ジャズ喫茶なるものにはじめて入ったのは、高校3年の冬のことだった。店は、有楽町スバル街にあった「ママ」。学生服というわけにはいかないので、一張羅の紺のブレザーを着て訪ねた。子どもは立入禁止の場所に入るような心地があって、えらく緊張した。おそるおそるドアを開けると、店の奥にあるカウンターに向かって座席が並んでいた。ベージュのカバーの椅子だった記憶がある。
その翌年に卒業就職してから二度目の訪店をした。そのとき目撃したことが、61年が過ぎたいまでも記憶に残っている。何事かというと、店の奥のカウンターの中に立つ店主が、1枚のレコードを手にして話し始めた。「こういうレコードはジャズを冒瀆するものです。今日限り聴けないよう、処分します」そう言って、店主は手にあるレコードにカッターで傷つけていった。オーネット・コールマンのレコードだった。
神保町にあった「響」を自分のジャズ・フランチャイズにしようと思い立ったのは、そのときのことだ。これを機に「ママ」にはおさらばした。
「響」のオーナーは、大木俊之助さんという。いかにも剣呑で傲慢な「ママ」の店主とは違って、明るく穏やかな方。BAR ground lineという店の吉田健吾さんが、こう書かれている。「昔から、とかく『気難しいマスターがいて、入りにくそう。』なんていう印象を持たれる『ジャズ喫茶』だが、(今はそんなことはないのかな?)『響』は、朗らかで気さくな感じのマスターがやられていて、店の雰囲気も、いわゆる『お聴きかせ』系のピリピリした感じはなく、会話もOK、学生の僕でも臆することなく通うことができる店だった。」(https://note.com/groundline/n/n66c61fa8cac9)
まさにそのとおりで、1965年4月、就職先のほど近くということもあって、はじめてお店に行った。優しい笑顔で迎えてくださった。
「響」で毎日ジャズの勉強
「響」は、神田神保町の交差点から白山通りを水道橋方向に進んで2本目の路地を右に入ったところにあった。モルタル造りの2階屋の1階。入口はジャズ喫茶では珍しい自動ドアで、入って突き当たりの壁面上部に国産ボックス入りJBL LE-8Tがセットしてあった。20㎝径のフルレンジ1本で、ツイーターはなし。いまならとてもジャズ喫茶向きのシステムではないが、当時は何も不満はなかった。
突き当たりは厨房だが、レコードをかけるスペースは店内の左手、中央あたり。そこに大木さんの姿があった。
日曜を除いてほぼ毎日通うようになったある日、僕はジャズを勉強しようと思い立ち、ノートを用意して店に入った。かけられているレコードは、レコード・スペースの一番前にジャケットが置かれる。その裏側を見て、曲名やパーソネルをメモしていくのだ。しばらくそれを続けていて、大木さんに気づかれた。笑われた。大木さんと親しく話をするようになったきっかけは、その時だったと思う。
大木さんは、ジャズだけの人ではなかった。というより、ジャズよりむしろタンゴを好んで聴かれているようだった。そのことを知ったのは、ある日、営業中にもかかわらず「一緒に行こうよ」と誘われて近くのタンゴ喫茶に出かけたときのことだった。店は、いまも神保町にある「ミロンガ」。
はじめて真剣に聴くタンゴ、アルゼンチン・タンゴはすこぶる魅力的だった。そのとき聴いたのは、フランシスコ・カナロだったか。空間をリズミカルに漂う響きに魅了された。やがて、僕はタンゴにいれあげ、フロリンド・サッソーネなどの来日公演に出かけることになる。会場では、必ず「ミロンガ」のママさんをはじめとするスタッフに出会った。
1971年、僕は会社を辞め、渋谷百軒店にオープンしたロック喫茶「BYG」のスタッフとなった。神保町及び「響」との別れの時だった。その後30年あまり神保町に行くことはあっても、「響」を訪ねることはなかった。そうするうちに、1993年の暮れ、「響」は30年続いた営業を閉じた。
時が過ぎて2003年頃、大木さんは湘南は鵠沼海岸の自宅を改造し、「日本一小さなジャズ喫茶、響庵」をオープンした。ここへは、僕は都合3回訪ねた。そのうち最後は2007年だったろうか、行くと「ちょっとつき合ってくれ」と家の外に連れ出され、一緒に江ノ島近くの料理店へ行った。大木さんはその少し前に胃癌の手術を受けていて、禁酒を申し渡された身だったが、旧知の僕の訪問をダシに一杯となったわけだった。熱燗のお銚子2本の酒だったが、嬉しそうにお猪口を口に運ぶ大木さんの表情が忘れられない。
やがて2023年3月、八王子から千葉に転居した僕は、その旨を大木さんにメール連絡した。しかし、まめに返信をくれた大木さんであったのに、反応はなかった。いまもって確証はないが、その頃、「もう人生のアディショナルタイムだから」が口癖だった大木さんは、試合終了のホイッスルとともに天に昇ったと思われる。


0 件のコメント:
コメントを投稿