2026年1月28日水曜日

「望郷」から51年が過ぎた

 


 YouTubeで山崎ハコの『飛・び・ま・す』を聴く。かれこれ40年ぶりだろうか。冒頭「望郷」に吸いこまれた。


 アルバムのリリースは1975年。1970年代後半の数年は、「山崎ハコの時代」だった。小さな体を振り絞るようにして歌われる歌の数々が、時の若者たちの心に深く浸透した。その時28歳の僕もまた同様だった。なかんずく「望郷」に泣いた。

 「望郷」は、深夜放送から広まった。林美雄のパック・イン・ミュージック、通称みどりブタパック。その頃深夜放送を聴くことの多かった僕も、この番組で出合った。

 深夜放送の売り物の1つは聴取者からの投稿だったが、ある夜の投稿がいまも記憶にのこっている。「ぼくは『望郷』が嫌いだ。なのに、聴けば聴くほど泣けてくる」そういうアンビバレンスを招く歌だった。


地方から都会への流浪の時代

 山崎ハコは大分県日田市の出身。「望郷」でも日田で過ごした少女時代の思い出が歌われる。みどりブタパックだったろう、同郷の阿奈井文彦との対談があった。近頃はもっぱら「進撃の巨人」との関連で語られる町だが、複数の山脈に囲まれた盆地で、霧深い土地である。

 山崎・阿奈井対談でも霧の話が出た。山崎ハコが「ああ……」と深い溜息とともに万感の思いを吐露したのが思い出される。それはまさしく望郷の溜息だった。


 「望郷」の主題は、故郷を離れて来た都会の孤独である。

淋しくて悲しくて 出て来た横浜

やさしいと思っても みんな他人さ


 歌われているのは実体験で、山崎ハコは1973年4月、大分から横浜に出て来た。霧深い故郷から移り住んだ先は賑やかな都会だったが、しかし「他人の街」だった。

 時は少し遡るが、永山則夫のことが思い浮かぶ。永山は1965年3月、集団就職で青森県北津軽郡板柳町から東京に出た。しかし、慣れない都会生活の中で被害妄想にとりつかれて孤立する。そして1968年10〜11月、東京・京都・北海道・愛知で拳銃を用いて男性4人を射殺する。


 同時代、集団就職で都会に出たもう一人の存在が連想される。1960年、母親の郷里鹿児島で中学を卒業、大阪に出た森進一だ。大阪では最初に寿司店に勤めたが、人間関係になじめず1か月で退職。その後、17回も職を替えた。永山則夫同様、母子家庭で育った過去を持ち、人づきあいが不得手だった。

 森進一の歌声に見え隠れする深い孤独感は、そんな経験と内面に発したものか。


 1960〜70年代初頭は、多くの人々が流浪する時代だった。「望郷」は、その時代をしめくくる最後の響きだったのかもしれない。

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