2026年1月7日水曜日

突然逝ったマシュマロ

 


 いまは西東京市だが、かつては保谷市に属していた東伏見という町がある。早稲田大学の運動部の練習場で知られる町で、地図を見ると、西武新宿線東伏見駅の南にキャンパスや野球場、サッカー場などの施設がいくつも広がっている。

 1960年代後半、それら早大の施設を抜けて南に下ったあたりに部族、すなわち日本のヒッピーと呼ばれた若者たちが群れをなして住み着いた二階建てのアパートがあった。「大きなくしゃみをすると崩れ落ちるんじゃないか」と住人が言うほどのぼろ家だったが、資本主義社会を拒否する価値観、人生観の持主が一所に集まって、小さいながらも一種のコンミューンをなしていた。

 二十歳を迎えた1967年の春〜冬、僕は毎週のようにそのコミューンでリーダー格となっているK夫婦を訪ねた。神保町のジャズ喫茶「響」の常連で日頃親しくしていたUさんがKさんと大学の同期生で、「おもしろい男だから一度行ってみなよ」と言われたのがきっかけだった。

 おもしろい男というのはまさにその通りで、Kさんは國學院大學文学部卒業という経歴の持ち主でありながら就職はせず、時折沖仲仕として港で働いて得るごく少額の報酬だけで生きていた。6畳一間の住まいには、家具らしきものはほとんどなし。衣類も最小限のものを着回すという生活ぶりだった。ヒンドゥー教に帰依していて、つまりは典型的なヒッピー風であった。

 そうして、そんな暮らしを続ける夫婦のもとに、ほぼ毎週、僕はせっせと食料を運んだのである。


不思議人間マシュマロとの出会いと別れ

 K夫婦の部屋には、僕と同じように食料や日用品を届けたりで頻繁に出入りする人間が何人もいた。その中に、59年が過ぎたいまも忘れられない男がひとりいる。名は正麿。姓は知らない。みんなは、「マシュマロ」と呼んでいた。

 職業は配送業。しかし、やや知恵遅れの障害者。だから、他人との会話はしばしばとんちんかんな問答になった。僕が岩波書店の辞典部に所属していることを知った彼が、こんなことを言ったことがある。「浜野さん、すごいね。辞典作ってるんだから、言葉を何でも知ってるんだ。世の中のことも全部わかってるんだ」

 「そうじゃないよ。あまり知らないから、辞典を作って勉強してるんだよ」とまぜっかえしたが、彼は笑うだけだった。

 そんな彼にも、他人が到底及ばない美質があった。手先の器用さだ。ある午後、K夫婦の部屋に入ると、マシュマロが先に来ていて、天井からつり下げられていた裸電球にふれながら何やら作業をしている。訊くと、「ゴミ捨て場に木枠と麦わら帽子が捨ててあってね。そいつを拾ってきて、いま電灯の傘を作ってるんだよ」

 作業はすぐに終わった。裸電球が裸電球ではなくなった。見事な傘ができていた。驚嘆した。


 マシュマロは名古屋のお寺の住職の子息だった。その年の歳末、マシュマロは実家に帰省した。

 明けて正月、K夫婦を訪ねると、二人のこわばった顔つきが目に入ってきた。Kさんが言った。「マシュマロが死んだ。ぽっくり病だ。寝入って、そのまま死んだらしい」

 ほどなく、コンミューンの住人たちが何人もK夫婦の部屋に集まった。灯籠流しをしようと、その場で決まった。マシュマロに見習うように作業が始まり、あっという間に燈籠がいくつもできあがった。



 みんなで部屋を出た。行く先は、近くを流れる石神井川。着くと、みんな目を閉じ、黙禱した。それから、燈籠を川に流す。いくつもの声が響いた。「マシュマローっ、帰って来い! いつか帰って来い!」

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