2026年2月28日土曜日

明治人の顔、現代人の顔

 


 岡本綺堂の随筆集『綺堂むかし語り』を読む。

 綺堂の随筆をまとまった形で読むのは久しぶり。半七捕物帳についてちょいと知りたいことがあってページを開いたのだが、そもそもの目的はどこへやら、関係のない話にずんずん引き込まれた。


 「獅子舞」という、ごくごく短い一篇がある。綺堂がまだ子供だった頃、町内に宮内庁に勤める人があって、その人は毎年正月になると本物の獅子舞(これは5〜6人の集団で、踊りをつけたりかなり大がかりにやったものらしい)を呼び入れ、そればかりか近所の子供を邸に呼び入れて見物させたという話である。

 30年住み続けた東京麹町の元園町の来し方をふりかえりつつ綺堂は書く。

「元園町は年毎に栄えてゆくと同時に、獅子を呼んで子供に見せてやろうなどと云うのんびりした人は、だんだんに亡びてしまった。口を明いて獅子を見ているような奴は、いちがいに馬鹿だと罵られる世の中となった。眉が険しく、眼が鋭い今の元園町人は、獅子舞を見るべく余りに怜悧(りこう)になった」


 これが書かれたのは、明治40年代である。現代のわれわれにはただ想像してみるだけの遠い昔だが、その頃すでに東京の町で暮らす人々の顔つきは相当にけわしくなっていたことがわかる。綺堂は明治5年の生まれだが、外見はともかく内面的には江戸人そのものだった明治20年代頃までとそれ以後の東京人の間にある否定しがたい変化を、彼はそこに見ているのだろう。

 これを現代に移しかえれば、昨今の東京人の顔つきなど、おそらくは綺堂が見たら、ほんの一瞥、卒倒しかねないだろうという気がする。


 騒々しくてめまぐるしい、何をするにも金のかかる現代がそこに投影しているわけだが、これはただ生きていくだけでものすごく疲れる時代である。なんとか耐えてはいるが、ときには暴発しそうになる。最近アメリカで連続している無差別乱射事件犯の心理は、案外このわれわれの内側にも潜んでいるのではないか。

 しかし、疲れたらどこかに逃避するしかない。さしあたって手軽に見つけられる逃避先は、古い時代の音楽だろうか。


古楽という新しい音楽

 すっかり無気力になっているくせになぜか気分だけがいらだつとき、この頃きまって聴くものの1つに、クリストファー・ウィルソンの『ダラクィラ/ダ・クレマ:リチェルカーレ集』(Naxos)がある。16世紀イタリアのリュート曲を集めたもので、囁くような静かな響きが耳に心地よい。

 リュートは演奏時間より調弦時間のほうが長いといわれるほどに狂いの激しい楽器で、しかも小さな音しか出ないために音楽の表舞台から姿を消した。しかし、そのマイナスの特性が騒がしい現代にはプラスに転化する。


 この音楽はまちがってもボリュームを上げて聴いてはいけない。小さな音に寄り添うようにして聴く。すると、そこだけは澄みわたった空間が自分の中に少しずつ広がっていくのが、確実に体感できるだろう。

 古楽は現代人にとっては時空を超えて届く「新しい音楽」である。


2026年2月27日金曜日

ジャズ最終章のだいご味

 


 1週間前、稲毛図書館で見つけて一部分を読んだ『小野好恵/ジャズ最終章』をあらためて取り寄せ、読んだ。まだ全体を読み通したわけではないが、満腹感がある。まさしく充実した読書体験と言っていい。

 1998年3月に深夜叢書社から発行された1冊だが、書名の「最終章」が意味深い。発行の2年前6月に著者の小野好恵が物故しているからだが、それだけではない。Ⅰ・Ⅱ章を読めばはっきりつかめるが、これは60年代に時代をリードする祝祭として爆発したジャズが、70年代が進むにつれてそのリアリティを失っていった時代経過の記録だからだ。

 「渡邊香津美 あるいはテクニックのアナーキズム」と題された一文の中で著者は言う。「ジャズは死んだ。いや〈ジャズ神話〉は死んだ。この悲痛な認識から始めるしかない。そして、だからこそ〈自由の王国〉だったジャズの蘇生を熱烈に願わずにはいられないのだ」

 そう、この本は、ジャズが時代精神の推進力を失っていった経過を記す野辺送りの歌なのである。


 60年代後半に日本ジャズを革新した山下洋輔トリオについてのエッセイの中に印象的な記述がひとつある。「この頃は、ジャズ・ジャーナリズムは、彼らを無視しており、少数の優れた批評家である油井正一、相倉久人、平岡正明などが支持したにすぎなかった。しかし、当時、二十歳前後だった私たちは、口コミで山下トリオや阿部薫の素晴らしさを伝えあった。他の領域の表現者には支持者が多かった。たとえば粟津潔は『山下洋輔トリオは、始めからオリジナルだった。すごい連中が登場したと思った』と後に書いている。

 しかし、ジャズ・ジャーナリズムの無理解な人々は、彼らの演奏をデタラメだ、これはもはや音楽ではないと非難した。彼らは後にほとんどが評価を変えている。山下トリオがヨーロッパ遠征で圧倒的な成功を収めるとともに」

 当時のジャズ・ジャーナリズムの退廃が、この一言に語り尽くされている。


先端的なジャズへの共感の共有

 著者の小野好恵さんとは一度だけ同じ場に同席した記憶がある。主役が誰だったかは思い出せないが、東銀座にあったジャズ喫茶「オレオ」でしばしば開かれたレコード解説会の夜だった。主役は白石かずこさんだったかもしれない。

 解説会終了後の懇談の中で言葉を交わした。何を話したかはもう覚えていないが、時代を率いる先端的なジャズへの共感を共有できた記憶がある。

 小野さんはいわゆるジャズ評論家ではなかったが、平岡正明氏同様、文筆家としてジャズ評論に大きく関わった。先のジャズ・ジャーナリズムとの比較でいえば、外野にあって最もジャズの渦の中心に近くいた人なのだとあらためて思える。

 小野さんの死去は1996年6月23日午後3時36分。舌癌を患い、3年間闘病生活を送っての最期だった。入院を拒否し、自宅で迎えた死だったという。

2026年2月26日木曜日

漢詩を読んで、マーラーを聴く

 


 20代に入ってまもない頃から、漢詩が好きだった。実をいえば、いまもって詳しくはない。けれど、やはり好きである。ことに、陶淵明や寒山の詩は飽きることがない。

 例えば、陶淵明のあまりにも有名な「園田の居に帰る」。「其の三」にある

  晨(あした)に興(お)きて荒穢(こうあい)を理(おさ)め

  月を帯び鋤を担いて帰る

という一節からは、何度読み返しても「生活とはこのことだ」という思いがふつふつと湧いてくる。

 あるいは、寒山のこれまた有名な詩の一節。

  群女 夕陽に戯むる

  風来って満路香わし

 夕日を背景に遊びたわむれる乙女たちの何気ない光景。風とともに漂い来るかぐわしさ。「生活の中にあるべきゆとりとは、本当はこんな瞬間のことだ」という思いに駆られないではいられない。


 よく知られているように、陶淵明は自らの死を想定した挽歌で、

  但だ恨むらくは 世に在りし時に

  酒を飲むこと 足るを得ざりしを

と、うたった。生きている間に酒を存分に飲めなかったことだけが心残りだ、というのである。

 いったいに、中国の詩人たちは酒好きである。酒好きというより、生きることは常に酒とともにあり、とでも言うほうが真実に近い。


マーラーのシンフォニー『大地の歌』

 グスタフ・マーラーのシンフォニー『大地の歌』は、李白その他の中国の詩人たちの詩とともに展開する。全部で6つの楽章からなるこの曲中でも白眉といっていい第1楽章では、テノールが李白の詩をこう歌う。

  さあ友よ、盃を持て!

  金色に輝く酒を

  いまこそ飲み干すのだ。

  生は暗く、死はまた暗い!

 マーラーは、死の恐怖にがんじがらめになって晩年を生きた人である。彼が漢詩をどれだけ読んでいたかは知らない。しかし、狭心症の発作の直後にこの惜別の作品を書いていたとき、彼の心の眼に漢詩の虚無――それはいってみれば「明るい虚無」だ――がひたひたとしみこんできただろうことは想像に難くない。


 マーラーはあまり好きではないが、この曲、というよりワルター指揮ウィーン・フィルの1952年の録音(英デッカ盤)は素晴らしい。コントラルトの名花キャスリーン・フェリアーも素晴らしいが、ことにテノールのユリウス・パツァークが素晴らしい。

 パツァークは声量に乏しい人だったそうである。そのパツァークが、ここではその声量の乏しさゆえにリアルそのものの歌唱を展開する。これを声量の豊かな歌手が朗々と歌ったのでは、逆にさまにならないはずである。

 もっとも、マーラーのオーケストレーションのダイナミズムは、いま聴けばホラー映画かアクション映画の背景音楽としか感じられないだろう。ウィーン・フィルの演奏はこれ以上ないほどの見事さだが、強弱を意図しすぎたオーバーアクションは現代の感性にとっては滑稽すれすれとなる。

2026年2月25日水曜日

音楽とうまいもののとりあわせ

 




 企業が集中する地区には、早朝から営業している飲食店が多数ある。いうまでもない、家では朝食がとれないサラリーマン目当ての店である。

 渋谷のハチ公口から宮益坂へ抜けるガード下にもその種の店が何軒かあって、うち1軒のラーメン屋は舗道上にテーブルセットを2つ置いている。渋谷に事務所があった頃、僕は毎朝そこを通り抜けていったのだが、おそらくは深夜からの仕事を終えた人たちなのだろう、餃子なんぞをつつきながら生ビールを飲んでいる光景をしばしば見かけた。朝の9時20分前後のことである。

 根が食いしんぼうだからよけいなのだろうが、あれほどうまそうに見える餃子とビールはなかった。なにしろ、こちらは出勤の途中なのである。「できれば仲間に入れてもらいたいなあ」と思いつつその人たちをちらりと眺め、足早に過ぎ去る。ほどなく事務所に入った僕は、顔をしかめながら渋茶を1杯飲んだものだ。


 それから20年。いまもってその店に入って、めしを食ったことはない。ないけれど、特別うまい料理を出すような店でないのは、構えを見ただけでわかる。どこにでもあるようなラーメン屋である。しかも、東京というのは、「高くてまずい店」に「安くてまずい店」を足したような環境の街だから、「安くてうまい店」に当たる確率はおそろしく低い。

 しかしである、ものの味なんてものは時と場合によって大いに変わるものだ。夜通しの仕事のあとの餃子とビールがうまくないはずがない。いや、うまいに決まっている。


 首都圏での暮らしはかれこれ70年ほどになるが、「音楽にからんで記憶に残っている味」というのがいくつかある。1つは、新宿のアカシアのロールキャベツ。まだ20代だった頃、ジャズ喫茶からジャズ喫茶へとはしごする途中、よく食べた。少し塩味のきついロールキャベツだったが、安くてうまかった。皿の隅にちょこんと載っていたつけもの(福神漬けだったか?)がこれまた美味だった。

 最近になって、そのアカシヤがいまだに健在であるのを、あるテレビ番組で知った。もう何十年も入ったことはないが、画面で見るロールキャベツは昔と同じように見えた。店内にたくさんいた若い人たちに、昔の自分の記憶がぴたりと重なった。



 もう1つ、やはり新宿のおでん屋、お多幸の茶飯も忘れられない。ここは、60年代末から70年代初頭、ピットインで山下洋輔トリオを聴いたあとによく入った。興奮さめやらぬままに仲間たちと談論風発、熱燗の日本酒をたっぷり体内に流し込んだあとの茶飯は格別な味がした。


山下トリオを聴いた日々の古楽

 ……というようなことを書きながら、実はモーツァルトを聴いている。イタリアの女流バイオリニスト、キアラ・バンキーニ率いる古楽器グループ、アンサンブル415が演奏する「ト短調五重奏曲 K.516」(仏ハルモニアムンディ HMC901512。現在廃盤)である。

 この曲の最初の記憶は、さっき言った洋輔トリオに夢中になっていた日々にさかのぼる。週に一度のライブだけでなく、爆発するフリージャズをジャズ喫茶で連日のごとく浴びるこちらの心の隙間をつくように静かにしかし確実な浸透感をもって入り込んできたのが、この曲だった。とにかく、美しくて、哀しくて、この世のものとは思えないような「天上の音楽」である。


 当時はもっぱらアマデウス四重奏団の演奏を楽しんでいたが、CDには復刻されなかったらしく、いくら探しても見つからない。いくつかのグループの演奏によるCDを何度か買い、失望を繰り返したあげくにたどり着いたのが、このアンサンブル415による録音だった。

 古楽器独特の渋い音色は、この曲のミステリアスなムードを一段と盛り上げる。しかも、速めのテンポで演奏されているのがまたいい。曲の成立こそ古いが、そこから届いてくるのはまさしく現代人による現代人のための、現代の音楽である。

 聴いていると、いつか、イタリアの小さな店で土地の料理でも味わいながら彼女らの演奏にふれられたらいいのに……と、ひとりごちたりする。

 ちなみに、松平維秋が世を去ったあと、喪失感に悩む松平洋子さんにこのCDをプレゼントした。毎日泣きながら聴いて、心のバランスを回復できたとの連絡が、後日あった。26年前のある日のことだ。


2026年2月24日火曜日

岩波ホールのジャズ音楽講座

 


 20日金曜の稲毛・フルハウスでの会合のあと、60〜70年代に経験したことが次から次へとよみがえってきた。その1つに1969年か70年に岩波ホールで開催した「ジャズ音楽講座」がある。

 岩波ホールの当時の総支配人・高野悦子さんの発案で生まれたイベントだが、イベントの中身を構成したのは当時岩波書店の社員だった僕。「書店にジャズに詳しいやつが一人いる」と誰かが高野さんの耳に入れ、それで企画のまとめに参加した。

 イベントのメインプログラムには、山下洋輔さんによる「ブルー・ノート研究」のピアノ実演付解説を置いた。「ブルー・ノート研究」は1969年の春に雑誌『音楽芸術』に2か月にわたって掲載された論文で、黒人音楽独特の音であるブルー・ノートについての論究は以後も全くない唯一無二のものだ。楽典の知識がない僕のような者にはいまひとつ理解ができず、そのこともあってピアノを弾きながら解説してもらえないかと山下さんに直接お願いしたのだった。

 印象的な1シーンがある。「ブルー・ノート研究」解説の締めの部分だった。山下さんが突然傍らに置かれたピアノを指さして言った、「このがさつな楽器!」。平均律の権化ピアノではブルー・ノートが弾けないことを揶揄する一言だった。


植草甚一さんの思い出

 イベントのもう1つの柱パネルディスカッションのメンバーの一人に植草甚一さんがいた。その植草さんをめぐって、これまたいまも記憶から去らない印象的な1シーンがある。

 僕はイベント実施の責任者の一人であるから、当日はイベント開始時刻の2時間ほど前からホールの入口に立って出演者を待ち受けていた。開始時刻間際になって、植草さんが姿を現した。と思うと、植草さんは階段を駆け上がってくる、大声で叫びながら。「岩波は原稿料が安い、安い!」その手には、植草さんのエッセイも掲載されているこの日のプログラムがあった。

 植草さんとは格別懇意にしていたわけではないが、いまも記憶に残るおつきあいがいくつかあった。あれはキャノンボール・アダレイの来日公演だったろうか、終演後のロビーでお見かけし、神保町のジャズ喫茶「響」へお連れしたことがあった。植草さん愛用のスピーカーを譲り受けた「響」の常連客高野君が一緒だったと思う。というか、植草さんと旧知の高野君がその場にいたから植草さんと話ができたのだった。


 植草さんと「響」にいたのはものの1時間ほどだが、そのあと一緒に店を出、神保町界隈の古書店をめぐることとなった。植草さんの趣味である古書店歩きのお供である。

 いくつかの古書店を覗いて最後に行ったのは、古書店街から少し離れた駿河台の坂の途中にある書店だった。アメリカのペーパーバックの古本を大量に在庫している店で、店名は川村書店だったろうか。

 店の入口には廉価で放出する本をいれたワゴンがあった。植草さんはそのワゴンに手を入れ、物色する。ほどなく1冊の本を取り上げた。そして言う「これは掘り出し物だ。君が買え」

 店の奥へ行って、代金を払った。そして、店を出る。そのとき、植草さんからまたも一言があった。「悪いけど、この本は僕が預かっておくよ。いいね」早い話が強奪である。

 いまとなっては、何だか幻のようにも思える1シーンだ。

2026年2月23日月曜日

『ワンダーランド/宝島』創刊の頃

 




 老齢になると、日々の思いは過去へ過去へと遡る。昨日ミラノ/コルティナの冬季オリンピックをテレビで見ていて思い出したのが、雑誌『ワンダーランド』(のちの『宝島』)創刊当時のことだった。

 創刊は1973年。その準備として東京は渋谷区神宮前に編集室ができたのは、その前年1972年の冬だった。つまりは、冬季オリンピック札幌大会の年。で、ある日、編集室に集まった面々で女子フィギュアのテレビ中継に見入っていたのだが、そのときひとりの女性が入ってきて言った。「おい、男ども。みんなスケーターのお尻ばかり見ているんじゃないの。いいかげんにしなさいよ」

 声の主は高平哲郎氏の奥様。どっと笑い声が起こった。


校正マンとしての現場で

 『ワンダーランド』はそもそもは米音楽誌 "Rolling Stone" の日本版をという企画が紆余曲折あって純粋に和製の文化誌(サブカルチャー誌)として誕生した雑誌である。責任編集は植草甚一。ただし、これはあくまでも看板であって、実際に編集を仕切ったのは片岡義男、津野海太郎の両氏だった。版元は晶文社。しかし、書籍出版が本業の晶文社には雑誌を継続発行するだけの資金的余裕はなく、3号から誌名を『宝島』に変えてのち、6号をもって力尽きる。雑誌は片岡、津野両氏を除く編集部ごとJICC出版局(現在の宝島社)に譲渡された。

 僕はそんな『ワンダーランド/宝島』の1〜6号に寄稿者兼校正マンとしてかかわった。そうして、校正マンとしての仕事で忘れられない1シーンがある。


 『ワンダーランド/宝島』はタブロイド判の大判雑誌で、本文の書体は新聞明朝。組版は一般の印刷会社ではなく日刊スポーツ新聞社で行われた。日刊スポーツには業界紙などの組版印刷を請け負う部署があり、どういう経緯かはわからないが、『ワンダーランド/宝島』も製作はその部署にゆだねられたのだった。

 完全デジタル化されたいまはいざ知らず、当時の雑誌編集では校了間際に印刷所で出張校正をするのが決まりだった。日刊スポーツ新聞社には20人ほどが作業できる広々とした校正室があり、そこで最終校正をした。

 そんなある日の出来事である。届けられた校正紙に目を通していると、突然罵声が響きわたった。続いて体をぶつけてもみ合う音。最後は乱闘となった。

 日刊スポーツ新聞社に組版印刷を委託する多くは、政治系・宗教系の新聞等のミニメディアだった。その日は、たまたま右翼系、左翼系の新聞編集者が同席した。それで大騒ぎとなったのだった。

 令和8年現在では考えられない、遠い情景。

2026年2月21日土曜日

稲毛のホットスポット・フルハウスの夕べ

 


 20日日曜、午後2時に家を出て、稲毛へ。夕方からの会合に招かれたからだが、予定の4時まではまだまだ間があるので、稲毛図書館を覗く。理由あって前々から一度行きたいと思っていた図書館だ。

 一歩入って、びっくり。日頃利用している花見川団地分館のざっと4倍はあろうかという広さだ。千葉へ移ってくる前は八王子の南大沢図書館を利用していて、その広さと蔵書の数を懐かしく思い出すことが多かったが、稲毛はそれよりも広い。

 芸術書のコーナーで1998年に深夜叢書社から出た『小野好恵/ジャズ最終章』を見つけた。館内窓際に置かれたスツールに座って読んだ。


2年ぶりのフルハウスで

 午後4時、稲毛駅前の老舗ロックバー、フルハウスに入る。麻田浩さんのトークショーがあった一昨年の3月3日以来だから、ほぼ2年ぶり。入口にある「OPEN」のネオンサインが何やら懐かしい。


 会合をセットしてくれた増田和彦、松澤明彦のお二人がすでに来ていて、丸テーブルに移る。そのとき気づいた、耳管開放症の薬を持ってくるのを忘れたと。ひどいことになりそうだという予感がする。そして、予感は的中した。

 まずはご挨拶だが、お二人の言葉が聞き取れない。内心困ったなと思っていると、そこへ柳澤洋平君が着。彼の挨拶がこれまた聞き取れない。仕方がないので、耳元に手をやり、補聴器のボリュームを上げた。耳管開放症には無力だが、割れた音のままであっても音量は増す。話す人の顔を正面から見るようにして、なんとか会話に加わった。

 柳澤君は、1977年にローリング・ココナツ・レヴューを開催したドルフィン・プロジェクト・ジャパンの仲間である。当時の彼は第一ホテルに勤務していて、ドルフィンの会議が深夜まで長引いたときに何度か無料で泊めてもらったりした。彼と会っていると、自然にその頃のことに思いが飛ぶ。「感謝、感謝」と内心でつぶやいた。

 ローリング・ココナツの話題から、話はあの頃の音楽シーンのもろもろへと流れる。渋谷百軒店のブラックホークやBYG、風都市とショーボート・レーベル、はっぴいえんどと岡林信康、その他その他。ビールを口に運びながら、過ぎた時の長さをつくづくと感じた。

 7時近くになって、フルハウスを出る。

 この店ではしばしばトークショーやDJイベントが開かれる。少し先には室矢憲治や小倉エージのショーが予定されているらしい。

 帰りの電車の車中、その二人の名から不意に思い出したことがある。あれは1970年、三一書房の編集者Tがボブ・ディラン論集なるものを企画した。複数の筆者による共著で、その顔ぶれは前記の二人に加え、北中正和そして僕。全員で集まった記憶はないが、北中氏と親しくなったのは、この企画がきっかけではなかったか。

 最終的には肝心の原稿は僕の分しか出来上がらず、企画はお流れとなってしまうのだが、僕自身の原稿は、当時北中氏が編集部の一員だった雑誌『ニューミュージック・マガジン』に掲載された。それは、僕のロック・マガジンへのデビューとなった。

 遠い、遠い昔の話だ。

2026年2月20日金曜日

器と機――蓄音器と蓄音機

 


 岩波文庫から出ている寺田寅彦の『随筆集』第二巻に、「蓄音器」と題された一文がある。母親が亡くなってさびしがってばかりいる子どもたちのために銀座の楽器店だかで蓄音器を注文した、という内容のお話だった。

 いうまでもなく電蓄(電気式蓄音機)ではなくてまだ手動式、それも家計が豊かな家でなければ買えない時代に書かれたものだが、蓄音器が届くのをいまかいまかと待ちわびる子どもたちが道路に出ては様子を確かめる情景が、まるで映画の一こまのように心に残っている。記憶するところでは、蓄音器は風呂敷につつまれ、店員の手で運ばれてきたのではなかったか。

 寺田寅彦の時代とは違って、第二次大戦後、特に1960年代のはじめからは17cm径の小さなターンテーブルを持つ簡易方式の電蓄が一般家庭にも急速に普及していくことになるのだが、わが家にはじめてレコードの再生装置が来た日のことはいまでもよく覚えている。1947年生まれの僕が中学1〜2年だった頃のことで、機械マニアの親類の者が置き場所がなくて預けていったのだった。


 当時すでにステレオ録音が始まっていたはずだが、家の床の間風のスペースに鎮座ましましたのは、モノラルの装置だった。アンプは真空管方式。そのアンプは、20cm径のシングル・コーンのスピーカー・ユニット(パイオニア製)がおさめられたどでかいエンクロージャーの上に載せてあった。「最初はラジオにこのスピーカーを無理矢理つっこんだんだよ。そしたら、音が出てくるとラジオがカタカタ踊り出しやがるのよ」と、親類の者が笑いながら言っていたっけ。


置かれていった2枚のシングル盤

 ソフトのないコンピュータと同じく、レコードのないオーディオも当然ながらただの箱、それも狭い家には邪魔なだけの箱である。だから、親類はレコードを2枚だけ置いていってくれた。どちらもシングル盤で、1枚はイヴェット・ジロー、もう1枚はマリアン・アンダースンだった。そのうち、後者は、僕にとっては、アメリカの黒人の歌い手とのはじめての本格的な出会いになった。


 マリアン・アンダースンは、ソウルやジャズの歌い手ではなく、オペラ歌手である。ニューヨークのメトロポリタン・オペラハウスの舞台に立った初の黒人歌手であり、声域はコントラルト。オペラのプリマドンナとしては本来損な声域でありながらスターダムにのぼれたのは、よほどの才能があったからにちがいない。


 いま、手元にはCDの時代になってから再編集されたディスクが1枚あるが、ノイズ混じりのひどい録音状態でも、その魅力ははっきりつかめる。おさめられているのはシューベルトのリートなど短い曲ばかりだが、とにかくはりつめたような緊張感に満ちた声が生々しい。そして、妙な言い方だが、黒人独特の「太い声」なのである。

 その太い声は、なかでも黒人霊歌を歌う際に圧倒的なまでに生きてくる。静かな、しかし力強い声を堪能していると、やがてはジェシー・ノーマンにまで引き継がれていく「黒いプリマドンナ」の道筋が見えてくる。

2026年2月18日水曜日

藤井暁君と電話の関係

 

 電話を使うことがほとんどなくなった。廃業とともに仕事上の電話連絡がなくなったせいだが、それに耳の病が加わり、電話での会話そのものが不自由になった。スマホでインターネットにアクセスすることはほとんどないので、毎月8,000円ほど払っているauのアカウントは無駄でしかない。

 振り返ると、二十代の頃はいまでは考えられないほどの電話魔だった。もっぱら深夜だが、1時間を超える長電話はざら。酒が入った状態で電話することが多く、電話の途中で眠ってしまったこともある。後日、えらく怒られたなあ。相手は、新宿「酩酊浮遊ぷあぷあ」で働く外間三枝子さんだった。


 もっとも長時間の長電話をした相手は、浅川マキさんだった。この場合は、こちらから電話をかけたのではない。電話は深夜1〜2時にマキさんからくる。そして、話が始まると、ゆっくりではあるが、マキさんの声は止まらなくなる。最長3時間話した記憶がある。

 では、何を話したのかというと、話は単純。もっぱら音楽の話だった。あちらはご本人の音楽体験を、こちらはお薦めのミュージシャンやディスクをだらだらしゃべり続けた。「日本の音楽状況って、やっばり貧しいよね」というのが、マキさんのいつもの止め言葉だった。


片耳の電話は使わない

 その一方、親しくつきあっているのに、一度も電話で話すことがなかった人物がいる。レコーディング・エンジニアの藤井暁君だ。なぜか。彼は電話というものを一切使わない人だったからだ。

 その理由を尋ねたことがある。「電話の受話器は片耳でしょ。頻繁に使うと、片耳だけ悪くなるおそれがある。それは避けたい」と、彼は言った。見上げたものだ、まさしくレコーディング・エンジニアのプロフェッショナル。


 藤井君とは北中正和さんの紹介で知り合ったのだが、酒を呑まないのに忘年会などの酒席でよく顔を並べた。話し上手で、こちらをすっと引き込んでいく引力がある。京都出身だが、京都時代は喫茶店のマスターをしていた。そのときの客扱いの経験が生きていたのかもしれない。


 僕とウマが合ったのは、もうひとつ、互いに熱烈なMacユーザーだったことが大きい。Windows 3.0が出たときだから1990年だろうか、井の頭線渋谷駅の改札を出たところでばったり出くわしてパソコンの話になり、「Windowsを撲滅する会を作ろうよ」と大盛り上がりになったこともあったっけ。シンガーの平方亜弥子さんも一緒だったかもしれない。

 レコーディング・エンジニアとしての彼は、その平方さんのHaLoのアルバム『blue』『yellow』など数々の秀作を残した。その中でも特筆すべきは、フィンランドのアコーディオン奏者マリア・カラニエミの『トーキョー・コンサート』(Nordic Notes DHN-1052)だろう。アコーディオンによる川の流れのように自然な北欧のトラッド演奏が聴けるこれは、レコード会社と契約して録音されたものではない。カラニエミに惚れ込んだ藤井君が記録として残すために録った1作だ。縁あって商品化されたが、藤井君の私家盤というに近い。


 単にビジネスとしてレコーディングするのではなく、音楽を創造する側の一人として録音機材と真摯に向き合っていた彼の魂がこもった傑作盤である。


 ライブ収録は2004年だが、それから9年が過ぎた2013年11月25日、藤井暁は自宅の仕事部屋で遺体となって発見された。スタジオで収録した録音データの編集中に心臓発作に見舞われたのだ。

 録音の仕事に生きて生きぬいた藤井君らしい最期といっていいが、まだ50代。いくらなんでも早過ぎた。その1年ほど前、ジャズ系の新しいレーベルをスタートさせる話が出ていて、彼にレコーディングのチーフスタッフになってくれるよう依頼した。それが彼との最後の面会になった。その話をした渋谷の喫茶店トップ渋谷駅前店も、いまはない。

2026年2月17日火曜日

矢吹さんとやり残したこと

 

 

 100%スタジオのイラストレーター矢吹申彦さんのお姿をはじめて見たのは、1969年の冬、雑誌『スイング・ジャーナル』の編集部でだった。僕は当時の編集長児山紀芳さんに「うちの雑誌に書かないか」との誘いを受けて行ったのだが、編集部の隅にグラフィックの作業をするスペースがあり、そこに矢吹さんがいた。あれは何というのだろう、ごく浅いタートルネックで首元がボタン止めのグレーのセーターを着ていらした。アルバイトとして誌面レイアウトの仕事にたずさわっていらしたのだと思う。

 その2年後にはジャズではなくロックの雑誌『ニューミュージック・マガジン』の編集室で再会することになるのだが、そのときは想像もしなかった。


結実しなかった企画

 つかず離れずという言い回しがあるが、矢吹さんとはそういう関係だった。共通の友人に松平維秋がいたせいで、すぐに打ち解けたが、一定の距離は保たれたままだった。

 仕事の上での最初のおつきあいは1973年、風都市の「CITY-Last Time Around」プロジェクトにからんでだった。コンサートの告知ポスター、ソングブック、レコードジャケットでキービジュアルとして使うイラストレーションをお願いした。

 そのイラストを受け取った日のことが、忘れられない。もうすぐ仕上がるとの電話連絡があり、午前11時前後だったろうか、東北沢の矢吹邸を訪ねた。しかし、イラストは未完成だった。アトリエに入り、キャンバスに絵筆を走らせる矢吹さんの背後で待つ。1時間、2時間……昼食のカツ丼が運ばれてきた。食後、さらに待つ。1時間、2時間……「できたよ」という声が響いたのは、アトリエに入ってから6時間後だった。手抜きのできない、職人気質の人だった。



 その後、仕事の上でのおつきあいは絶えてなかった。二度目は、遅く2004年になってのことになる。ムック『風都市伝説』のカバーイラストを担当していただいたのだが、このときは描き下ろしではなかった。既存の作品を使わせてもらった。

 さらにそれから10年ほど経った頃、集英社新書で一緒に本を作る話が持ち上がった。企画はロックのアルバムジャケットのアンソロジー。ジャズのそれは複数出版されてきたが、ロックではない。矢吹さんがアルバムを選んでコメントを付け、それら素材を僕が編集するという役割分担で企画は決まった。


 最終的には、この企画が実現することはなかった。企画が決まってすぐにスタートするはずだった作業は、1年経っても全く動く気配がなかった。そしてそんなある日、「もうやめよう。ぼくは疲れた。大きな仕事をする余力はない」とのメッセージが矢吹さんから届いた。それで終わりだった。


 やがて2022年10月28日、矢吹さん逝去の訃報がネットを流れた。敗血症が彼の命を奪った。それは、ひょっとしたら再生するかもしれなかったいつぞやの企画の完全消滅の告知でもあった。

2026年2月16日月曜日

終わった人間

 


 日曜の昼下がり、花見川団地商店街の休憩スペースには多くの人の姿が見える。なかでも目立つのは、団地南の工場街で働く人たちだろう、中近東系とおぼしき顔立ちの男たちとその家族だ。日曜に限らない、夕刻を過ぎて家族そろって町中に集まるのが彼らの風習らしく、ほぼ毎日聞きなれない言語の会話が商店街を飛び交っている。

 その中に、こちらはれっきとした日本人だが、おそろしくみすぼらしい身なりの老人が一人いる。衣服はところどころにかぎ裂きが目立つ古着。足元は真冬でも素足にサンダル。さすがに寒さがこたえると見えて、背を丸めて椅子に縮こまっている。その姿からは、「終わった人間」という言葉が思い浮かぶ。

 バカにしているのではない。見下しているのでもない。一歩間違えれば、自分もまた終わりかけた人間になる、そんな気がするのだ。


海を越え、時代を越えて流れる歌

 1980年に死んだロシアのシンガー=ソングライター、ウラジーミル・ヴイソーツキイにそのものずばり「終わった人間」という歌がある。


 愛に胸塞ぐこともなく

 神経はもはや緊張を知らず、破りすてていい

 垂れ下った神経は、物干の紐のよう

 誰にも構わず、誰からも構われない


と淋しい心境を歌う歌は、次のように閉じられる。


 地球の引力と戦うことに疲れ

 横になる、その方が少し首つり輪から遠い

 だが心臓は、俺の外で鼓動しているのか

 そこへ行く時が来た、何もない所へ

 そこへ行く時が来た、何もない所へ

 (宮沢俊一訳)


 ヴイソーツキイの歌は暗い。それも、「激しい暗さ」とでもいうしかないような独特の暗さだ。しゃがれ声をたたきつけるように歌う彼は本来は舞台俳優で、歌にも劇的な筋立てをもつものが多いが、その暗さは1960〜70年代のソヴェトを生きた民衆の心の闇をみごとに浮かび上がらせる。

 あくまでも激しく生き、やがて心臓発作に倒れた彼の歌は深い影となって海を越え、時代を越え、「不自由なソヴェト」とは違って自由を謳歌しているはずのここ日本を死んだような目でさまよう「終わりかけた人間たち」の頭上をそっと音もなく流れていく。

2026年2月14日土曜日

再び死ぬのにとてもよい日、死ぬのにもってこいの日

 


 午前10時、日課となりつつある花見川図書館花見川団地分館へ。読む必要のなくなった文庫本を1冊返却して、書架の間に移る。最近はあまり見なくなった翻訳書のコーナーを覗く。すると、書架のやや下段に置かれた1冊の本の背表紙が目に飛びこんできた。『今日は死ぬのにもってこいの日』。表記は少し異なるが、1月3日、このブログへの最初の投稿でふれた、プエブロ・インディアンの老人の詩の標題ではないか。

 あわてて貸出の手続をした。


 家に帰って、せわしなくページを繰る。巻頭から4分の1ほど進んだページにくだんの詩が載っていた。しかし、翻訳者が別なのだろう、詩文は少し異なる。


今日は死ぬのにもってこいの日だ。

わたしの土地は、わたしを静かに取り巻いている。

わたしの畑は、もう耕されることはない。

わたしの家は、笑い声に満ちている。

子どもたちは、うちに帰ってきた。

そう、今日は死ぬのにもってこいの日だ。


 本自体の著者はナンシー・ウッド。何者かは不明だ。訳者あとがきを見ても、白人の女性という以外、出自については全くの白紙だとある。

 ただ、住んでいるのは郊外にプエブロ・インディアンの居留地があるニューメキシコ州サンタフェの近くの広野と書かれている。そうか、やっとわかってきた。この本は、どうやら居留地近くで暮らす白人女性の詩人がインディアンの古老を訪ねて取材し、彼らの談話をもとに作り上げた長篇詩であるらしい。

 上記の詩は、取材相手となった古老の一人の声ということになろうか。


大地とともに生きる

 途中にエッセイ風の断章がはさまれるこの本の後半に重要なメッセージが記されている。

 白人は大地を眺めるのに、けっしてひざまずこうとはしない。上の方から見下ろすのだ。彼らは、アリの重要性を認めない。クモの巣の美しさを、見ようとしない。畑で土が掘り起こされるのを見たことがない。コオロギの鳴き声なんか、聞きたくもないのだ。


 ただ白人を批難しているだけではない。大地とともに生きることの素晴らしさがいわば反語としてここにたたみこまれている。

 この断章だけではない。本全体に大地で生きる者たちの声が力強くこだましている。


2026年2月12日木曜日

乙女の儚夢事件

 


 石塚幸一君との思い出をたどっていくと、半世紀前のことがあらためていくつも思い浮かんでくる。


 1973年の春〜秋は、風都市オフィスへ行く機会が多かった。9月21日にはっぴいえんどの解散コンサートが予定されており、プロジェクトの一環としてソングブック発行が決まった。その編集を任されたのである。

 ソングブックの出来本はいまも手元に残っているが、カラー口絵を含めてA4判128ページの立派な1冊。ページの多くは手書きの歌詞入り楽譜で、楽譜は松任谷正隆が、ひらがなの歌詞は僕が書いた。松任谷君からなかなか楽譜原稿が届かなくて、オフィスで徹夜になったことを思い出す。


 ソングブックのカラー口絵ははっぴいえんどの曲の歌詞とイラストレーションで構成されているが、その1つ、「はいからはくち」のページについては一悶着あった。イラストの描き手は林静一。描き下ろしではなく既存の作品を使わせてもらったのだが、実際の編集作業の直前に「事件」があった。ソングブックと同じ時期に制作が進められていたあがた森魚のアルバム『乙女の儚夢』もジャケットイラストは林静一作品だが、その原画を風都市のスタッフが紛失してしまったのである。


 どういう経緯でそうなったのかは記憶にないが、「はいからはくち」用のイラストの使用許可を得るための交渉役は僕が引き受けることとなった。当然ながら紛失のお詫びも兼ねてである。風都市のスタッフの一人前島邦昭とともに林画伯の仕事場を訪ね、平蜘蛛のごとく平伏した。


あがた森魚と林静一の縁

 あがた森魚は林静一と縁の深い人である。そもそも彼の最初のヒット曲「赤色エレジー」にしてからが、林静一による同題の長編漫画から想を得ている。歌「赤色エレジー」を公の場で歌うにあたっては、事前に直接林静一を訪ねて了解を得たという。


 あがた森魚はベルウッドからのデビュー以前にアルバムを自主制作しているが、そのジャケットも林静一の描き下ろしだそうな。

愛は愛とて何になる
男一郎まこととて
幸子の幸は何処にある
男一郎ままよとて

 そんなことを頭の隅に置いてあらためて「赤色エレジー」を聴くと、幸子と一郎の物語がより大きくふくらんでくる気がする。

2026年2月11日水曜日

石塚君の誕生パーティー

 


 某サイトで自分の生年月日を登録していて、石塚幸一を思い出した。石塚君は1年下だが、僕と誕生日が同じなのだ。3月24日。生年は僕が1947年、彼が1948年。生きていれば、彼は今年78歳という年齢を迎えることになるはずだった。

 石塚君はロックのマネージメント集団「風都市」の創立メンバーの一人である。風都市は1971年、渋谷にいまもあるロック喫茶「BYG」を拠点として活動を始めた。マネージメントの対象となるミュージシャンは当時はまだはっぴいえんど、はちみつぱい(蜂蜜ぱい)の2つのバンドが主だったが、彼らはBYG地下のライブスペースの中心的出演者でもあった。


 そのBYGの1階にあった玄米食レストランで、石塚君の誕生パーティーが開かれたことがある。石塚君自身の発案で行われたのだが、そのときテーブルに並んだのは複数の缶詰。5〜6個あったろうか。缶を開けたそれらを円形に並べ、玄米のチャーハンを真ん中に置いた。「どうです、豪華でしょ」と本人は自慢げに言ったが、豪華どころか貧乏臭いとしか言いようのないテーブルの光景が、長い時を経たいまも脳裡に焼きついている。

 あれから55年だ。


 マネージャーとしての石塚君ははちみつぱい及びあがた森魚の担当だった。当時のあがた森魚はまだ全くの無名に近い存在だったが、風都市誕生と同じ1971年の8月7〜8日に岐阜県椛の湖(はなのこ)の湖畔で開催された第3回中津川フォークジャンボリーにはちみつぱいともども出演。そこで歌った「赤色エレジー」で注目を集めた。そして、録音されたテープを聴いたキングレコードのディレクター、三浦光紀の興味を惹き、翌1972年4月、三浦光紀が起ち上げた新レーベル・ベルウッドからの第1弾シングルとして発売された。

 そうして、「赤色エレジー」は40万枚のヒットを記録する。


 当時はシングルヒットの歌い手という位置づけだったあがた森魚だが、翌年に入るとベルウッドでのアルバム制作が始まった。記憶をたどると、春先に始まったレコーディングは思うようには進まなかった。音作りに苦心するあまり、スタジオの使用時間ばかりがかさんでいく。「大正ロマン風のテーマにブリティッシュ・トラッド系のサウンドをまぶした」などと評されるアルバムが一応の完成を見たのは、夏頃ではなかったか。

 そんな苦労の多いレコーディングに単にマネージャーとしてだけでなくディレクター的役割で関わり続けたのが、石塚君だった。そして9月、『乙女の儚夢(ろまん)』のリリース。いま振り返れば、それは石塚幸一最初の大仕事だった。


二度の胃癌にむしばまれて

 個人的には、風都市が解散した1974年以降、石塚君と会う機会はほとんどなかった。どちらかというと健啖家の元気印、百軒店の坂を肩で風を切るように歩いていた彼が胃癌に倒れたと聞いたのは、2000年代に入った頃だったか。

 やがて2003年、風都市の足跡をまとめる構想で制作が始まったムック『風都市伝説』の取材の一環として彼に再会する機会がめぐってきた。ところは、彼が東急ハンズの仕入れ担当として働くようになっていた二子玉川。飲み屋だった。胃癌の手術後だと聞いていたからおそるおそる飲み屋に入ったのだが、彼は元気だった。大ぶりのグラスに入ったチューハイをがんがんいく。話しぶりも快活で、病後とは思えなかった。

 しかし、病魔は再び彼を襲う。翌2004年春、彼は二度目の胃癌手術を受けるべく都心の病院に入院した。そんな彼を見舞いに訪ねたのは、その年の4月のある日だったか。広々としたガラス窓の眼下に街並みが広がるロビーで話をした。「退院したらまた二子玉の飲み屋へ行こうぜ」と僕。彼は「うん」と力のない声で応えた。

 去り際、エレベーターに乗り込んで振り返ると、大窓に向かって座っている白の入院着姿の彼の背が目に入った。それが、2週間後に世を去る彼を見た最後となった。


2026年2月10日火曜日

最後の確定申告

 


 2月も早半ば。確定申告の時期となった。正式には2月16日からの受付だが、還付申告の場合はその前から受け付けてもらえる。ということで、朝から申告書の作成にかかった。

 事業収入は3件。年間通して働いた1社は支払調書を出さない決まりになったので、請求書の控えと銀行口座の通帳を照らし合わせつつ計算。ものの10分で終わった。残りの2社からは支払調書を受け取っているので、計算の必要なし。収入金額等、所得金額等の記入欄もあっという間に埋まった。

 続いて各種控除欄を埋め、さらに収める税金を計算。年間の営業収入が200万円を下回る低所得者だから、これまたあっという間に完了となった。記入ずみの申告書を二度三度と見直し、レターパックの封筒に入れて完了。1時間ほどの作業が終わった。

 年明けに廃業届を提出したので、確定申告はこれが最後となる。レターパックの封筒を閉じると、なんだか淋しい思いにつかまった。


申告書をポストに放り込んで知る時の長さよ

 確定申告が義務付けられる身となったのは、岩波書店を辞めてフリーとなった1971年からである。以来55年。郵便局まで行ってレターパックをポストに放り込むと、その間に経験したさまざまなことが脳裡に浮かび上がった。

 ドルフィンプロジェクトジャパンの運営スタッフ仲間と小さな有限会社を興したのは、1978年。一向に利益が上がらない業務を清算すべく、他の知り合いと別会社を興したのはその2年後。人間関係という観点で見るとずいぶん乱暴なことをしたものだという思いが強くする。今日まで貧乏生活が続いてきたのは、そのたたりか。


 その一方で、嬉しい人との出会いも多数あった。特に、収入がそれなりに安定するようになって出かけた京都で知り合うこととなった「七夕コンサート」のメンバー4人の歌い手——三浦久、豊田勇造、ひがしのひとし、古川豪——の存在は、それこそ自分の宝物と言っていい。彼らの歌を知ることは、僕自身の精神的成長をうながす出来事となった。

 なかでも、ひがしのひとしとの出会いは鮮烈だった。最初の出会いは1977年7月の京都・拾得。小声で囁くように歌う彼のパフォーマンスがいまも記憶に焼きついている。それまで体験したことのない歌世界を発見した瞬間だった。

 それなのに、そのひがしの君はもうこの世にいないのだ。過ぎ去った時の長さをあらたて知る。

2026年2月8日日曜日

雪が降る降る

 


 今朝の千葉は雪。 10時現在すでにこの冬初の積雪となっている。

 寒さに震えながら一歩表に出て、近所を観察。小熊秀雄の「飛ぶ橇」が脳裡に浮かんだ。


小熊秀雄の「太い糞」

 小熊は20世紀の最初の年に生まれ、日本が軍国主義に覆われた時代に死んだ詩人だが、その活動に最もあぶらがのっていた時期、彼は自分とは資質の異なる書斎派の詩人たちを「超然たる、若老人(わかどしより)」とからかい、自分自身を次のように定義した。

僕たちは働く詩人だ

たくさん喰つて

太い糞をするよ

(「気取屋の詩人に」)


 その太い糞を代表するのが叙事詩「飛ぶ橇」だ。書斎に閉じこもるのではなく、民衆の中へ、生活の中へ入り込み、動きまわって書かれた長篇詩である。

 アイヌの生活が主題になっていて、若い山林検査官(和人)がアイヌの狩人と野を歩き、山をめぐり、やがて雪崩に遭うまでの模様が緊張感の高い文体で描かれる。冒頭の数行を読んだだけで、あなたは冬の北国の烈風を受け、物語に引き込まれていくだろう。

冬が襲つてきた、

他人に不意に平手で

激しく、頬を打たれたときのやうに、

しばらくは呆然と

自然も人間も佇んでゐた。

褐色の地肌は一晩のうちに

純白な雪をもつて、掩ひ隠くされ

鳥達はあわただしく空を往復し、

屋根の上の烏は赤い片脚で雪の上に

冷めたさうな身振りでとまつてゐた、

そして片足をせはしく

羽の間に、入れたり出したりしてゐる。


 叙事詩は西欧では古代ギリシアの昔から書き続けられてきたが、日本ではついに太い伝統をもつことのなかった文学形式である。現代でも、大半の人が「詩=抒情詩」と見なしていることだろう。このことには和歌や俳句の伝統が影響していると見ることができるが、しかし詩を短詩型、それも情緒的なものに限ってしまうのはあきらかな偏見であり、偏向である。

 そんな思いが雪の風景からよみがえってくる。


2026年2月7日土曜日

最後の胡弓弾き

 




 新美南吉に「最後の胡弓弾き」という小説がある。かつての村々の旧正月、腕のたつ農民たちの小遣い稼ぎになっていた胡弓と鼓による門付けが消えていくさまを描いた、童話というよりは大人向けの小説に近い作品である。

 子供のときから胡弓が好きでたまらなかった一人の男を通して、作者は文明の波に洗われる社会に置かれた伝統的な楽器と芸の運命をいとおしむように描く。読んでいると、人が時間とともに老い、死んでいくように、古くから受け継がれてきた文化にも寿命があることがいやおうなく感じられて、しみじみとした気持ちになる。



 ところで、ここでいう「胡弓」は日本の楽器である。形状は三味線に似ていて、棹がだいぶ短い。絃は3本または4本。これを馬の尻尾の毛でつくった長い弓で弾く。邦楽器としては唯一の擦弦楽器だという。

 うかつなことに、この小説を読むまで、そのことは全く知らなかった。胡弓と聞いて思い浮かぶのは、二胡など、もっぱら中国の楽器のほうである。おそらくは中国から朝鮮経由で渡ってきたものがもとになっているのだろうが、江戸時代初期から広く使われたそうである。

 そうとわかると、胡弓の音を一度ぜひとも聞きたいという思いがつのってきた。しかし、いまとなっては、博物館の類に陳列されているだけで、弾き手はとっくの昔に絶えただろう。そう思って、半分あきらめていた。


浅草で胡弓を聴いた

 そんな胡弓を聴く機会がめぐってきたのは、いまから36年前、1990年4月20日のことだった。ところは浅草、隅田川沿いのアサヒビール。胡弓の音はそこのロビーで開かれた、「糸」というバンドのコンサートのステージから聞こえてきた。

 「糸」は、三絃を弾く高田和子が呼びかけて賛同者を集め、ピアニスト・作曲家の高橋悠治をリーダーとして発足したバンド。6人編成で、楽器は三味線(細棹)、三味線(太棹)、笙、三絃琴、一絃琴、それに打楽器から構成されている。アフリカや中近東のものらしい打楽器を除けばすべてが邦楽器という点に、その特徴はある。

 200人ほどの聴衆がつめかけた広々としたロビーの隅につくられた特設ステージから最初に響いてきたのは、邦楽の古典曲「阿古屋琴責」。古典といってもしかつめらしい感じの全くない、ところどころにはさみこまれる台詞がどっと笑いを誘ういわば「戯れ」を核とした曲だが、胡弓が使われたのはこの曲でだった。


 残念ながら胡弓の演奏はほんのさわり程度だったが、それだけでも音の形ははっきりとわかる。予想していた通り、「すすり泣く」といった感じの音色が特色である。「のんびりしたような、また物哀しいような音色」と、南吉は書いている。

 もっとも、この夜のコンサートでは、胡弓の音に感心したり聴きほれていたりする暇はなかった。古典のあとには、現代曲が次々に続く。それも、子供の遊びに題材をとった曲あり、ギリシャ系のリズムが生き生きとした表情をつくり出す曲ありの多彩さ。休憩をはさんで2時間弱、たっぷり楽しませてもらった一夜だった。


2026年2月6日金曜日

冬の明かり、人生苦境の明かり

 


 冬の都会の情景でいちばん好きなのは、夜の果物屋の明かりである。いくら季節感が薄れたとはいっても、この時期の主役は柑橘類だから、白熱灯に照らされた店頭は温かい橙色に輝く。それがこよなく美しい。

 渋谷の事務所に通っていた頃だから40年ほど前、毎日の乗り換え駅である明大前の京王線下りホームのすぐ斜め下に一軒の果物屋があった。いつも老人が一人店番をしていて、夏も冬も入り口の戸は開けはなったまま、小さな椅子に腰を下ろして雑誌か何かを読んでいた。まるで絵本の一場面のようだった。

 ことに冬の夜、寒風に吹きさらされながら、ふと目をやる。暗い路地の中、そこだけは明るくて温かくて、何やらほのぼのとした思いでながめた。

 その店はもうない。建物はいまもそのまま残っているはずだが、看板はインテリアか何かの事務所に変わっているだろう。例の老人が亡くなったのを機に店じまいしたのではないかと想像してみるが、事実はわからない。


苦境からの出口を照らしてくれた歌

 冬の暗がりは、人間の心でいえば「苦境」に相当するだろう。どんな人でも一生というのは山あり谷ありだが、80年近く生きてくればさすがに苦境の二度や三度は経験している。先が全く見えなくて、本当の闇を実感したこともある。

 ほぼ30年前、そういう時期に救いの神となってくれたアルバムがある。かつて「ブルースの女王」と呼ばれた、しかし本質的には魅力的なジャズ・シンガーのダイナ・ワシントンがエマーシー・レーベルに残した傑作『DINAH JAMS(ダイナ・ワシントン・ウィズ・クリフォード・ブラウン)』である。


 1954年の夏にロサンジェルスのキャピトル・スタジオで行われたおよそ20時間のマラソン・ジャムセッションの一部を記録したこのアルバムは、オリジナルが長らく廃盤になっていたあと、60年代末にクリフォード・ブラウンのアルバムとしてライムライト・レーベルから再発された。ライムライトが消滅してのち、一時期は再び入手困難になったが、いまはまたCDでリリースされている。

 それこそ女王様然としたダイナを囲んで10人のジャズマンが「バトル」の名にふさわしいアドリブ・プレイをぶつけ合う典型的なジャムで、マックス・ローチ(彼はたった一人のドラマーとしてこのロング・ジャムを支えた)のドライブ感豊かなリズムに乗せられるようにして、鋭く華やかな音が炸裂する。ブラウンにクラーク・テリー、メイナード・ファーガスン……冒頭の「恋人よ我に帰れ」をはじめ、この3人のトランペッターがしのぎを削るさまが、ことに大きな聴きものだろう。

 しかしながら、中心はやはり女王様なのである。特に、3曲が続く2トラック目の最後の「降っても晴れても」。スタンダードが好きな人にはおなじみの曲だが、途中、ダイナが不意に歌声に力をこめると、客席がわっと沸き立ち、声がかかる。オーディオの前で聴いているこちらも同じで、録音から45年もたつというのに、あるいは自分自身の最初の出合いからも早30年以上がたつというのに、いまもって心が熱くなり、ジャムの現場に立ち会っているような昂揚感におそわれる。

 Days may be cloudy or sunny

 Within or without of the money

 But I'm with you always

 I'm with you

 Come rain or come shine


 振り返れば、この歌声があのとき、小さな出口を照らし出してくれたのだった。

2026年2月5日木曜日

禁煙先生に再会

 


 エーリヒ・ケストナーの『飛ぶ教室』を再読する。

 わが家から徒歩で7分ほどにある市立図書館を利用することが、この頃はとても多い。狭い敷地に建つ小さな図書館の蔵書はお世辞にも充実しているとはいいにくいが、児童書の部屋だけは例外である。いくらでも読みたい本があって、この1冊もそこから借りてきた。

 床をかけまわる小さな子供たちの間をぬうようにして本を探すのはいささか神経を使うが、テーブルセットが置かれていて、そこはとても落ち着く。子供たちがわいわい言う声も不思議に気にならない。

 それにしても、子連れではなく、大人だけの来館者の姿をこのコーナーで見つけることが少ないのは、なぜだろう。児童書はけっして子供だけのものではない。大人になってから読むと、子供の頃に読んだ同じ本がまったく違った気持ちで読める。それに、大人向けの小説とは違って、すぐれた児童書は繰り返し読んでも飽きることがない。


 『飛ぶ教室』は寄宿制度の男子学校ギムナジウムの少年たちの物語で、まえがきでケストナー自身が語っているとおり、けっして楽しいことばかりではない少年時代があたたかい筆致で丁寧に描き出される。小説を読む価値の1つはこの世の中にはいろいろな人たちがいろいろな境遇と思いをもちつつ生きていて、その人たちのことを現実の生活にもまして身近に思いやることができることにあるが、この作品はそういった経験を深く味わわせてくれる。

 楽しさと悲しさの両極を代表する存在として、この物語中の人物では、僕はいつも腹をすかしてばかりいるボクサー志望の少年マチアスと、禁煙車だった車輌を改造してそこに住み、菜園の世話と草の上の読書に明け暮れる禁煙先生が好きである。何度読んでも、実際の友人や知人以上の親しさを彼らに感ずる。

 禁煙先生は教師ではなくて、もともとは医者。妻と子を失ったために絶望してあちこちをさまよい、最後に懐かしい母校の近くに戻ってきたという経歴の人物である。物語に描かれる「現在」の彼は、医者はとうに廃業していて、酒場でピアノを弾いて生計を立てている。


酒場のピアノ弾きサティ

 そのせいだろうか、禁煙先生の人となりを作中に追っていると、僕はいつのまにかエリック・サティの像をそこに重ね合わせることになる。生涯独身をつらぬいたサティもまた、子供好きではあったけれど家庭をもつことはついになく、禁煙先生の後半生と同じくキャバレーのピアノ弾きをしながら静かにひっそりと暮らし続けた人である。



 サティに「官僚的なソナチネ」というピアノ曲がある。その名のとおり、クレメンティのソナチネのいくつかのフレーズを題材に、サティらしいスパイスを加えたコラージュ作品で、はずむような曲調だからうっかりするとあっさり聴き流してしまいがちだが、単なる手慰みでつくった小品ではけっしてない。

 ことに3つ目のパート「ヴィヴァーチェ」に著しいが、わずか1分ちょっとの曲中でテンポは不意に変わり、めまぐるしく変転する。そこから聴こえてくるのは、教師に命じられるままにしかつめらしく弾くソナチネではなく、鍵盤の上でたっぷり悪戯する遊びの音楽である。

 少年の頃はいやいや鍵盤に向かわされただろうサティと、大人になってむしろ子供にもどりはしゃぐように鍵盤に指を踊らせるサティとが、音の間から交互に見えかくれする気がする。

2026年2月4日水曜日

路地を歩く音

 


 ある町が魅力的かどうかは路地の存在にかかっている、と思っている。

 いまは千葉花見川団地住まいだけれど、人工の町であるここには、当然ながら路地なんてものはない。細い道がたくさんあっても、それらはただの通路だ。

 その点で対照的なのは、やはり東京の下町だろう。寺が上野なので、彼岸の折りなどに稲荷町の界隈を歩く。路地に入ると鉢植えがひっそり並ぶ光景もいまだあり、故郷にもどった心地がする。ただし、自営業が多いので、建物はコンクリートばかりである。


 いつかの夏、京都の裏通りを歩いた。さすがに古い家並が残されていて、気持ちが落ち着く。ここで暮らせるといいのにと思ったが、唯一の不満は、裏通りといえども整然とつくられていて、迷路の魅力に欠けることだろうか。

 路地はやはり迷路をなしているほうがいい。


サティを聴いた「自転車屋」

 昔、世田谷は松原の裏通りを歩いていて、ピアノの音に思わず足を止めたことがある。どこかの家で弾いているにしては巧みすぎると思ったら、住宅街の一角、マンションの半地下が酒場になっていて、そこから洩れてくるのだった。それが「自転車屋」という店だった。

 しばらくその「自転車屋」に通うことになったが、店主の好みなのか、サティばかりかかっている店だった。「ジムノペディ」や「グノシェンヌ」をはじめて聴いたのはここである。

 深夜、看板になった店を出ると通りには人っ子ひとりない。近くだから通りを歩きはじめると、自分の歩く音が森閑としたあたりに響き、その音にさっきまでのピアノの音の記憶が重なる。

 48年ほど前だろうか、いまは亡き秋山邦晴氏が雑誌『MORE』の巻頭コラムでサティのピアノ曲にふれて「モンマルティの歩道を歩くサティの足音だ」と書いていた。僕にとっても、自転車屋への行き帰り以来、サティの音楽は路地を歩く音になった。

2026年2月3日火曜日

グールドを読む

 


 生来、整理整頓は苦手である。おまけに、ものをよくなくす。小学校5年のときだったか、学校へ行く途中、教科書代として渡された500円札をなくしたときのショックは、68年が過ぎたいまでも忘れない。

 わが輩の辞書には「整理整頓」はある。「管理」もある。だが、実行不能の死語として登録されているのだ。


 ここ1週間ほどは、HD中にあったはずのファイルの紛失で右往左往した。

 数年前に更新を中断した「20世紀音楽の死物語」をnote上で再構築しようという考えがひらめいて素材を整理していたところ、山下セイジ君による肖像画イラストがあらかたなくなっているのに気づいたことが、そもそもの発端だった。イラストファイルは幸いにも山下君がすべて保存していて、それらを送ってもらってとりあえずは一件落着。と思ったら、3日ほど前、テキストファイルの1つが欠けていることがわかった。グレン・グールドについて書いた一文だ。

 わがMacにはバックアップ用を含めてHDが3台つないであるが、検索をかけてもヒットなし。新たに書き起こすしかない、という結論に達して、図書館から参考文献として5冊を借りた。


グレン・グールドという人物

 グレン・グールドは「奇矯の人」である。1955年6月、『ゴールドベルク変奏曲』のレコーディングのためにニューヨークを訪れたとき、彼はウールの帽子に厚手のウールのオーヴァーコートとマフラー、両手には同じくウールの手袋といういでたちだったという挿話が広く知られているが、それ以外にも食事のメニューはオレンジ・ジュースとビスケットだったとか、友人との長電話を好んでしたが、自分からはかけても友人がかけてくることは許さなかったとか、変人ぶりには事欠かない。

 そんなグールドのキャラクターを、漱石『草枕』を除く4冊はたっぷり再確認させてくれた。


 といった次第で、昨日の午後、テキストエディターを起動し、さあ書くぞと画面に向かったのだが、そのとき何となく気になって、HD内の「書類」フォルダをあらためて開いてみた。すると、3階層ほど下に「山下君送付済み」というフォルダがあるのに気づいた。開く……あった、「グレン・グールド Glenn Gould」という名前のテキストファイルが。

 どっと疲れを感じたが、気持ちは高揚している。


2026年2月2日月曜日

田村義也さんの装幀


 

 図書館に予約した『添田唖蝉坊・知道著作集』が届いた。千葉市立図書館には残念ながら全巻は蔵書されていなくて、全4+別巻のうちの3冊。なぜに全部揃えないんだよと思うが、ま、よしとしよう。

 ブルーのオーバーオールを着た中年の図書館員がにっこり笑って持ってきてくれた3冊を見た瞬間、背文字を見てひらめいた。あ、装丁は田村さんだ、と。

 それほどに個性的なデザインで、個人的に縁のある新宿書房刊の書籍の多くもこの人が手がけている。田村義也。岩波書店編集部員にして装丁家。僕が岩波にいたときは上司。といっても、直接の仕事の担当には関わりはなく、同じ編集部内の先輩という位置づけだった。

 入社してまもなくは僕は郵便係だったので、郵便物を出す際などによく話しかけられた。一時期雑誌『世界』の編集長だったと思うが、よく覚えていない。

 装幀家としての仕事は、2008年に武蔵野美術大学美術資料図書館から刊行された『背文字が呼んでいる』(https://nostos.jp/archives/299053?srsltid=AfmBOoryQd8bhc5QDk2YPkfZr3V-7XcU2licPzHF0bFbVFkdtB7xm24z)に集約されている。



給料二重取りの怪

 フランクな人だった。岩波には年がら年中しかめっ面という人が少なくなかったが、その反対。表情はいつも穏やかで、静かな声でぼそりぼそりと語りかけてくる。高卒で入社した若僧にとっては、気持良く接しられる人だった。

 その田村さんがとんでもない人物であるのを知ったのは、30年ほど前。岩波同期の友人からだった。もう物故されたからかまわないと思うが、いつの時期からか、田村さんは岩波に籍がありながら大学で教鞭をとるようになり、ほとんど社に出勤することなく教壇に集中した。給料はもちろん二重どりだ。

  いまは副業が許される時代だし、いまさらそれをどうこう言うつもりはないが、同期の友人はこう悲鳴を洩らした。「本の内容に何か問題が出てくる。ところが、担当の田村さんはめったに出社しないんだよなあ。緊急事態のときは大学に電話したよ」

 大きな文字をど〜んと配置する田村さんのブックデザインを見ていると、そんな氏の生き方がここに投影されている気がする。

 田村さんが黄泉の国へ旅立ったのは、2003年の2月だった。


2026年2月1日日曜日

ガルボの顔

 


 『柿の種』の主人は、映画が好きだった。映画について書かれたものだけで、優に1冊編めるだけのエッセイが残されている。

 『柿の種』にもこんな記述がある。


 グレタ・ガルボ主演の「接吻」というのを見たが、編輯のうまいと思うところが数箇所あった。

 たとえば、惨劇の始まろうとする始めだけ見せ、ドアーの外へカメラと観客を追い出した後に、締まった扉だけを暫時見せる。

 次には電話器だけが大写しに出る。

 それが、どうしたのかと思うほど長く写し出される。

 これはヒロインの蹰躇(ちゅうちょ)の心理を表わすものであろう。

 実際に扉の中で起こったはずの惨劇の結果――横たわる死骸――は、後巻で証拠物件を並べた陳列棚の中の現場写真で、ほんのちらと見せるだけである。

 もっとも、こんなふうな簡単に説明できるような細工にはほんとうのうまみはないので、この映画の監督のジャック・フェイダーの芸術は、むしろ、こんなふうには到底説明する事のできないような微細なところにあるようである。

 クローズアップのガルボの顔のいろいろの表情を交互に映出するしかたなどでもかなりうまい。


文学論とガルボの顔

 ずいぶん昔のことになるが、文学を論じた本の中で「ガルボの顔」という一文を読んだ記憶がある。ロラン・バルトの『零度の文学』ではなかったかと思う。

 あいにく本はもう手元にないので確認できないが、これとあわせて、『接吻』なる映画をぜひ見たいと思った。