耳の病のために音楽を聴いて楽しむことができなくなって、かれこれ2年。それでも音楽への執着心はあって、記憶を探っては過去の音楽体験、ライブ体験を想い起こしている。
そんな日々のなか、記憶の底からふっと甦ってきた1シーンがある。場所は東京池袋のバー。カウンターだけの小さな店だが、そのカウンターの中にギターを抱えた男が一人いる。ひがしのひとしだ。
最小スケールのライブと言っていいその夜のことが深く記憶に刻まれているのは、長い人生の中でも稀な不思議ライブだったからである。
何が不思議なのか。ひがしの君の態度と行動の問題だ。カウンター内のひがしの君の目の前のカウンター席には、若くはないが、すこぶる魅力的な女性がいた。すると、その女性の存在を意識したのだろう、ひがしの君は突然に猥談を始めた。その女性を含めて、会場にいた10数名の客は笑い転げた。猥談は、ひがしの君の「照れ」から生まれて来たものだとわかっていたからだ。
アルバム『水の記憶』が録音されていた2002年のことだったと思う。
『水の記憶』はかくして生まれた
ひがしのひとしの歌にはじめて接したのは、1997年、京都拾得恒例の七夕コンサートでだった。その年、レナード・コーエンのファースト・アルバムがCD化されることになった。オリジナルのアナログ盤のライナーノーツの筆者は僕。流用の依頼がきたが、断って新しく一文を書いた。できあがった盤には、三浦久さんによる訳詞が載っていた。数週間後、その三浦さんから手紙が来た。僕は長野県辰野町の三浦宅を訪問した。そこで七夕コンサートのことを知った、という成り行きである。
実際には娘を含めた家族で観に行ったのだが、吸いこまれた、ひがしのひとしの歌に。そのとき彼が何を歌ったのかは記憶にないが、聴き始めてすぐにブラッサンスの影響濃い歌だなと思った。後日、そのことを三浦さんにメールで伝えた。すると、三浦さんはそのことをひがしの君に伝えた。「プロの聴き手というのがいるんですねえ」と言ったそうな。
ひがしの君と親しくなったのはそういう経緯あってのことだが、実際に会うのは年に一度の七夕コンサートでだった。1998年の七コンのある場面が思い浮かぶ。僕は日頃可能であればライブはリハーサルから観させてもらうことにしていて、その日も開演前に拾得に入った。すると、会場の隅にいたひがしの君が駆け寄ってきた。そして僕に抱きつく。前年の一言がよほど嬉しかったらしい。
同じ夏だったか、ある日、渋谷にあった僕の事務所にオフノート・レーベルの主宰者神谷一義君がやってきた。上野茂都君を伴っていて、たまたま渋谷に来たのでご挨拶という次第だった。もうすぐ夜という時刻だったので、裏手にある中国料理店で食事となった。そのとき、僕はふとひがしの君が拾得のステージで放ったメッセージを思い出した。何かというと、彼は「これからCDを4作自主制作する」と高らかに宣言したのだ。
僕はそのことを神谷君に話した。神谷君は身を乗り出して、「ひがしのさんって、ブラッサンスの人ですよね。ブラッサンスの曲でアルバムを作れるといいな」と言った。そして後日、ひがしの君に連絡をとった。やがて、それは『水の記憶』の制作へとつながっていくことになる。
『水の記憶』は、2003年5月18日にリリースされた。売れ行きについては知らないが、アルバムとしての評価は高かった。僕自身、夢中になって聴いた、聴き惚れた。
それから9年を経た2014年5月14日の夜、家の電話が鳴った。出ると、七夕コンサートの仲間である歌い手、古川豪君だった。彼は言った、「ひがしのが死んだ、肺炎だ」僕は受話器を耳にあててただただ呆然とするばかりだった。












































