岡本綺堂の随筆集『綺堂むかし語り』を読む。
綺堂の随筆をまとまった形で読むのは久しぶり。半七捕物帳についてちょいと知りたいことがあってページを開いたのだが、そもそもの目的はどこへやら、関係のない話にずんずん引き込まれた。
「獅子舞」という、ごくごく短い一篇がある。綺堂がまだ子供だった頃、町内に宮内庁に勤める人があって、その人は毎年正月になると本物の獅子舞(これは5〜6人の集団で、踊りをつけたりかなり大がかりにやったものらしい)を呼び入れ、そればかりか近所の子供を邸に呼び入れて見物させたという話である。
30年住み続けた東京麹町の元園町の来し方をふりかえりつつ綺堂は書く。
「元園町は年毎に栄えてゆくと同時に、獅子を呼んで子供に見せてやろうなどと云うのんびりした人は、だんだんに亡びてしまった。口を明いて獅子を見ているような奴は、いちがいに馬鹿だと罵られる世の中となった。眉が険しく、眼が鋭い今の元園町人は、獅子舞を見るべく余りに怜悧(りこう)になった」
これが書かれたのは、明治40年代である。現代のわれわれにはただ想像してみるだけの遠い昔だが、その頃すでに東京の町で暮らす人々の顔つきは相当にけわしくなっていたことがわかる。綺堂は明治5年の生まれだが、外見はともかく内面的には江戸人そのものだった明治20年代頃までとそれ以後の東京人の間にある否定しがたい変化を、彼はそこに見ているのだろう。
これを現代に移しかえれば、昨今の東京人の顔つきなど、おそらくは綺堂が見たら、ほんの一瞥、卒倒しかねないだろうという気がする。
騒々しくてめまぐるしい、何をするにも金のかかる現代がそこに投影しているわけだが、これはただ生きていくだけでものすごく疲れる時代である。なんとか耐えてはいるが、ときには暴発しそうになる。最近アメリカで連続している無差別乱射事件犯の心理は、案外このわれわれの内側にも潜んでいるのではないか。
しかし、疲れたらどこかに逃避するしかない。さしあたって手軽に見つけられる逃避先は、古い時代の音楽だろうか。
古楽という新しい音楽
すっかり無気力になっているくせになぜか気分だけがいらだつとき、この頃きまって聴くものの1つに、クリストファー・ウィルソンの『ダラクィラ/ダ・クレマ:リチェルカーレ集』(Naxos)がある。16世紀イタリアのリュート曲を集めたもので、囁くような静かな響きが耳に心地よい。
リュートは演奏時間より調弦時間のほうが長いといわれるほどに狂いの激しい楽器で、しかも小さな音しか出ないために音楽の表舞台から姿を消した。しかし、そのマイナスの特性が騒がしい現代にはプラスに転化する。
この音楽はまちがってもボリュームを上げて聴いてはいけない。小さな音に寄り添うようにして聴く。すると、そこだけは澄みわたった空間が自分の中に少しずつ広がっていくのが、確実に体感できるだろう。
古楽は現代人にとっては時空を超えて届く「新しい音楽」である。





































