2026年1月31日土曜日

水の落ちる先から戻ってこい、ひがしのひとしよ

 


 耳の病のために音楽を聴いて楽しむことができなくなって、かれこれ2年。それでも音楽への執着心はあって、記憶を探っては過去の音楽体験、ライブ体験を想い起こしている。

 そんな日々のなか、記憶の底からふっと甦ってきた1シーンがある。場所は東京池袋のバー。カウンターだけの小さな店だが、そのカウンターの中にギターを抱えた男が一人いる。ひがしのひとしだ。

 最小スケールのライブと言っていいその夜のことが深く記憶に刻まれているのは、長い人生の中でも稀な不思議ライブだったからである。

 何が不思議なのか。ひがしの君の態度と行動の問題だ。カウンター内のひがしの君の目の前のカウンター席には、若くはないが、すこぶる魅力的な女性がいた。すると、その女性の存在を意識したのだろう、ひがしの君は突然に猥談を始めた。その女性を含めて、会場にいた10数名の客は笑い転げた。猥談は、ひがしの君の「照れ」から生まれて来たものだとわかっていたからだ。

 アルバム『水の記憶』が録音されていた2002年のことだったと思う。


『水の記憶』はかくして生まれた

 ひがしのひとしの歌にはじめて接したのは、1997年、京都拾得恒例の七夕コンサートでだった。その年、レナード・コーエンのファースト・アルバムがCD化されることになった。オリジナルのアナログ盤のライナーノーツの筆者は僕。流用の依頼がきたが、断って新しく一文を書いた。できあがった盤には、三浦久さんによる訳詞が載っていた。数週間後、その三浦さんから手紙が来た。僕は長野県辰野町の三浦宅を訪問した。そこで七夕コンサートのことを知った、という成り行きである。

 実際には娘を含めた家族で観に行ったのだが、吸いこまれた、ひがしのひとしの歌に。そのとき彼が何を歌ったのかは記憶にないが、聴き始めてすぐにブラッサンスの影響濃い歌だなと思った。後日、そのことを三浦さんにメールで伝えた。すると、三浦さんはそのことをひがしの君に伝えた。「プロの聴き手というのがいるんですねえ」と言ったそうな。


 ひがしの君と親しくなったのはそういう経緯あってのことだが、実際に会うのは年に一度の七夕コンサートでだった。1998年の七コンのある場面が思い浮かぶ。僕は日頃可能であればライブはリハーサルから観させてもらうことにしていて、その日も開演前に拾得に入った。すると、会場の隅にいたひがしの君が駆け寄ってきた。そして僕に抱きつく。前年の一言がよほど嬉しかったらしい。

 同じ夏だったか、ある日、渋谷にあった僕の事務所にオフノート・レーベルの主宰者神谷一義君がやってきた。上野茂都君を伴っていて、たまたま渋谷に来たのでご挨拶という次第だった。もうすぐ夜という時刻だったので、裏手にある中国料理店で食事となった。そのとき、僕はふとひがしの君が拾得のステージで放ったメッセージを思い出した。何かというと、彼は「これからCDを4作自主制作する」と高らかに宣言したのだ。

 僕はそのことを神谷君に話した。神谷君は身を乗り出して、「ひがしのさんって、ブラッサンスの人ですよね。ブラッサンスの曲でアルバムを作れるといいな」と言った。そして後日、ひがしの君に連絡をとった。やがて、それは『水の記憶』の制作へとつながっていくことになる。


 『水の記憶』は、2003年5月18日にリリースされた。売れ行きについては知らないが、アルバムとしての評価は高かった。僕自身、夢中になって聴いた、聴き惚れた。

 それから9年を経た2014年5月14日の夜、家の電話が鳴った。出ると、七夕コンサートの仲間である歌い手、古川豪君だった。彼は言った、「ひがしのが死んだ、肺炎だ」僕は受話器を耳にあててただただ呆然とするばかりだった。

2026年1月30日金曜日

寺田寅彦『柿の種』再読

 


 久しぶり、寺田寅彦『柿の種』を読む。

 あらためて気づいたことだが、こんな詩のようなメモのような一文が巻頭にある。


 棄てた一粒の柿の種

 生えるも生えぬも

 甘いも渋いも

 畑の土のよしあし


 読んで、農業にいそしむ人々を思い浮かべた。米を作る人々は、「米を作る」とは言わない、「田を作る」と言う。農産物はみな土壌に育ち、実る。人にできることは、その土壌を耕すことであって、それ以上ではない。


 『柿の種』にしても、小著ではあるが、僕には肥沃な土壌のようなものだ。田を作るように再度読んでいこう。


家に大黒柱はありやなしや

 親類が8歳の男の子を連れて家を訪ねてきた挿話が載っている。


 男の子はしばらくすると縁側に出て、そこに立つ柱にするするとのぼる。親が叱ると、今度はするするとすべり下りて、座布団の上に端座した。


 それだけの話だが、妙に心に残る。自分の子供の頃を振り返っても、元気の良さと行儀の良さは同居していて、本能的に使い分けていた気がする。実際、親友のNの家で「いつもきちんと座って、お行儀がいいわねえ」と、Nの母親に褒められたことがある。だが、日常のほとんどの場面ではあばれまわっていた。それが子供というものだろうと思う。

 寺田寅彦は静かでおとなしい子供だったらしく、この子をうらやましがっているが、庶民の家に生まれた男の子は寺田とは大いに違っていたはずだ。


 ついでながら柱で思い浮かぶのが、2013年の伊豆大島の被災に関する話。家の大黒柱につかまって難を逃れた人がずいぶんいたという。

 建築には詳しくないが、いまは壁面で支え、大黒柱などない家が多いのではないか。そういう家では、何を大黒柱の代わりにするのだろうと思った。


2026年1月29日木曜日

山崎ハコ・三上寛の時代だった

 


 1970年代後半の日本の音楽シーンは、「山崎ハコの時代」であると同時に「山崎ハコ・三上寛の時代」だった。あれはいつだったろうか、僕がただ1回観た山崎ハコのコンサートの終了後だ、会場を出てエスカレーターで降りかけたとき、偶然相倉久人さんと一緒になった。とっさに氏に自分の考えを伝えると、「そうだね」という返事をいただいた。

 三上寛もまた青森県五所川原から東京へと流れてきた人である。上京するそもそものきっかけは冤罪。高卒後青森県警に採用されて入学した警察学校で盗みをはたらいたという疑いをもたれ、退学。詩人になる夢を抱いて東京に出た。1969年のことだ。そして、翌1970年にライブハウスで歌手デビューをする。


 個人的には、残念ながら70年代に三上寛をライブで体験する機会はなかった。しかし、アルバムはよく聴いた。なかでも最も多量の時間を費やすこととなったのが、『夕焼けの記憶から/三上寛・青森ライヴ』(1977)。青森のライブハウス「だびよん劇場」でのライブ収録で、ステージから客席へ、客席からステージへと津軽弁が飛び交う。それとともに歌は白熱する。

 聴くのはたいてい深夜で、だからボリュームは相当に絞ったはずだが、気持ちは聴けば聴くほど昂ぶった。


三上寛と呑んだ一夜

 三上寛には一度だけじかに接したことがある。1975年頃ではないかと思うが、ところは新宿にあったバー「ジャックの豆の木」。山下洋輔トリオのマネージャーだった柏原卓が経営する店で、タモリの東京デビューの場となったり、知る人ぞ知る名物バーである。

 そのときのことは、おぼろげながらも覚えている。雑誌『毎日グラフ』の編集者に連れられて店に入ると、カウンター席にカメラマンの浅井愼平がいて、ギターを弾いていた。『毎日グラフ』の編集者とは旧知の仲だから、僕も含めてしばしの談笑となった。

 すると、そこへ三上寛が入ってきた。その姿を見た浅井愼平はさっと立ち上がって店を出て行く。その理由はあとになってわかるが、僕らは今度は三上寛とのおしゃべりを続けることとなった。


 それから小一時間呑んだ頃合いだったろうか、三上寛が「一緒に別の店に行こう」と言う。嫌も応もなく、連れだって店を出た。着いた先は歌舞伎町のお座敷バーだった。

 それからのことは断片的にしか覚えていないが、相当に酔いがまわっていたのだろう、三上寛が突然立ち上がり、着ているものを脱ぎはじめた。そして、素っ裸になるやいなや、近くにいる女性の客に近づき、抱きつく。「キャーッ」という悲鳴が上がった。

 夢でも幻でもなく、本当に目の前で起きた出来事だ。

2026年1月28日水曜日

「望郷」から51年が過ぎた

 


 YouTubeで山崎ハコの『飛・び・ま・す』を聴く。かれこれ40年ぶりだろうか。冒頭「望郷」に吸いこまれた。


 アルバムのリリースは1975年。1970年代後半の数年は、「山崎ハコの時代」だった。小さな体を振り絞るようにして歌われる歌の数々が、時の若者たちの心に深く浸透した。その時28歳の僕もまた同様だった。なかんずく「望郷」に泣いた。

 「望郷」は、深夜放送から広まった。林美雄のパック・イン・ミュージック、通称みどりブタパック。その頃深夜放送を聴くことの多かった僕も、この番組で出合った。

 深夜放送の売り物の1つは聴取者からの投稿だったが、ある夜の投稿がいまも記憶にのこっている。「ぼくは『望郷』が嫌いだ。なのに、聴けば聴くほど泣けてくる」そういうアンビバレンスを招く歌だった。


地方から都会への流浪の時代

 山崎ハコは大分県日田市の出身。「望郷」でも日田で過ごした少女時代の思い出が歌われる。みどりブタパックだったろう、同郷の阿奈井文彦との対談があった。近頃はもっぱら「進撃の巨人」との関連で語られる町だが、複数の山脈に囲まれた盆地で、霧深い土地である。

 山崎・阿奈井対談でも霧の話が出た。山崎ハコが「ああ……」と深い溜息とともに万感の思いを吐露したのが思い出される。それはまさしく望郷の溜息だった。


 「望郷」の主題は、故郷を離れて来た都会の孤独である。

淋しくて悲しくて 出て来た横浜

やさしいと思っても みんな他人さ


 歌われているのは実体験で、山崎ハコは1973年4月、大分から横浜に出て来た。霧深い故郷から移り住んだ先は賑やかな都会だったが、しかし「他人の街」だった。

 時は少し遡るが、永山則夫のことが思い浮かぶ。永山は1965年3月、集団就職で青森県北津軽郡板柳町から東京に出た。しかし、慣れない都会生活の中で被害妄想にとりつかれて孤立する。そして1968年10〜11月、東京・京都・北海道・愛知で拳銃を用いて男性4人を射殺する。


 同時代、集団就職で都会に出たもう一人の存在が連想される。1960年、母親の郷里鹿児島で中学を卒業、大阪に出た森進一だ。大阪では最初に寿司店に勤めたが、人間関係になじめず1か月で退職。その後、17回も職を替えた。永山則夫同様、母子家庭で育った過去を持ち、人づきあいが不得手だった。

 森進一の歌声に見え隠れする深い孤独感は、そんな経験と内面に発したものか。


 1960〜70年代初頭は、多くの人々が流浪する時代だった。「望郷」は、その時代をしめくくる最後の響きだったのかもしれない。

2026年1月27日火曜日

ハードディスクが壊れた

 


 MacにはTime Machineというデータ・バックアップ機能が標準で組み込まれていて、ハードディスクに記録された全データを1時間ごとに外付けの別HDに自動保存する。進行中の書籍制作のデータなど万が一にも消えたら取り返しのつかない事態になるから、一種の保険として重宝してきた。

 ところが、そのTime Machineが1か月ほど前から不安定になった。「バックアップに失敗しました」というアラートが、頻繁に出るのだ。2台あるMacのうちメインで使っているのはMac-OS10.12、16年も前の古いシステムなので、さすがにまともな動作はできなくなってきたのだなと思っていた。


 ところが一昨日、Macをスリープから復帰させると、画面には「ディスクの不法取り出しです」というアラートが。よく見ると、バックアップ用HDのアイコンが消えている。そうか、とやっと気づいた、パックアップ失敗の原因は、HDにありと。

 そのあと、USBを抜いたり挿したりを繰り返すと、HDのアイコンは再度マウントされた。だが、ディスクを開くと、中身が空のフォルダが散乱している。これを見て、お役御免ということにした。


きわどく消滅をまぬがれた『ボブ・ディラン読本』

 Macを使い始めたのは1990年の12月だが、当時のHDは不安定で、40Mb(Gbではない)の内蔵ディスクは2か月ほどでクラッシュした。復旧の目処が立たないので家の近くのMacショップで当時としては大容量の170Mbの外付けHDを買った。150,000円ほどだった。

 以後はさしたるトラブルもなく何台も代替わりしたMacは動き続けたが、2012年になって再びクラッシュが起きた。幸いにも、進行中の書籍制作のデータをUSBメモリにコピーした直後だった。


 制作進行中の書籍とは、ムック『ボブ・ディラン読本』(音楽出版社)である。後日、監修者の菅野ヘッケルにそのことをメールで伝えると、「Macのまるごとバックアップはとってなかったの? バカだなあ」と笑われた。

 2012年12月、本は無事発行にこぎつけた。14年後のいまとなってはとうに品切れ絶版の1冊だが、ネットで検索すると、いくつかのサイトで在庫表示される。Amazonは中古本で580円。ブックオフではなぜか新本で、2,050円だ。

2026年1月26日月曜日

記憶から浮かび上がる古い歌

 


 古い歌が記憶の底から不意に浮かび上がってくることがある。


We had an apartment in the city

Me and Loretta liked living there

Well, it'd been years since the kids had grown

A life of their own left us alone


 ジョン・プラインの「ハロー・イン・ゼア」。記憶から呼び覚まされた歌は、コーラス部分へと続く。


You know that old trees just grow stronger

And old rivers grow wilder every day

Old people just grow lonesome

Waiting for someone to say, "Hello in there, hello"


 この曲を含むアルバム『ジョン・プライン』がリリースされたのは1971年。ただし、日本盤はそれより1年ほど後だったか。プライン第2作目の『原石のダイアモンド』(1972)が日本では先に出、それに続けてのリリースだったと思う。

 いずれにしても、そのとき僕は20代半ば。老人の孤独を歌ったこの歌に敏感に反応しはしたが、それはどこかしら他人事だった。

 時移って現2026年、僕はもうすぐ79歳を迎えようとしている。そして、「ねえ、古木はどんどん逞しくなる/古い川は日毎に川幅を増す/老人はただ寂しくなるだけだ/誰かが“やあこんにちは”と言ってくるのを待ちながら」というフレーズはまさしく自分自身のものとなった。こうして、古い歌は新しい歌になった。


「第二のボブ・ディラン」だって?

 プラインは「第二のボブ・ディラン」という惹句をふされてデビューした人である。しかし、「ハロー・イン・ゼア」1曲を見ただけでもディランとは異なるキャラクターの歌い手であることは明瞭だ。どちらかといえば抽象度の高い詞を多く歌ってきたディランとはちがい、プラインは市民生活の具体性に密着する。そうして、聴き手の心にどう生きていくかという問いを投げかける。僕がプラインに強く惹かれたのもその点ゆえだった。


 デビューから49年後の2020年4月、ジョン・プラインは新型コロナに感染して死んだ。74歳だった。


2026年1月25日日曜日

昨日の続きは『MORE』の話

 


 珈琲壱門へ原稿依頼に来た雑誌『MORE』の編集者はまだ若い女性だった。なかなかの美人。Tシャツ姿だった記憶があるから、夏だったろう。集英社を代表する女性誌の一つ『MORE』は1977年5月の創刊。その年の夏のことだったかもしれない。

 依頼されたのは、巻頭の1ページのコラム。ごく短い記事なのに、わざわざ自宅近くまで来てくれた。Eメールはもちろん、まだFAXさえなかった頃だから面談依頼は当たり前のことだったが、1ページの記事程度なら電話で済ますことが多かったはずだ。それなのに、著名なライターでもない僕を相手になぜ? いまもって、ちょっとした謎だ。


4000万円を超える赤字イベントの年

 1977年は、僕にとって4月に晴海埠頭で「ローリング・ココナツ・レヴュー」を開催した年である。約100名のミュージシャンをアメリカから招き、日本のミュージシャンを加えた総数は150名を超える3日間のビッグ・イベント。客の入りはよかったが、交通費・滞在費がかさみ、結果は4000万円を超える赤字となった。

 49年が過ぎた今、そのとき何を書いたのかは全く記憶にないのだが、『MORE』からの依頼はココナツと関連していたかもしれない。


 4000万円を超える赤字の大半は泉谷しげるの事務所、パパ・ソングスが背負った。主催側の代表であった僕にも、400万円を超える国際電話料の支払い義務が生じた。裁判になったが、裁判官の手配で示談。3年36ヵ月の分割払いという結論になった。

 それからの3年は長かったが、定期収入のある仕事についたほうがいいという弁護士のアドバイスに従って小さな広告代理店でPR誌編集の職につき、毎月の給料からの支払いを続け、なんとかクリア。最後の支払月、結婚したばかりの女房と小躍りして喜び叫んだ夜が忘れられない。


 それから46年。僕が老いたのと同じく、雑誌『MORE』もやせ細った。販売部数は激減し、2025年秋、集英社は休刊を発表した。

2026年1月24日土曜日

ああ、松原へ戻りたい

 


 長時間歩くのが難しくなったのは、一昨年の8月31日、5年ぶりの痛風を発症してからだった。痛風の痛みは1か月ほど続き、痛みがひいてからも普通に歩くのは難しくなった。痛風によって膝の一部分が破壊されたのだと思える。

 それは、都内のあちこちにある懐かしい場所を再訪する計画を立てていたときだった。計画はすべてご破算。千葉市花見川区花見川1〜9街区のエリアから外に出ることはめったにない日々が始まった。


 再訪しようと思っていた場所の1つに世田谷線の松原駅周辺がある。かつて暮らした地域だ。

 28歳のときだから1975年。もちろんひとり暮らし。世田谷区松原4-24、「ヴィラ葉隠」という妙な名のアパートの1室を借りた。1階の1号室1DK。2年後の結婚をはさんで6年住んだ。


 6年もいたのに、引っ越しの日以前にこの1号室を訪ねてきたのは一人しかいない。松平維秋だ。仕事がらみではない。一緒に蕎麦屋へ行くためだ。

 蕎麦屋とは、茶そばで名高い「いな垣」。アパートから歩いて7〜8分ほどの場所にあった。世田谷区松原4-10でいまも営業している。古い屋敷の離れを店舗にしたのだろう、池のある中庭をもつ渋いつくりの店だ。



 7〜8年前に松平夫人だった洋子さんと再訪したが、松平維秋とよく通った時期とは蕎麦のつくりが全く変わっていた。彼と通った頃の蕎麦は田舎そばふうの太打ち。それが藪の太さになっていた。かつては明るい緑だった色も濃い緑。昔のほうがうまかった気がした。


「珈琲壱門」を思い出す

 「ヴィラ葉隠」の1DKはさすがに狭く、長く住み続けるのは無理だったが、松原には末永く住みたいと思っていた。エリアの大半は住宅地で、商業施設は駅前の10店ほどだけ。それでも、不便とは感じなかった。品揃えが充実したスーパーオオゼキがあったし、必要とあらば世田谷線で1駅隣の下高井戸で用が足せた。

 高級住宅が多いこともあって、人通りは少なく、静かだった。人通りが完全に絶えた夜更け、外に出ると身を包む夜気が心地良かった。そんな夜気の中を徒歩10分ほどの距離にある酒場「自転車屋」に何度か行ったことを思い出す。映画評論家の佐藤重臣が常連だった店だ。実際に同席したこともある。

 一方、駅前にはいまも記憶から去らない喫茶店が1つあった。「珈琲壱門」。マンション1階のごく小さな店だが、コーヒーはまことに美味。知的な風貌のオーナーご夫妻との会話も心地良かった。



 小うるさいBGMはない店だった気がする。いや、小さな音で流れていたかもしれない。エアコンは冷房専用で、冬の暖房は小さなガスストーブ1つだった。オレンジ色の小さな炎が懐かしい。そんな炎の前で、原稿依頼に来てくれた雑誌『MORE』の編集者と打ち合わせしたこともあったっけ。いや、あれは夏だった。


 店は、あれから45年を経たいまもある。ネットで見ると、90歳を超えたママさんが一人で続けているらしい。ご主人は亡くなられたのか。

 いますぐ松原へ戻りたいなあ。

2026年1月23日金曜日

飲み会の約束をして逝った門坂流

 

 何でもないありきたりのものなのに、記憶に深くしみこみ、妙に忘れがたい情景がある。いまとなっては正確な場所はわからないが、東京は町田市玉川学園の住宅地。小高い丘のてっぺんに建つ木造平屋のテラスから見た光景だ。眼下の下り坂には家々が立ち並び、立体感豊かな情景を作っている。映画のワンシーンのような魅力があった。

 その家の住人は門坂流。画家と呼ばれることが多いが、当時はまだイラストレーターが肩書だったと思う。そうして、初対面の僕は、彼にそのとき完成間近となっていた本『ディランにはじまる』のカバー絵を依頼した。1978年の1月だった。


 その後、門坂とは急速に親しくなっていくのだが、当時の彼は酒が飲めなかった。飲めないのではなく飲まなかったのかもしれないが、家を訪ねたそのときもビールで乾杯のお相手となったのは門坂夫人だった。

 ところが、それから2〜3年後、気づくと彼はいっぱしの呑んべえになっていた。何があったのかは知らない。その頃、彼と兄弟は町田市原町田の山の手に家を新築するのだが、訪ねると二階に広々としたアトリエがあり、その隅には日本酒の一升瓶が置かれていた。彼はほとんどアトリエにこもりきりの生活を続けていて、作業が一段落すると一杯という具合になっていたらしい。


 彼の家を訪ねるのは仕事ではなくもっぱらCDを貸しに届けるためだったが、アトリエにはコンパクトオーディオがあり、持って行ったCDから音楽を流し、それをBGMに一杯となるのがいつものことだった。アトリエの隅に電気コンロが置かれていて、そこでシシャモを焼きながらということもあった。


酒が身体をむしばんだか

 2000年代に入って5〜6年過ぎた頃からは互いに疎遠になり、会うことはほとんどなくなったが、時々電話連絡はしていた。パソコン音痴の彼にMacの操作方法を教える電話をよくした。きつい言い方をしたために反撥をくらうこともあった。2009年には、秋頃だったろうか、自分の作品を並べるWebサイトを作りたいというので相談に乗ったこともある。

 実際にはWebサイトは彼の友人のデザイナーが作ったのだが、彼はそのできばえがお気に召さなかったらしい。紆余曲折あって、サイトの作り直しの仕事が僕にまわってきた。完成は2010年の春だったろうか、門坂がスキャンした画像を素材に銅版画、水彩画、ペン画、鉛筆画、リトグラフ等々にページ分けした「門坂流ウェブギャラリー」が完成オープン。このときは、じかに会って乾杯した。


 しかし、いつの間にか多量に呑むようになっていた酒は、彼の身体をむしばみつつあったようだ。2013年、彼は倒れた。診断を受けると、胃癌だった。

 胃癌と判明した直後、彼から突然電話があった。病状を縷々説明したあと、彼は言った。「半年ぐらいで治ると思うよ。そのときは、どこかで飲み会をしようぜ」

 飲み会が実現することはなかった。2014年4月3日、まだ65歳の彼は逝った。


 「門坂流ウェブギャラリー」は、主が世を去って12年を経たいまもWeb上で動いている。

2026年1月22日木曜日

14年前の今日の日記

 


 中身がごちゃごちゃになったHDを整理していたら、14年前のWeb日記のファイルを見つけた。自分が書いたものなのに、読めばなんだか懐かしい。

 日記といっても日常生活のあれこれではなく、特定のキーワードから思いつく事柄を雑文形式で書いている。この日は、夭折したロック・ミュージシャンがテーマ。このテーマはやがてかつてWebで展開していた「20世紀音楽の死物語」へとつながっていく。

…………

●2012/1/21

[夭折]

シド・ヴィシャス=ヘロイン中毒、享年21

グラム・パースンズ=ドラッグ&アルコール中毒、享年26

ジム・モリソン=ドラッグ中毒で心臓麻痺、享年27

マイク・ブルームフィールド=ヘロイン中毒、享年38

ジョン・ボーナム=泥酔し吐瀉物で窒息、享年32

(企画メモから)


[生き急ぐ]

 1960年代後半以降のロックの歴史は、累々たる夭折死体で織りなされている。ドラッグそしてアルコール。ドラッグが圧倒的多数を占めるが、アルコールによる夭折も少なくない。ドラッグとアルコールの相乗効果が引き金になった場合もある。

 レッド・ツェッペリンのドラマー、ジョン・ボーナムにいたっては、スクリュードライバーをたて続けに40杯飲んだ。スクリュードライバーは、ジンを使うこともあるが、基本的にはウォッカとオレンジジュースのカクテルだ。口当たりのよさから、よこしまなやからは女性を意図的に酔わせるために使う。40杯飲むと、ウォッカのボトルで2本分ぐらいだろうか。いや、ウォッカの量が多めのカクテルなら、3本分はあるかもしれない。嘔吐したとき、睡眠中だったボーナムはもう身体的に反応できなくなっていたに違いない。嘔吐以前に、すでにほぼ死んでいたのだ。

 なぜ、かくも生き急ぐのか。個々それぞれの状況は異なるだろうが、多くに共通しているのは“意識を置き去りにして熱狂し、酩酊する音楽”の作り手だったということだ。人を覚醒させる音楽ではなかった。そこに鍵がある気がする。

 そんな彼らの死に至る経過が知りたくて、本の企画を1つこしらえた。版元に提出したら、検討してくれるという。企画が通るといいなと思う。自分で原稿を書きたいのは、“酩酊する音楽”とは無関係なニック・ドレイクやサンディ・デニーぐらいだけれど。サンディ・デニーは、常に気品と格調の高さを失うことのなかった歌とはうらはらに、実生活で酩酊し、自宅の階段を転げ落ちてお腹の中の胎児ともども逝ってしまったのだった。

 伝説によれば、ママス&パパスのママ・キャス・エリオットは、サンドイッチを喉につまらせ、窒息死したことになっている。本当とすれば、サンドイッチ殺人事件だぜ、おいおい。そのとき、ママ・キャス32歳。どんな経過だったのか、いやどんなサンドイッチだったのかぜひ知りたくなるが、事実は遺体の近くに食べかけのサンドイッチが残されていただけで、死因は心筋梗塞らしい。でもね、不謹慎を承知でいえば、「サンドイッチによる死」のほうがママ・キャスには似合う気がする。

 ママ・キャスは、やはりドラッグとアルコールで死んだジャニス・ジョプリンの熱烈な支持者でもあった。

2026年1月21日水曜日

生活保護受給者として天に昇った「いとうくん」

 


 京都をフランチャイズとするフォーク&ブルーズ・シンガー豊田勇造に「いとうくん」という歌がある。こんな詞が歌われる。


東京に一人友達がいる

阿佐ヶ谷のアパートで暮らしている

生まれも育ちも東京江戸っ子だから

「東」と言ったつもりが「しがし」に聞こえる

どんな風に育ったかそれは知らない

でもイギリスに留学したことがあるらしい

帰りに寄ったインドで何かを見てしまい

髪を長くのばして帰ってきたという


阿佐ヶ谷北口の商店街で

古本屋をやってたことがあったね

夕方になったら誰かがやって来て

酒盛りの始まる店だった


 東京吉祥寺のライブハウス「マンダラ2」で年に数回開かれる豊田勇造ライブをはじめて観たのは1997年だが、その客席からひときわ甲高い声でやじを飛ばす男がいた。それがこの「いとうくん」だった。

 「いとうくん」の「いとう」は、伊藤。しかし、経歴などの詳細は知らない。名も忘れた。そこで、伊藤君と親しかったはずの陶芸家丸田秀三君に問い合わせた。下記の返答があった。


 お尋ねのイトウさんですが伊藤敬一さんです。早稲田の写真部で白谷達也さんや大塚努さん(共に朝日新聞)の後輩です。学生でありながら鶴巻町のビルに「Q-blick」という写真ギャラリーを開いていてそこで勇造さんのライブを開催したのがきっかけです。

 イギリスの写真学校にも留学していて英語も堪能。東京にはかっこいい人がいるもんだなあと田舎から出てきた僕は感嘆したものです。

 実家の商売(平林油店、ガソリンスタンドなども経営)が傾いた後、本人は校正の仕事を続けていて、そのうち知人が阿佐ヶ谷で開いていた古書店を引き継ぐ形で元我堂の主人となります。亡くなったのは2011年、震災の年でした。


 伊藤君に勇造ライブ開催の過去があったとはついぞ知らなかった。教えてくれた丸田君はかつて平塚市出縄でやはり勇造ライブ「満月」を主催している。そこに二人の共通点があったわけだが、それも含めて、親しくつき合っていたのにわれながら何も知らずにいたのだなあ、という思いが強くする。彼が飛ばすやじはたいてい英語風になまっていたが、「ヘイ、ハマノちゃん、いくら何でも知らなすぎるぜ」という一言が、天国から届いてきそうだ。


元我堂の変遷と伊藤君の死

 元我堂は阿佐ヶ谷駅北口の商店街にあった。店名はインドの大河「ガンガー(ガンジス)川」に由来する。豊田君の歌にあるように、伊藤君はインドで大きな精神的体験をした。それでこの名をつけたのだろう。

 店は神田神保町の古書店街にある店々とそう大きくは変わらない広さで、彼手持ちの本だけの開店時、書棚はががらがらだった。それで、豊田君が彼のファンクラブの会報「勇造通信」で寄贈を呼びかけた。それに応えた一人が僕で、150冊ほど送った。扉のない書棚にむきだしで並べていた本だから、古書店では買取をためらうだろうと思われる見た目だったが、かまわずそのまま送った。

 その数週間後、はじめて元我堂を訪ねた。びっくりした。送った本を棚から取り出して見ると、1冊1冊小口部分の汚れがきれいに拭き取られていて、さらに丁寧にパラフィン紙を巻いてある。一見ちゃらんぽらんに見える伊藤君の本質を知った気がした。


 豊田君の歌にあるとおり、元我堂は夕方になると酒盛りが始まる店でもあった。はじめて訪ねたその日もそうで、5時頃店に入り、よもやま話が一段落したところで、伊藤君は店を出、隣接する酒店で白ワインを調達してきた。店の奥の小上がりで乾杯。笑い声がはずんだ。

 知的だが格好はつけない、人あたりがよく気の優しい男だった。


 しかし、それから2年ほど後だったろうか、伊藤君はガンジス川のごとく滔々と流れ続けるはずの元我堂を他人にゆずった。理由は知らない。

 いまネットで検索をかけると、店を受け継いだ人に関する記事がひっかかる(http://www.omaken.com/umi-neko/2008/05/post-653.html)。それによると、新しく店主となったのは会社勤めが本職の「やすさん」と呼ばれる人で、週末だけ営業していたらしい。しかし、その新しくなった元我堂も、2008年に店じまいしている。


 後継元我堂が消滅してから3年後、もともとの創業者である伊藤敬一君もあの世に旅立った。癌だった。

 晩年、病のために働けなくなった彼は、生活保護を受けていた。生活保護受給者には葬儀について制限がある。葬儀は許されるが、通夜や告別式を含まない直葬形式にするのが一般的である。寂しい話だが、それが現実だ。

 そのことを知った仲間たちは、死後まもなくお別れの会を開いた。

「ん」から出たまこと、笹塚怪談

 


 「ん」の常連にいつも連れだって来る3人の若い女性があった。

 いずれも美人とは言いがたいが、元気で潑剌としていて、好感度満点の3人だった。そのうち1人とやがて僕は軽い恋に落ちるのだが、それはいずれの話としよう。


 いま書いておきたいのは、くだんの3人のうちの1人がある夜突然言い出した怪談のことだ。彼女は笹塚のアパートに住んでいて、その部屋に時折幽霊が現れるのだという。「トレンチコートを着た男性で、天井に浮かんで出てくるのよ」と言っていた。

 アパートのその部屋は、かつてギタリストの吉川忠英が住んでいた部屋だという。吉川忠英が部屋を引き払うと、次には歌手の吉田美奈子が入居した。そして、吉田美奈子のあとに入ったのが、彼女だったという次第だ。

 幽霊が何者かはわからないという。


 数日後、3人とともに僕はその部屋で寝泊まりしてみることにした。現地調査である。怪談話は好きではない。好きではないどころか、大嫌いと言っていい。当時、怪談イベントが行われるので有名だった六本木のトーフバー「一億」で体験したこともあるが、怖気をふるって身を固くするばかりだった。

 つまりは勇気を奮い起こし恐怖心を打ち払いながら笹塚のその部屋に入っていったわけだが、結果について言えば幽霊を見ることはできなかった。夜、3人と部屋に集まると、まずは酒盛りとなった。それが、1杯もう1杯とえんえんと続く。そのうちに、僕はダウン。見事に寝入ってしまったのである。お粗末。

 ちなみに、その深夜、幽霊は出た。しかし、幽霊を見たのは2人だけ。僕と軽い恋仲になる1人には、いくら目をこらしても幽霊の姿は見えなかったのだという。幽霊は人を選ぶのか。


「土佐」で知った美酒、司牡丹

 2階に「ん」が入った建物の左隣には、木造の平屋の店があった。土佐料理の「土佐」だ。暖簾をくぐって入ると、そこはコの字型のカウンター。その奧に8畳ほどの座敷がある小ぶりの店だった。立地条件の悪い店なのに、いつも混んでいた。首都圏に住む高知県人の憩いの場となっているようだった。

 「ん」に通い始めてしばらく経った頃、僕はその「土佐」にもしきりに出入りするようになった。幽霊を見損なった彼女とのデートである。彼女はなかなかの酒通で、とにかく旨い酒を出す店だから入ろうと誘われたのが最初だった。

 という次第で初体験した酒が「司牡丹」。これは本当に旨かった。どちらかというと日本酒は苦手だった僕がはじめて旨いと思った酒だ。



 「ん」と同じく「土佐」を経営するのは女性。都内のあちこちにある土佐料理の名店「祢保希(ねぼけ)」から独立したという経歴の人で、これまた美人とは言えないが愛嬌のある魅力的な人だった。話し上手で、客の心を巧みにつかむ。客商売の真髄がそこにあると感じられた。

 10年ほど前になるだろうか、そんな女将と司牡丹のことをふと思い出し、店のあった場所を訪ねたことがある。あたりは地上げで再開発されたらしく、新しいビルが目の前に立ちふさがるばかりだった。東京は砂漠だ。


2026年1月20日火曜日

かつて「ん」という名のスナックバーがあった

 


 筒井康隆の1972年作品『乱調文学大辞典』末尾項目「ん」は、こんなふうに記述されている。


 昨年書いた『欠陥大百科』という本の中で『ん』の項目を作り、ぼくはこう書いた。「電話番号簿に『ん』の項目はない。『ん』という名のバーを作れば、数百万部の電話番号簿全部に新しい項目を作らなければならなくなる。……

 その後、『欠陥大百科』を読んだある女性が、ほんとに『ん』という名のバーを開いた。神宮前六丁目二十五番地。ぼくの家のすぐ近所である。電話番号簿に載せてもらおうとして、電話局へ行ったところ、局員がかんかんになって怒ったそうだ。「どうして、こんな名前をつけたんですか!」結局、載せてもらえなかったそうである。これには責任を感じている。


 思いは1971年4月へと飛ぶ。その月、渋谷百軒店にジャズ&ロック喫茶「BYG」が開店した。僕は2階の喫茶フロアのレコード係としてスタッフに加わったのだが、開店してしばらく後、気づくと「ん」へ足繁く通うようになっていた。

 黎明期の「BYG」では、地下のライブスペースの最大のスターははっぴいえんどだったが、彼ら4人は揃って酒を呑まない。一方、二番手と言っていいはちみつぱいのメンバーは、逆に呑んべえぞろい。連日「ん」に顔を並べたのも彼らだった。そして、彼らの所属事務所である「風都市」の石浦信三、歌い手南佳孝、そんな顔ぶれが「ん」の夜を賑わせた。


 経営者の女性は、通称アパッチ。のちに南佳孝と婚約することになる彼女の姓は同じく南で、「南どうしが一緒になるのか」などとはやしたてられたものだが、名は知らない。

 通称からは、男勝りの女性が思い浮かぶだろう。そのとおりなのだが、一見すると細身の身体のてっぺんにのっている顔は優しげ。力もなさそうなのだが、実は少林寺拳法初段。何かの折り、一緒に新宿を歩いていて突然肘に関節技をかけられ、悲鳴をあげたことがある。


ある夕刻起こった事件

 「ん」は、明治通りの渋谷―原宿間のほぼ中間、通りから少し引っ込んだ軽量鉄骨の建物の2階にあった。その「ん」である日、ちょっとした事件が起こった。喧嘩や暴力沙汰ではない。きっかけは、雑誌『an・an』で「ん」が紹介されたことだった。夕刻5時をまわった頃だったろうか、店へ行くと、丸めた雑誌を手に持った若い女たちが階段に並んでいる。僕は彼女たちの脇をすりぬけて2階に上がった。

 すると、入れ違いにアパッチが出てきた。その手には水の入った容器。と見ると、アパッチは階段に並ぶ女性たちにむかって水をかけ始めた。「ここはあんたたちが来るとこじゃない」と声をあげながら。

 はっきりした記憶はないが、「ん」は、オープン後数年、1972〜73年には店を閉めたのではないかと思う。先の事件にあるように、そもそも商売っ気などとは縁のない人物が経営していたのだから、それも当然の成り行きというべきかもしれない。店じまい後、アパッチは原宿の竹下通りに古着の店を開いたはずだが、これについてはよく覚えていない。

 アパッチはそもそも山下洋輔さんの「追っかけ」で、「ん」でもジャズのレコードがよくかかった。石浦信三がチャールズ・ミンガスの『プレイズ・ピアノ』を、南佳孝がスタン・ゲッツの『ゲッツ・ジルベルト』を聴きながらカウンターで酩酊していた姿が記憶に残っている。



 毎夜、11時の閉店間際にはジャズではない歌が流れた。ミーナの「砂に消えた涙」日本語バージョン。♭青い月の光をあびながら わたしは砂の中に 愛の形見をみんなうずめて 泣いたのひとりきりで……閉店時刻までぐずぐずと居残っていたぱいの鈴木慶一、本多信介その他その他、もちろん僕を含めたみんなは、その声に送られて人通りの絶えた夜更けの明治通りに消えていくのだった。

2026年1月19日月曜日

『相倉久人の七〇年代ロック&ポップス教養講座』を復刻

 


 「書肆オルニス」と称して2025年3月からAmazonのkdpからの出版を試みているのだが、1月15日、都合5作目となる『相倉久人の七〇年代ロック&ポップス教養講座』を発行した。2007年に自分が企画編集、音楽出版社から発行したムックの復刻書籍化となる。

 相倉さんとの出会いと別れなど、いろいろな思いがつきまとう発行だった。


 著者の相倉久人さんとの出会いは1965年に遡る。場所は、銀座松屋裏にあったジャズ・スポット、「ジャズ・ギャラリー8」。「ジャズ・ギャラリー8」ではじめてジャズのライブを体験したのは石井毅クインテットだが、そのときではなく、後日富樫雅彦クヮルテットを聴いたときではないかと思う。前半のステージが終わって、司会を務めていた相倉さんが通路を下りてきた。そのとき、僕のほうから声をかけたのだった。

 そのときどんな話をしたのかは全く記憶にないが、にこやかに応対してくださったことははっきり覚えている。いつも笑顔を絶やさない、そういう人だった。


新宿ピットインができて以後

 親しくおつきあいするようになったのは、同じ1965年のクリスマス・イブ、新宿に新たなジャズ・スポット「ピットイン」ができてからである。この店で相倉さんは企画・出演交渉と司会を務めた。

 日本のジャズ・ミュージシャンとのつきあいが広く深い相倉さんがいてはじめて「ピットイン」のライブは成り立ったと言っていいと思うが、客席にいる一人にとって魅力だったのは、その軽妙な司会ぶりだった。

 いまでも忘れないのは、山下洋輔さん作曲の「クナトンナ」の紹介。「クナトンナはスペインの美しい港町です」と相倉さんは始め、港町の魅力を語っていく。と思うと、仕上げに「クナトンナを逆さまに読んでください」とオチをつけるのだ。これには笑わされた。



 「ピットイン」の隣は「イレブン」という喫茶店だった。1969年の半ば、相倉さんは「ピットイン」の仕事から撤退することとなり、その頃からもっぱら「イレブン」で夜を過ごすことが多くなった。その2年前に創刊した雑誌『ジャズ批評』の編集同人として席をともにすることが多くなっていた僕もまた、連日、「イレブン」に通うこととなった。

 だけではない。毎日、夕方5時前後に店に入り、8時頃まで相倉さんたちとだべって過ごすのだが、そのあと店を出ると、相倉さんとともに食事というのが決まりだった。食事は、あれから57年たったいまも営業を続けている末廣亭隣の「あずま」で。注文は毎度「ブタのジュージュー焼き」だった。


 一緒に食事をする習慣になったのは、その頃、相倉さんは十二社、僕は成子坂下とともに新宿住まいだったからだが、これにはおまけがついた。十二社の相倉さんのアパートには電話がない。一方、僕の部屋にはある。それで、相倉さんは、僕の部屋の電話を緊急時の連絡先と決めてしまったのである。

 実際はどんなことが起こったかというと、遅筆で名高い相倉さんは締切が過ぎてもいっこうに原稿が仕上がらないということがしばしばあった。すると、しびれを切らした雑誌の編集者は僕のところへ催促の電話をかけてくる。そうして、僕は部屋を飛び出して十二社に向けて走り、編集者になりかわって相倉さんに執筆の進み具合を確認するのだ。

 雑誌『現代の眼』からの電話があったときのことはいまも忘れない。息せき切って十二社に辿り着くと、相倉さんの部屋のドアをノックした。しかし、返事はない。仕方がないので勝手にドアを開けて入ると、6畳間の真ん中に置かれたコタツで原稿用紙に向かっている相倉さんがこっちを向いた。顔面は蒼白。いまにも泣きだしそうな悲壮な目つきをしていた。いま調べると、1969年の秋のことだ。


 1970年代に入ると、相倉さんはジャズを離れ、もっぱらロックの領域で執筆活動を展開することになるのだが、その発端となったエッセイ「ニュー・ロックに至る長い序章」(『ジャズ批評』1969年)は、僕が企画した。しかし、それとはうらはらに、相倉さんと会う機会はその頃から激減していった。僕自身も新宿を離れて、「ピットイン」の初代マネージャである酒井五郎さんが渋谷百軒店に創った「BYG」のスタッフとなったからだ。

 ムック『相倉久人の超ジャズ論集成』を作った2006年だったろうか、あの頃のことを相倉さんと話す機会があった。相倉さんはぼつりとつぶやくように言った。「ピットインの仕事を辞めたとき、何も仕事のあてがなくてね、餓死を覚悟したんだよ」


 2015年夏、相倉さんは胃癌で岸辺を越えた。

2026年1月18日日曜日

音の鳴らないオーディオ

 


 千葉市北部の花見川団地に越してきて、丸3年になる。

 1968年秋に入居が始まったここは、首都圏でも屈指の巨大団地。2024年の時点で賃貸5742戸、分譲1530戸を数え、総戸数は7272戸にのぼる。

 と書くとさぞや賑わい感のある団地と思われようが、どっこい、そうは問屋がおろさない。ざっと見て住民の6〜7割がわれら夫婦と同じく高齢者。団地内は杖をついて歩く人が多い。当然ながら、団地の巨大さとはうらはらに子どもたちの姿は少ない。結果、寂しく殺風景な町並みが眼前に広がることになる。

 団地のセンタースポットである商店街もまた、シャッターの降りた店舗が目立つ。


 そんな商店街だが、何度かリニューアルされてきて、見た目は悪くない。通りの中央には木製のテーブルと椅子がいくつも並べてある。歩き疲れた老人が一休みする場所かというと、そうでもない。数こそ少ないものの、子どもたちがソフトドリンクとお菓子を並べてミニパーティーをしていたりする。団地南の工場街で働く人たちだろう、中近東系とおぼしき外国人の複数の家族が団欒していることも多い。

 一方、ほぼ毎日の午後、テーブルにタブレットを据え、ギターを弾く中年白人のギタリストもいる。ギターはエレクトリック。練習なのか、曲作りでもしているのか、詳細はわからない。だが、表情穏やかな人で、時に子どもたちが並んで座っていることもある。その光景が、なんだか微笑ましい。


スイッチが入れられないオーディオ

 わが家の引っ越しは3LDKから3DKへの移住だった。それまで住んでいた八王子の公団住宅は花見川よりは少し後にできたものらしく、同じ6畳間でも実際の広さが違う。越してきて最初に手を付けたのは、スピーカーシステムの処分だった。置くスペースがないという単純な理由だ。

 それから3年、耳を病んだいまは、音楽を聴いて楽しむことができない。10㎝径のフルレンジを入れたコンパクトスピーカーとアンプはいまもあるが、かれこれ1年、アンプのスイッチは入れられていない。


2026年1月17日土曜日

ついに廃業なり

 


 かれこれ10年ほど前から@SOHOという仕事斡旋サイトでサイドビジネスの仕事口を見つけては働いてきたのだが、今日、人生最後の仕事という思いで応募した案件が不調に終わった。理由は、僕自身のスキルの不足である。Adobe InDesignを使っての組版の仕事だが、送られてきたフォーマットを開いて、もう自分の能力をはるかに越えていると認めざるをえなかった。老兵は去れ、ということだ。

 それが昼過ぎのことで、そのあと、廃業届を作成。税務署宛てに郵送した。人生最後の峠越えだなと実感する。


振り返ればあっという間の61年

 高卒で就職し、社会人となったのは1965年。(株)岩波書店雑誌編集部に配属され、編集補助の仕事に就いた。その翌年には新書編集部に、翌々年には辞典部に異動。編集の仕事を一から学び、1971年、退職してフリーとなった。

 その後は、ジャズ&ロックの喫茶店のスタッフとして1年弱働き、さらには小規模の出版社に勤めては辞めの繰り返し。1978年、相棒と出会って、編集プロダクションを設立した。

 しかし、それから2年弱、たまたま出席した教材関係の編集プロダクションで出会った人物に誘われ、新会社設立となった。1980年春、娘が生まれる1年前のことだ。

 そうして、会社は2022年まで続く。その年、倒産解散。57年にわたる会社勤めがここで終わった。



 以上が僕の仕事人生のあらましだが、2009年以後は実際には全国公益法人協会の契約社員として働いてきた。そして書類上では全公協との契約が完了した2025年12月31日をもって廃業となったのだった。

2026年1月15日木曜日

ひとり酒の危うさ

 


 70年代に音楽評論家兼音楽喫茶マネージャーとして活躍した松平維秋にそれこそ小判鮫のようにまとわりつき、どこへ行くにも影のようについてまわるTという男がいた。田園調布近くの大地主の息子で、金には不自由しない。実際、僕がはじめて会ったときも、九段下のフランス料理店で松平氏ともどもご馳走してくれた。そんな人との出会いは、後にも先にもこれ一度きりだ。

 そんなTがかなり重度の鬱病患者であると知ったのは、出会いから2〜3年たった頃だったろうか。彼が音楽喫茶に近い形態の喫茶店を始めるというので、オーディオの選定をしたりで密につき合っていた時期だった。2か月ほど連絡が絶えた。その間、彼は入院していたのである。


 退院して久々に面会となったとき、病状をいろいろと聞いた。彼にはもともと心的障害があり、子どもの頃から人付き合いがうまくできなかったらしい。大人になって酒を呑むようになると、それに拍車がかかった。生活上何か困難が立ちふさがると、何日も部屋にこもり、酒に逃げる。それも、独身だからひとり酒。アルコールは気分を高揚させる一方、酔いが醒めると、より強い抑鬱や不安が現れる。これを酒鬱というが、Tの場合はそれが極端に激しい症状となって出たのだった。

 退院の際には、医師から「ひとり部屋で呑む酒は絶対に止めるように」と厳しくさとされたという。


酒は楽しく呑むべし

 かく言う僕も、この十日ほどは酒鬱だった。

 意識的にアルコールを絶つ期間を年に1〜2か月つくっているが、それ以外の日々はほぼ毎晩呑む。缶ビールのレギュラー缶1本に日本酒350㏄といった量だから大酒飲みというほどではない。それでも、医者に言わせると、「身体に影響を及ぼさない安全な量」を大幅に超えているという。

 この十日ほどはそれを上回る量を呑んだ。呑むのは夕方の5〜6時といったあたりで、寝酒ではない。しかし、誘眠効果がある。それが一番の利点だったのだが、鬱はその翌朝に襲いくる。とにかく、得体の知れない不安にとりつかれ、寂しくて寂しくてたまらなくなるのだ。



 6年前に逝ったシンガー鈴木常吉を思い出す。ライブハウスや酒場などでのライブを多数こなし、人と会って呑む機会も多かった常ちゃんだが、実はひとり酒で夜を過ごすことが多かった。当人から聞いたところによると、酒はいつもブラックニッカ。こいつをストレートでやる。それも、ボトル1本を一晩であけてしまうのだ。

 彼の生命を縮める要因の1つになったのは間違いないそんな飲み方の是非を、中川五郎と話したことがある。中川君は言った。「ひとり酒は危ない。酒はみんなで集まって、わいわい楽しく呑むものだよ」


 さて、今夜から禁酒に入るとするか。

2026年1月13日火曜日

酒盃で変わる酒の味わい

 


 久々に「満月工房」(http://mangetsu.net/)にアクセスする。陶芸家丸田秀三君のサイトだ。

 開設されたのは2001年の11月。今年で丸24年を経たことになる。個人の運営でこれだけ息の長いサイトは珍しい。

 内容も多彩である。ほぼ毎日更新される写真のページ「otukimi 2」に加え、展覧会案内の「exhibition」、陶芸作品を一覧できる「clay works 」、インド音楽など好みのものを紹介する「my favorites」……中には更新が途絶えたままのページもあるが、一人の陶芸家の内的外的世界が詰め込まれている。

 「my favorites」の「food」という項目には「蕎麦」と書かれているが、彼は蕎麦打ちの名人でもある。実際に食したのは個展で一度、打ち立てを送ってもらって一度の2回しかないが、手製の十割蕎麦もそばつゆも絶品だった。


魅力溢れる白磁の湯呑み

 陶芸家としての丸田君は、釉薬を使わない「無釉白磁(磁器焼き締め)」という独自の技法で知られる。こちらはその技法から生まれた作品を展覧会で見る見物人でしかないが、20年ほど前、白磁の湯呑みを買った。これは素晴らしい買い物だった。

 手元に届いた湯呑みではじめて清酒を呑んだときの驚きは、いまも記憶に鮮やかだ。湯呑みそのものの口当たりのよさだろう、酒がいっそうまろやかに感じられた。酒の味わいは、酒器で変わるのだ。

 ところが、そのことを信じない人がいる。前回このページでふれた川崎貴嗣さんはその一人で、一度酒場で軽い論争になったことがある。言葉で説明してもらちがあかないので、そのときは後日丸田作ではないが手元にあった好みの酒盃を送った。

 すぐにEメールで連絡があった。「日本酒はいつも無味乾燥なグラスで飲んできましたので、独り酒でもそれなりにある趣や情緒のかけらもないまま今日に至っております。頂戴した酒盃で酒を愛でる気持ちが一変するかも知れません」と書かれた件名「酒盃恵与を謝す」のメールはいまもPCに残っている。日付は2012年12月29日。川崎さんが肺癌を発症した直後だった。


2026年1月12日月曜日

歌とタイ料理が結ぶ縁

 


 川崎貴嗣さんと出会った2009年以来続いてきた全国公益法人協会の仕事は、昨年12月31日をもって契約解消となった。最初の4か月ほどは通勤、以後は在宅ワークという形態で仕事を続けてきて16年。失業となると、さすがに寂しいものがある。

 契約解消の話が出たとき、退職金に類するものを支給してもらうよう、こちらから要求した。というのも、最初の1年が過ぎたとき以降は、時給据え置き。1時間=1300円という、いまとなってはコンビニで働くパートさん並の安い時給で手間のかかる編集の仕事をしてきたからだ。

 実際の仕事の終わりは12月24日だったが、その日の17時に勤務終了の連絡をいれたとき、脳裡には自然と川崎さんの顔が浮かんだ。川崎さんなら実質的には契約打ち切りとなった事態をどう見ただろうと思ったのだ。


南林間のイーサン食堂で

 川崎さんが晩年の日々を送った南林間の町については、川崎さんを知る以前から縁があった。小田急線の駅から歩いて3分ほどの場所にある「イーサン食堂」。はじめて入った1997年にはまだ首都圏には多くはなかった本格タイ料理の店で、京都のフォーク&ブルーズ・シンガー、豊田勇造君に教わった。というか、この店では年に一度豊田君のライブがある。そうと知って出かけたのだった。



 イーサン食堂での豊田君のライブには、川崎さんをお連れしたこともある。古いメールで調べてみると、2011年の冬のことだ。フォーク系の音楽を生で聴いたことなどあるはずもない川崎さんだったが、それなりに堪能したようだった。「流行歌ではなく、格調の高い歌だったね」と言っていた。


 その夜のイーサン食堂は、もうひとつの出会いの場でもあった。陶芸家の丸田秀三君。以前から吉祥寺・マンダラ2で開かれる勇造ライブの常連だったが、窯を平塚から静岡に移したこともあって、ライブにはしばらく姿を見せなかった。そうして、この夜が久々の再会の時となったのだ。

 それはまた、丸田君を川崎さんに紹介する機会でもあった。開演前、われら3人はタイ料理のおつまみをつまみながら、音楽について、陶芸について話し込んだ。いま振り返ると、そこにあったのは歌とタイ料理が結ぶ縁だったのだと思える。

2026年1月11日日曜日

夢の中の無人駅

 


 一度しか行ったことがないのに、時々夢に出てくる駅がある。JR相模線の北茅ヶ崎駅だ。

 夢に現れるのは、ホームのベンチから見る線路際の光景。雑草に強い日射しが照りつけている。周りには誰もいない。まぎれもない、2013年7月14日、川崎貴嗣さんの葬儀の帰りに見た光景だ。



 川崎さんは、全公協こと全国公益法人協会に所属して、雑誌『月刊公益法人』『非営利法人(旧「月刊税経」)』をほぼ独力で編集制作を続けた編集者である。1935年生まれだから僕より12歳年長のこの人と出会ったのも、僕がパートタイマーとして勤めることになった全公協でだった。2009年の10月だったと思う。

 川崎さんはすでに全公協を退職されていて、顧問として社に関わっておられた。出社は週に2回。だからそう頻繁に話をする機会があったわけではないが、不思議に気が合った。会えば決まって好みの文学の話になった。その年の11月に入る頃には、プライベートなおつきあいをするようになっていた。


南林間の酒場で黒霧島

 川崎さんのお住まいは茅ヶ崎市内にあったが、日常はそこではなく大和市南林間のマンションで独居しておられた。部屋は1DKで、セミダブルのベッドがスペースの半分以上を占拠している。その手前にモニターが載せられた机があり、そこが氏の仕事場だった。

 訪ねると、氏はたいてい机に向かっておられた。そうして、僕が入ると椅子を降りてダイニングに移り、冷蔵庫からワインを取り出して栓を抜く。それがいつものことだった。そして、ワインを数杯楽しんだあとは、外に出て酒場を目指す。


 氏は早稲田大学の卒業生で、在学中は演劇部でサークル活動をした。同じサークルに1年先輩の小泉太郎(生島治郎)がいて、親しい仲だったらしい。酒場に入ると、まずは小泉太郎と演劇サークルの思い出話になるのが常だった。

 ちなみに、酒場で飲むのはワインではなく焼酎。黒霧島がお好みだった。


 月に1〜2回そんな飲み会を繰り返して4年が経過した2013年の初夏、川崎さんの姿が南林間の町から消えた。肺癌を発症しての、茅ヶ崎での自宅療養だった。

 それからの展開は早かった。「肺癌の宣告を受けたよ。でも、煙草はやめない。こんなうまいもの、やめられるもんか」と電話があったのも束の間、茅ヶ崎の病院に入院。そして7月10日、鬼籍に入られた。4日後の葬儀の日、町は猛烈な暑さにつつまれていた。


 あれから12年あまりが過ぎた昨夜、部屋でひとり黒霧島を呑んだ。ある日ある夜の川崎さんのだみ声が、どこからか聞こえてきた。いい歳をしてと言われそうだが、寂しくて、涙が出そうだった。


2026年1月10日土曜日

久しぶりに京成八千代台へ

 


 めったに外出しない日々が続く。一昨年の3月3日以来、人と会って話す機会もない。これも「老衰」の一現象だろう。


 今日は、午前中、久しぶりに京成八千代台駅へ。近々診察を受けようと思っている耳鼻咽喉科の下調べだ。医院の診察なのに下調べが必要なのは、なぜ? 生来の方向音痴のためなのだ、これは。いつもあらかじめ地図で場所を調べてから行くのだが、今日訪ねた医院については、過去に2度空振りしている。歩くべき通りを最初は2本、次は1本間違えたのだ。方向音痴は老衰現象ではない。発達障害の一種とされている。


 耳管開放症による難聴について相談したくてくだんの耳鼻科を訪ねる予定でいるのだが、実際には、月に1回、同じ八千代市内にある別の耳鼻科医の診察を受けている。しかし、初診から4か月が過ぎているのだが、医者は漢方薬を処方するだけ。特に、治療というものはない。漢方薬もあまり効かない。

 そういう病気なのだろうと諦めていたのだが、ネットで調べると、耳から管を通して薬品を注入する「耳管処置」という治療法があるらしい(https://hirai-jibika.com/eustachian.html)。どの耳鼻科医院でもできるというものではないらしいが、八千代台北の医院で可能であることを期待しよう。


さびれつつある町、八千代台

 八千代台は、一言でいってさびれつつある町である。

 町の中心は京成の駅の南側で、京成電鉄が運営するユアエルムというショッピングセンターがある。休日は特に目立つが、ファッションショップや食品店、電機店などが多数入っているここは通路が人で埋まるほど賑わっている。それでは、町全体が同じように賑わっているのかというと、そうではない。シャッターの下りた店舗があるし、人通りは少ない。ここ数年の間に廃業した店もある。

 それなのにである、駅から3分ほど歩いたところに不思議なビルがある。1階を除いて5階まで各階にキャバクラが入っているビルだ。陽が落ちてから前を通ると、客が入っていくのが見える。繁盛しているらしい。

 どんな町にも陰の部分、陽の部分があるものだが、さびれつつある町でもアルコールとお色気の力はなお強いということか。

2026年1月9日金曜日

ジャズ喫茶「響」の大木さん

 

 ジャズ喫茶なるものにはじめて入ったのは、高校3年の冬のことだった。店は、有楽町スバル街にあった「ママ」。学生服というわけにはいかないので、一張羅の紺のブレザーを着て訪ねた。子どもは立入禁止の場所に入るような心地があって、えらく緊張した。おそるおそるドアを開けると、店の奥にあるカウンターに向かって座席が並んでいた。ベージュのカバーの椅子だった記憶がある。

 その翌年に卒業就職してから二度目の訪店をした。そのとき目撃したことが、61年が過ぎたいまでも記憶に残っている。何事かというと、店の奥のカウンターの中に立つ店主が、1枚のレコードを手にして話し始めた。「こういうレコードはジャズを冒瀆するものです。今日限り聴けないよう、処分します」そう言って、店主は手にあるレコードにカッターで傷つけていった。オーネット・コールマンのレコードだった。

 神保町にあった「響」を自分のジャズ・フランチャイズにしようと思い立ったのは、そのときのことだ。これを機に「ママ」にはおさらばした。

 「響」のオーナーは、大木俊之助さんという。いかにも剣呑で傲慢な「ママ」の店主とは違って、明るく穏やかな方。BAR ground lineという店の吉田健吾さんが、こう書かれている。「昔から、とかく『気難しいマスターがいて、入りにくそう。』なんていう印象を持たれる『ジャズ喫茶』だが、(今はそんなことはないのかな?)『響』は、朗らかで気さくな感じのマスターがやられていて、店の雰囲気も、いわゆる『お聴きかせ』系のピリピリした感じはなく、会話もOK、学生の僕でも臆することなく通うことができる店だった。」(https://note.com/groundline/n/n66c61fa8cac9

 まさにそのとおりで、1965年4月、就職先のほど近くということもあって、はじめてお店に行った。優しい笑顔で迎えてくださった。


「響」で毎日ジャズの勉強

 「響」は、神田神保町の交差点から白山通りを水道橋方向に進んで2本目の路地を右に入ったところにあった。モルタル造りの2階屋の1階。入口はジャズ喫茶では珍しい自動ドアで、入って突き当たりの壁面上部に国産ボックス入りJBL LE-8Tがセットしてあった。20㎝径のフルレンジ1本で、ツイーターはなし。いまならとてもジャズ喫茶向きのシステムではないが、当時は何も不満はなかった。

 突き当たりは厨房だが、レコードをかけるスペースは店内の左手、中央あたり。そこに大木さんの姿があった。

 日曜を除いてほぼ毎日通うようになったある日、僕はジャズを勉強しようと思い立ち、ノートを用意して店に入った。かけられているレコードは、レコード・スペースの一番前にジャケットが置かれる。その裏側を見て、曲名やパーソネルをメモしていくのだ。しばらくそれを続けていて、大木さんに気づかれた。笑われた。大木さんと親しく話をするようになったきっかけは、その時だったと思う。



 大木さんは、ジャズだけの人ではなかった。というより、ジャズよりむしろタンゴを好んで聴かれているようだった。そのことを知ったのは、ある日、営業中にもかかわらず「一緒に行こうよ」と誘われて近くのタンゴ喫茶に出かけたときのことだった。店は、いまも神保町にある「ミロンガ」。

 はじめて真剣に聴くタンゴ、アルゼンチン・タンゴはすこぶる魅力的だった。そのとき聴いたのは、フランシスコ・カナロだったか。空間をリズミカルに漂う響きに魅了された。やがて、僕はタンゴにいれあげ、フロリンド・サッソーネなどの来日公演に出かけることになる。会場では、必ず「ミロンガ」のママさんをはじめとするスタッフに出会った。


 1971年、僕は会社を辞め、渋谷百軒店にオープンしたロック喫茶「BYG」のスタッフとなった。神保町及び「響」との別れの時だった。その後30年あまり神保町に行くことはあっても、「響」を訪ねることはなかった。そうするうちに、1993年の暮れ、「響」は30年続いた営業を閉じた。

 時が過ぎて2003年頃、大木さんは湘南は鵠沼海岸の自宅を改造し、「日本一小さなジャズ喫茶、響庵」をオープンした。ここへは、僕は都合3回訪ねた。そのうち最後は2007年だったろうか、行くと「ちょっとつき合ってくれ」と家の外に連れ出され、一緒に江ノ島近くの料理店へ行った。大木さんはその少し前に胃癌の手術を受けていて、禁酒を申し渡された身だったが、旧知の僕の訪問をダシに一杯となったわけだった。熱燗のお銚子2本の酒だったが、嬉しそうにお猪口を口に運ぶ大木さんの表情が忘れられない。

 やがて2023年3月、八王子から千葉に転居した僕は、その旨を大木さんにメール連絡した。しかし、まめに返信をくれた大木さんであったのに、反応はなかった。いまもって確証はないが、その頃、「もう人生のアディショナルタイムだから」が口癖だった大木さんは、試合終了のホイッスルとともに天に昇ったと思われる。


2026年1月8日木曜日

痛風友の会⁈

 


 昼過ぎに図書館へ。返却ついでに文庫本の書架を物色、『池波正太郎の銀座日記〔全〕』を取り出して開いた。すると、いきなり「痛風」の2文字が目に飛びこんできた。

 借り出し、家に帰って読む。


 ×月×日

 昨日、突然、左足に痛風の発作。

「あっ……」と、おもったが、薬をのむのが一足遅れてしまい、たちまちに腫れあがる。

 風邪がどうやら癒ったとおもったら、今度は痛風だ。星まわりは悪くなりつつあるのだから、よほど気をつけなくてはいけない。


 この作家の作品はエッセイを含めてたくさん読んできたが、痛風もちとは知らなかった。「四人で四升の酒を一晩でのんだ」と何かに書かれていたが、飲んべえで食通という人物を痛風が襲うのは、当然といえば当然ということになる。いや、当然ではなく必然というべきか。


愛すべきわが痛風の仲間たち

 この正月元旦に届いた年賀状にも「痛風」の文字があった。先輩編集者Mさんからの賀状。Mさんは僕より4つ年上だからいま83歳のはずだが、痛風は人生初の発症だという。

 郵便はまだるっこしいから、すぐにお見舞いのメールを発信した。ほどなく返信があり、「痛風と言いつつも薬を飲んでいれば痛みはないし(もっとも当初は骨折かと思うほど足の指が痛みましたが)、酒量もさほど減らしていません。それよりも年末に行った健康診断で心電図に異常が見られ、来週受けるエコー検査の結果のほうを案じてます」と書かれていた。痛風は軽く済んだが、それより別の深刻な問題があるというわけだ。やれやれ。


 僕自身の痛風体験は、50代後半に始まる。

 呑み仲間にギタリストの本多信介がいて、彼は比較的若い頃からの痛風病み。酒席でよく愚痴を聞かされたが、こちらには馬耳東風。俺には関係ないさと高をくくっていたのだが、痛風は見逃してはくれなかった。

 最初の発症のことは、いまも記憶に深くしみついている。冬の日で、風邪をひき、発熱した。と同時に、左足親指の付け根に猛烈な痛みが生じた。池波正太郎氏は風邪が癒えたあとに痛風と書いているが、こちらは同時発症。立っていることままならず畳の上に倒れ込んだ。そして、それっきり起き上がることができない、立ち上がることができない。


 以来、痛風は2〜3年に一度の確率でやってくる。直近は一昨年8月31日の発症だが、これは凄かった。痛風とは「風に吹かれても痛い」の意味だが、とんでもない。このまま死ぬんじゃないかと思うほどの猛烈な痛みだった。しかも、通常は2週間ほどで治まる痛みは、1ヵ月以上続いた。

 そのときのことを思い出しながら書いたMさんへのメールの件名は、「ようこそ痛風友の会へ」とした。

2026年1月7日水曜日

突然逝ったマシュマロ

 


 いまは西東京市だが、かつては保谷市に属していた東伏見という町がある。早稲田大学の運動部の練習場で知られる町で、地図を見ると、西武新宿線東伏見駅の南にキャンパスや野球場、サッカー場などの施設がいくつも広がっている。

 1960年代後半、それら早大の施設を抜けて南に下ったあたりに部族、すなわち日本のヒッピーと呼ばれた若者たちが群れをなして住み着いた二階建てのアパートがあった。「大きなくしゃみをすると崩れ落ちるんじゃないか」と住人が言うほどのぼろ家だったが、資本主義社会を拒否する価値観、人生観の持主が一所に集まって、小さいながらも一種のコンミューンをなしていた。

 二十歳を迎えた1967年の春〜冬、僕は毎週のようにそのコミューンでリーダー格となっているK夫婦を訪ねた。神保町のジャズ喫茶「響」の常連で日頃親しくしていたUさんがKさんと大学の同期生で、「おもしろい男だから一度行ってみなよ」と言われたのがきっかけだった。

 おもしろい男というのはまさにその通りで、Kさんは國學院大學文学部卒業という経歴の持ち主でありながら就職はせず、時折沖仲仕として港で働いて得るごく少額の報酬だけで生きていた。6畳一間の住まいには、家具らしきものはほとんどなし。衣類も最小限のものを着回すという生活ぶりだった。ヒンドゥー教に帰依していて、つまりは典型的なヒッピー風であった。

 そうして、そんな暮らしを続ける夫婦のもとに、ほぼ毎週、僕はせっせと食料を運んだのである。


不思議人間マシュマロとの出会いと別れ

 K夫婦の部屋には、僕と同じように食料や日用品を届けたりで頻繁に出入りする人間が何人もいた。その中に、59年が過ぎたいまも忘れられない男がひとりいる。名は正麿。姓は知らない。みんなは、「マシュマロ」と呼んでいた。

 職業は配送業。しかし、やや知恵遅れの障害者。だから、他人との会話はしばしばとんちんかんな問答になった。僕が岩波書店の辞典部に所属していることを知った彼が、こんなことを言ったことがある。「浜野さん、すごいね。辞典作ってるんだから、言葉を何でも知ってるんだ。世の中のことも全部わかってるんだ」

 「そうじゃないよ。あまり知らないから、辞典を作って勉強してるんだよ」とまぜっかえしたが、彼は笑うだけだった。

 そんな彼にも、他人が到底及ばない美質があった。手先の器用さだ。ある午後、K夫婦の部屋に入ると、マシュマロが先に来ていて、天井からつり下げられていた裸電球にふれながら何やら作業をしている。訊くと、「ゴミ捨て場に木枠と麦わら帽子が捨ててあってね。そいつを拾ってきて、いま電灯の傘を作ってるんだよ」

 作業はすぐに終わった。裸電球が裸電球ではなくなった。見事な傘ができていた。驚嘆した。


 マシュマロは名古屋のお寺の住職の子息だった。その年の歳末、マシュマロは実家に帰省した。

 明けて正月、K夫婦を訪ねると、二人のこわばった顔つきが目に入ってきた。Kさんが言った。「マシュマロが死んだ。ぽっくり病だ。寝入って、そのまま死んだらしい」

 ほどなく、コンミューンの住人たちが何人もK夫婦の部屋に集まった。灯籠流しをしようと、その場で決まった。マシュマロに見習うように作業が始まり、あっという間に燈籠がいくつもできあがった。



 みんなで部屋を出た。行く先は、近くを流れる石神井川。着くと、みんな目を閉じ、黙禱した。それから、燈籠を川に流す。いくつもの声が響いた。「マシュマローっ、帰って来い! いつか帰って来い!」

2026年1月5日月曜日

サンジェルマン・アフターダーク

 


 荒木一郎『ありんこアフター・ダーク』を再読する。

 標題を見れば古くからのジャズ・ファンなら一目でわかる、かつて渋谷百軒店にあったジャズ喫茶「ありんこ」を主舞台とする小説だ。1984年に河出書房新社から発行され、比較的最近になって小学館文庫に入った。上の写真は同文庫のもの。

 冒頭からまもなく、強く印象に残っている場面がある。

 その建物には、ガラスを嵌めこんだ片開きのドアがついていた。ガラスの内側には黒いレースのカーテンがかけられていて、外から店内の様子はうかがえない。ドアの外枠には歯止めの黒ペンキが塗られていたが、ところどころ剝げかかり、腐蝕した茶色が覗いていた。

 そして入口のずっと上方に、小さな板切れがぶら下げられ、そこに黄色いペンキで、無造作に、「ありんこ」と、書かれてあった。

 僕は、その火掻き棒のように折れ曲がった把手を摑むと、ドアをそっと手前に引いた。すると、だしぬけにリー・モーガンのファンキーなトランペットが、猿轡を外された勢いを駈って、襲いかかるように表にとび出してきた。と、同時に、中にいた数人の客がいっせいにこっちを向くのが見えた。


 中にいた数人の客がいっせいにこっちを向く……あれは1965年の夏だったろうか、僕も全く同じ体験をしている。雑誌『スイングジャーナル』の広告を見たか何かして「ありんこ」の存在を知り、訪ねたときのことだった。そのとき、僕は18歳。ジャズを聴き始めたばかりの小僧にとっては、衝撃的な体験だった。瞬間、どっと怖気が走った。

 のちになって、「ありんこ」は矢吹申彦さんなども常連だったと知った。しかし、僕はこの店には二度と行かなかった。恐かったのだ。それに、暗い店内のカウンターの中に立ち、青白い顔で珈琲を淹れているマスターにも何やら違和感があった。


 『ありんこアフター・ダーク』が小学館文庫に入った頃、この作品は親しい人たちの間で突然話題にのぼった。親しい人たちとは、かつて高円寺でジャズ喫茶「サンジェルマン」を商っていた三野村泰一さん、そしてその奥方の智佐世さんである。三野村さんはこの小説にしばしば出てくるもう1軒のジャズ喫茶「オスカー」で働いていた経歴の人で、氏にとってはこの作品で展開する世界はとびきりの懐かしさだったようだ。作品が文庫に入ったことをメールで連絡すると、数日後、「読んだ! 懐かしかった!」とはずむような調子の返信があった。


ありんこよりもサンジェルマン

 ところで、僕自身にとっては「ありんこ」は縁の薄い店だった。それにひきかえ、数あるジャズ喫茶の中でもひときわ思い出深いのが、三野村さんの店「サンジェルマン」なのである。

 大村義人という方がnoteに書いているが(https://note.com/kondo_4_dai/n/n68b35ed89eb3)、創業は1966年。高円寺駅南口のエトワール通りの中ほどにあった。「St. Germainは外観も黒っぽい店だったような記憶がある。店内は黒っぽい感じで、テーブルや椅子も黒色だったのを覚えている。窓もなく、ドアを閉じれば暗い店内」と大村さんは書いているが、この内装は亡き景山民夫・高平哲郎のコンビによるものだと思う。二人は、当時まだ慶応大学の学生だった。当時のジャズ喫茶にはつきものだったマッチもまた黒。

 はじめてその「サンジェルマン」を訪ねたのは、いつだったろうか。66年だったことは確かだが、季節はもう記憶にない。ただ、たまたま勤務先の勤務が16時終了だったこともあって、比較的早い時刻に行った。すると、店の前には、入口を掃き掃除する三野村さんの姿があった。

 「『ジャズ批評』編集部の浜野です」と言って、僕は一緒に店に入った。

 三野村さんと親しくなるのは早かった。互いに気質が合ったのだろう、初対面のときから十年の知己のような具合だった。その頃は智佐世さんも店にいることが多く、彼女ともたちまち打ち解けた。お二人は根っからのジャズ狂で、レコードの収集にお金をつぎ込んだ結果、日常生活に必要な鍋釜にも事欠いている。そうと聞いて、土鍋を進呈したこともあった。三野村さんがもともとは日本料理の調理人だったと聞いたのがきっかけだった。

 あれは1967年だったろうか、東京では珍しい大雪の日に店を訪ねたことがいまも記憶に鮮やかだ。その日は、「サンジェルマン」恒例のレコード解説会が行われる日。生来足がまともに動かない僕がゆらゆらと行ったその日に行われたのは、白川君といったろうか、明治学院大学の学生で天沢退二郎のゼミを受講していた学生だった。テーマはバド・パウエル。そうして、パウエルの評価をめぐって、白川君と僕は論争になったのだった。


 三野村さんはおそろしく元気な人だった。あるとき、第一子である娘さんが発熱した。三野村さんはその子を抱きかかえて、「どいてくれ! どいてくれ!」と声をあげながら高円寺駅前、高平哲郎の実家である病院に向かって走ったというエピソードがある。

 そんな三野村さんなのに、甲状腺を病まれ、5年前、突然に旅立たれた。


荷風が愛した店が消えた

 

 永井荷風が遺した日記「断腸亭日乗」昭和23年12月13日の項にこんな記述がある。
「午下小林氏と共に八幡の登記所に至り売主代理人と会見し家屋の登記をなす。小林氏といふは和洋衣類の買売をなすもの。余とは深き交あるに非らず、今春余は唯二三着洋服を買ひしことあるのみ。然るに余が年末に至り突然家主より追立てられ途法に暮れ居るを見て気の毒に思ひ其老母と共に周旋すること頗懇切なり。今の世にも親切かくの如き人あるは意想外といふべし」
 戦災で家を失った荷風は、その前年から千葉県市川市菅野にある仏文学者の家に間借りしていた。ところが、何かと不機嫌な文学者荷風のこと、家主との関係にひび割れが生じ、移転せざるを得なくなった。しかし、住宅難の戦後のこと、たやすく家が見つかるはずもない。そのとき、手頃な物件を世話してくれたのが小林氏、八幡で不動産業と洋服小売り業を営む小林修という人物だった。
 偏屈老人だった荷風が素直に喜んでいる気持ちが、日記にはっきりと出ている。

晩年の荷風が通った大黒家
 荷風終焉の場所でもあるその家を訪ねたのは、東日本大震災の直後、2011年3月の終わりだった。現在は荷風の養子・永井永光さんが住む二階家は、高い塀にさえぎられて中は見えない。しかし、門の前に立つだけで充分だった。かつてここを荷風が歩いたというだけで充分だった。
 帰り道、京成八幡駅前の大黒家に寄った。晩年の荷風が毎日のように通った料理屋だ。荷風と食といえば浅草の蕎麦屋尾張屋が知られているが、荷風は渋好みだったかというとそうでもなく、大黒家ではもっぱらカツ丼を食したという。実際、大黒家には、カツ丼にお新香、お銚子1本が付く「荷風セット」なるメニューがあった。
 しかしだ、その大黒家が2017年6月末をもって閉店したことをいまになって知った。あれだけの繁盛店がなぜと思うと同時に荷風の残光が1つ消えた、そんな思いがする。


2026年1月4日日曜日

老衰で逝った河村要助さん

 


 「老衰」という言葉は、主に死因として使われる。一例を挙げると、こんな具合だ。



 ついでながらふれると、海老名香葉子さんからは一度だけ葉書でお便りをいただいたことがある。1990年代後半だったと思う、雑誌で続けていたコラムで「林家三平はジャズである」という一文を書いた。三平を軽視する風潮が目立った時期で、それへの反対意見として三平の落語はジャズのインプロヴィゼーションのごとく自由闊達でいかに魅力に溢れたものかを書いた。それを読んでくださったらしく、お礼のメッセージが編集部経由で届いたのだ。

 話を戻す。

 老衰は、正確には死因を意味する語ではない。『広辞苑』にも書かれているが、要は文字が示すとおり「老いて衰える」ということである。したがって、老衰は、死の直前に訪れるわけではない。加齢を重ねていつ頃からか始まり、徐々に進んでいく――それが老衰だ。


 今年の3月で79歳となる僕が「老いて衰える」を自覚したのは、遅く77歳の夏のことだった。2024年8月31日、人生で十数度目の痛風が発症した。痛風は50代末期からの持病だが、この日に発症した痛風は、痛風の語源である「風に吹かれても痛い」をはるかに超えた激痛だった。痛風による死という話は聞いたことがないが、このときは死を覚悟した。それほどの痛みだった。そして、通常は2週間ほどで消える痛みは、約1ヵ月続いた。その間、いうまでもなくまともに歩くことはできなかった。

 そうして、歩行不自由は、それから1年半が過ぎたいまでも続いている。


ある日あるときの河村要助さん

 老衰という言葉を最初につよく印象づけられたのは、河村要助さん逝去の報道でだった。Webの記事だった。もともとプライベートなつきあいはなかったから、噂で消息を知るというのがいつものことだった。アルコール依存症がもとで体を壊し、闘病生活に入ったというのも噂で知った。

https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/2041031.html

 そんな遠いお付き合いではあったが、最後にお目にかかったのは、たぶん2000年のある夜、亡き渋谷則夫追悼の会場でだった。下北沢の酒場ラ・カーニャで開かれたプライベート・イベントで、ギタリスト本多信介らと協力して開催した。

 河村さんはおそろしくシャイな人だった。そのことと関係があるのかどうか、イベント当日、彼は何人もいたはずの仕事仲間から外れて会場の隅、ひっそりとウィスキーを飲んでいた。シャイを離れて、孤独の空気に包まれているイメージ。そのときの様子が、あれから26年が過ぎたいまも記憶に刻まれている。

2026年1月3日土曜日

死ぬのにとてもよい日

 


 アメリカはニューメキシコ州に住むプエブロ・インディアンの老人がこんな詩を遺している。


今日は死ぬのにとてもよい日だ。

私の土地は平穏で私をとり巻いている。

私の畑にはもう最後の鋤を入れ終えた。

わが家は笑い声で満ちている。

子どもたちが帰ってきた。

うん、今日は死ぬのにとてもよい日だ。


 この老人が詩を書いたその日に死んでいったかどうかはわからない。しかし、「死」について書かれているのに、ここにはその逆の生の充実感がある、幸福感がある。彼はそんな幸福感に包まれて死へ向かっていったのに違いない。


年が改まる日に思い出すこと

 年が改まる正月は、これは年齢のせいというものだろう、先に逝ってしまった友人知己の思い出にふけることが多い。今朝は、鈴木常吉の歌がいくつも脳裡に浮かんできた。そして、彼と飲み歩いたいくつかの夜を思い出した。

 最初は、1999年の初冬だった。世田谷線の宮の坂で待ち合わせ、駅近くのスナック「月がでた」へ行った。松平維秋が晩年に通った店だ。

 ところが、店に入ってほんの十数分、「出ましょうや」と常ちゃんが言う。どこにでもありそうなごくありきたりのスナックの雰囲気がお気に召さなかったらしい。「松平さんがこんな店を好むわけがない」と言っていた。

 それから通りをふらふら歩いて、赤提灯を見つけた。初老の女性が一人で商っている焼き鳥屋。カウンターに腰をおろして、熱燗を1本また1本。すると、常ちゃんが小声で歌い出した。歌ははちみつぱいの「僕の倖せ」。泣いていた。


……そんなある夜のことを思い浮かべながら、壊れかけた耳に補聴器をさしこみ、僕はYouTubeで「アカヒゲ」のライブ映像を見る。


https://www.youtube.com/watch?v=5PJ4oYljf6I