2026年1月19日月曜日

『相倉久人の七〇年代ロック&ポップス教養講座』を復刻

 


 「書肆オルニス」と称して2025年3月からAmazonのkdpからの出版を試みているのだが、1月15日、都合5作目となる『相倉久人の七〇年代ロック&ポップス教養講座』を発行した。2007年に自分が企画編集、音楽出版社から発行したムックの復刻書籍化となる。

 相倉さんとの出会いと別れなど、いろいろな思いがつきまとう発行だった。


 著者の相倉久人さんとの出会いは1965年に遡る。場所は、銀座松屋裏にあったジャズ・スポット、「ジャズ・ギャラリー8」。「ジャズ・ギャラリー8」ではじめてジャズのライブを体験したのは石井毅クインテットだが、そのときではなく、後日富樫雅彦クヮルテットを聴いたときではないかと思う。前半のステージが終わって、司会を務めていた相倉さんが通路を下りてきた。そのとき、僕のほうから声をかけたのだった。

 そのときどんな話をしたのかは全く記憶にないが、にこやかに応対してくださったことははっきり覚えている。いつも笑顔を絶やさない、そういう人だった。


新宿ピットインができて以後

 親しくおつきあいするようになったのは、同じ1965年のクリスマス・イブ、新宿に新たなジャズ・スポット「ピットイン」ができてからである。この店で相倉さんは企画・出演交渉と司会を務めた。

 日本のジャズ・ミュージシャンとのつきあいが広く深い相倉さんがいてはじめて「ピットイン」のライブは成り立ったと言っていいと思うが、客席にいる一人にとって魅力だったのは、その軽妙な司会ぶりだった。

 いまでも忘れないのは、山下洋輔さん作曲の「クナトンナ」の紹介。「クナトンナはスペインの美しい港町です」と相倉さんは始め、港町の魅力を語っていく。と思うと、仕上げに「クナトンナを逆さまに読んでください」とオチをつけるのだ。これには笑わされた。



 「ピットイン」の隣は「イレブン」という喫茶店だった。1969年の半ば、相倉さんは「ピットイン」の仕事から撤退することとなり、その頃からもっぱら「イレブン」で夜を過ごすことが多くなった。その2年前に創刊した雑誌『ジャズ批評』の編集同人として席をともにすることが多くなっていた僕もまた、連日、「イレブン」に通うこととなった。

 だけではない。毎日、夕方5時前後に店に入り、8時頃まで相倉さんたちとだべって過ごすのだが、そのあと店を出ると、相倉さんとともに食事というのが決まりだった。食事は、あれから57年たったいまも営業を続けている末廣亭隣の「あずま」で。注文は毎度「ブタのジュージュー焼き」だった。


 一緒に食事をする習慣になったのは、その頃、相倉さんは十二社、僕は成子坂下とともに新宿住まいだったからだが、これにはおまけがついた。十二社の相倉さんのアパートには電話がない。一方、僕の部屋にはある。それで、相倉さんは、僕の部屋の電話を緊急時の連絡先と決めてしまったのである。

 実際はどんなことが起こったかというと、遅筆で名高い相倉さんは締切が過ぎてもいっこうに原稿が仕上がらないということがしばしばあった。すると、しびれを切らした雑誌の編集者は僕のところへ催促の電話をかけてくる。そうして、僕は部屋を飛び出して十二社に向けて走り、編集者になりかわって相倉さんに執筆の進み具合を確認するのだ。

 雑誌『現代の眼』からの電話があったときのことはいまも忘れない。息せき切って十二社に辿り着くと、相倉さんの部屋のドアをノックした。しかし、返事はない。仕方がないので勝手にドアを開けて入ると、6畳間の真ん中に置かれたコタツで原稿用紙に向かっている相倉さんがこっちを向いた。顔面は蒼白。いまにも泣きだしそうな悲壮な目つきをしていた。いま調べると、1969年の秋のことだ。


 1970年代に入ると、相倉さんはジャズを離れ、もっぱらロックの領域で執筆活動を展開することになるのだが、その発端となったエッセイ「ニュー・ロックに至る長い序章」(『ジャズ批評』1969年)は、僕が企画した。しかし、それとはうらはらに、相倉さんと会う機会はその頃から激減していった。僕自身も新宿を離れて、「ピットイン」の初代マネージャである酒井五郎さんが渋谷百軒店に創った「BYG」のスタッフとなったからだ。

 ムック『相倉久人の超ジャズ論集成』を作った2006年だったろうか、あの頃のことを相倉さんと話す機会があった。相倉さんはぼつりとつぶやくように言った。「ピットインの仕事を辞めたとき、何も仕事のあてがなくてね、餓死を覚悟したんだよ」


 2015年夏、相倉さんは胃癌で岸辺を越えた。

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