書で一緒に本を作る話が持ち上がった。企画はロックのアルバムジャケットのアンソロジー。ジャズのそれは複数出版されてきたが、ロックではない。矢吹さんがアルバムを選んでコメントを付け、それら素材を僕が編集するという役割分担で企画は決まった。


 最終的には、この企画が実現することはなかった。企画が決まってすぐにスタートするはずだった作業は、1年経っても全く動く気配がなかった。そしてそんなある日、「もうやめよう。ぼくは疲れた。大きな仕事をする余力はない」とのメッセージが矢吹さんから届いた。それで終わりだった。


 やがて2022年10月28日、矢吹さん逝去の訃報がネットを流れた。敗血症が彼の命を奪った。それは、ひょっとしたら再生するかもしれなかったいつぞやの企画の完全消滅の告知でもあった。

2026年2月16日月曜日

終わった人間

 


 日曜の昼下がり、花見川団地商店街の休憩スペースには多くの人の姿が見える。なかでも目立つのは、団地南の工場街で働く人たちだろう、中近東系とおぼしき顔立ちの男たちとその家族だ。日曜に限らない、夕刻を過ぎて家族そろって町中に集まるのが彼らの風習らしく、ほぼ毎日聞きなれない言語の会話が商店街を飛び交っている。

 その中に、こちらはれっきとした日本人だが、おそろしくみすぼらしい身なりの老人が一人いる。衣服はところどころにかぎ裂きが目立つ古着。足元は真冬でも素足にサンダル。さすがに寒さがこたえると見えて、背を丸めて椅子に縮こまっている。その姿からは、「終わった人間」という言葉が思い浮かぶ。

 バカにしているのではない。見下しているのでもない。一歩間違えれば、自分もまた終わりかけた人間になる、そんな気がするのだ。


海を越え、時代を越えて流れる歌

 1980年に死んだロシアのシンガー=ソングライター、ウラジーミル・ヴイソーツキイにそのものずばり「終わった人間」という歌がある。


 愛に胸塞ぐこともなく

 神経はもはや緊張を知らず、破りすてていい

 垂れ下った神経は、物干の紐のよう

 誰にも構わず、誰からも構われない


と淋しい心境を歌う歌は、次のように閉じられる。


 地球の引力と戦うことに疲れ

 横になる、その方が少し首つり輪から遠い

 だが心臓は、俺の外で鼓動しているのか

 そこへ行く時が来た、何もない所へ

 そこへ行く時が来た、何もない所へ

 (宮沢俊一訳)


 ヴイソーツキイの歌は暗い。それも、「激しい暗さ」とでもいうしかないような独特の暗さだ。しゃがれ声をたたきつけるように歌う彼は本来は舞台俳優で、歌にも劇的な筋立てをもつものが多いが、その暗さは1960〜70年代のソヴェトを生きた民衆の心の闇をみごとに浮かび上がらせる。

 あくまでも激しく生き、やがて心臓発作に倒れた彼の歌は深い影となって海を越え、時代を越え、「不自由なソヴェト」とは違って自由を謳歌しているはずのここ日本を死んだような目でさまよう「終わりかけた人間たち」の頭上をそっと音もなく流れていく。

2026年2月14日土曜日

再び死ぬのにとてもよい日、死ぬのにもってこいの日

 


 午前10時、日課となりつつある花見川図書館花見川団地分館へ。読む必要のなくなった文庫本を1冊返却して、書架の間に移る。最近はあまり見なくなった翻訳書のコーナーを覗く。すると、書架のやや下段に置かれた1冊の本の背表紙が目に飛びこんできた。『今日は死ぬのにもってこいの日』。表記は少し異なるが、1月3日、このブログへの最初の投稿でふれた、プエブロ・インディアンの老人の詩の標題ではないか。

 あわてて貸出の手続をした。


 家に帰って、せわしなくページを繰る。巻頭から4分の1ほど進んだページにくだんの詩が載っていた。しかし、翻訳者が別なのだろう、詩文は少し異なる。


今日は死ぬのにもってこいの日だ。

わたしの土地は、わたしを静かに取り巻いている。

わたしの畑は、もう耕されることはない。

わたしの家は、笑い声に満ちている。

子どもたちは、うちに帰ってきた。

そう、今日は死ぬのにもってこいの日だ。


 本自体の著者はナンシー・ウッド。何者かは不明だ。訳者あとがきを見ても、白人の女性という以外、出自については全くの白紙だとある。

 ただ、住んでいるのは郊外にプエブロ・インディアンの居留地があるニューメキシコ州サンタフェの近くの広野と書かれている。そうか、やっとわかってきた。この本は、どうやら居留地近くで暮らす白人女性の詩人がインディアンの古老を訪ねて取材し、彼らの談話をもとに作り上げた長篇詩であるらしい。

 上記の詩は、取材相手となった古老の一人の声ということになろうか。


大地とともに生きる

 途中にエッセイ風の断章がはさまれるこの本の後半に重要なメッセージが記されている。

 白人は大地を眺めるのに、けっしてひざまずこうとはしない。上の方から見下ろすのだ。彼らは、アリの重要性を認めない。クモの巣の美しさを、見ようとしない。畑で土が掘り起こされるのを見たことがない。コオロギの鳴き声なんか、聞きたくもないのだ。


 ただ白人を批難しているだけではない。大地とともに生きることの素晴らしさがいわば反語としてここにたたみこまれている。

 この断章だけではない。本全体に大地で生きる者たちの声が力強くこだましている。


2026年2月12日木曜日

乙女の儚夢事件

 


 石塚幸一君との思い出をたどっていくと、半世紀前のことがあらためていくつも思い浮かんでくる。


 1973年の春〜秋は、風都市オフィスへ行く機会が多かった。9月21日にはっぴいえんどの解散コンサートが予定されており、プロジェクトの一環としてソングブック発行が決まった。その編集を任されたのである。

 ソングブックの出来本はいまも手元に残っているが、カラー口絵を含めてA4判128ページの立派な1冊。ページの多くは手書きの歌詞入り楽譜で、楽譜は松任谷正隆が、ひらがなの歌詞は僕が書いた。松任谷君からなかなか楽譜原稿が届かなくて、オフィスで徹夜になったことを思い出す。


 ソングブックのカラー口絵ははっぴいえんどの曲の歌詞とイラストレーションで構成されているが、その1つ、「はいからはくち」のページについては一悶着あった。イラストの描き手は林静一。描き下ろしではなく既存の作品を使わせてもらったのだが、実際の編集作業の直前に「事件」があった。ソングブックと同じ時期に制作が進められていたあがた森魚のアルバム『乙女の儚夢』もジャケットイラストは林静一作品だが、その原画を風都市のスタッフが紛失してしまったのである。


 どういう経緯でそうなったのかは記憶にないが、「はいからはくち」用のイラストの使用許可を得るための交渉役は僕が引き受けることとなった。当然ながら紛失のお詫びも兼ねてである。風都市のスタッフの一人前島邦昭とともに林画伯の仕事場を訪ね、平蜘蛛のごとく平伏した。


あがた森魚と林静一の縁

 あがた森魚は林静一と縁の深い人である。そもそも彼の最初のヒット曲「赤色エレジー」にしてからが、林静一による同題の長編漫画から想を得ている。歌「赤色エレジー」を公の場で歌うにあたっては、事前に直接林静一を訪ねて了解を得たという。


 あがた森魚はベルウッドからのデビュー以前にアルバムを自主制作しているが、そのジャケットも林静一の描き下ろしだそうな。

愛は愛とて何になる
男一郎まこととて
幸子の幸は何処にある
男一郎ままよとて

 そんなことを頭の隅に置いてあらためて「赤色エレジー」を聴くと、幸子と一郎の物語がより大きくふくらんでくる気がする。