2026年1月21日水曜日

生活保護受給者として天に昇った「いとうくん」

 


 京都をフランチャイズとするフォーク&ブルーズ・シンガー豊田勇造に「いとうくん」という歌がある。こんな詞が歌われる。


東京に一人友達がいる

阿佐ヶ谷のアパートで暮らしている

生まれも育ちも東京江戸っ子だから

「東」と言ったつもりが「しがし」に聞こえる

どんな風に育ったかそれは知らない

でもイギリスに留学したことがあるらしい

帰りに寄ったインドで何かを見てしまい

髪を長くのばして帰ってきたという


阿佐ヶ谷北口の商店街で

古本屋をやってたことがあったね

夕方になったら誰かがやって来て

酒盛りの始まる店だった


 東京吉祥寺のライブハウス「マンダラ2」で年に数回開かれる豊田勇造ライブをはじめて観たのは1997年だが、その客席からひときわ甲高い声でやじを飛ばす男がいた。それがこの「いとうくん」だった。

 「いとうくん」の「いとう」は、伊藤。しかし、経歴などの詳細は知らない。名も忘れた。そこで、伊藤君と親しかったはずの陶芸家丸田秀三君に問い合わせた。下記の返答があった。


 お尋ねのイトウさんですが伊藤敬一さんです。早稲田の写真部で白谷達也さんや大塚努さん(共に朝日新聞)の後輩です。学生でありながら鶴巻町のビルに「Q-blick」という写真ギャラリーを開いていてそこで勇造さんのライブを開催したのがきっかけです。

 イギリスの写真学校にも留学していて英語も堪能。東京にはかっこいい人がいるもんだなあと田舎から出てきた僕は感嘆したものです。

 実家の商売(平林油店、ガソリンスタンドなども経営)が傾いた後、本人は校正の仕事を続けていて、そのうち知人が阿佐ヶ谷で開いていた古書店を引き継ぐ形で元我堂の主人となります。亡くなったのは2011年、震災の年でした。


 伊藤君に勇造ライブ開催の過去があったとはついぞ知らなかった。教えてくれた丸田君はかつて平塚市出縄でやはり勇造ライブ「満月」を主催している。そこに二人の共通点があったわけだが、それも含めて、親しくつき合っていたのにわれながら何も知らずにいたのだなあ、という思いが強くする。彼が飛ばすやじはたいてい英語風になまっていたが、「ヘイ、ハマノちゃん、いくら何でも知らなすぎるぜ」という一言が、天国から届いてきそうだ。


元我堂の変遷と伊藤君の死

 元我堂は阿佐ヶ谷駅北口の商店街にあった。店名はインドの大河「ガンガー(ガンジス)川」に由来する。豊田君の歌にあるように、伊藤君はインドで大きな精神的体験をした。それでこの名をつけたのだろう。

 店は神田神保町の古書店街にある店々とそう大きくは変わらない広さで、彼手持ちの本だけの開店時、書棚はががらがらだった。それで、豊田君が彼のファンクラブの会報「勇造通信」で寄贈を呼びかけた。それに応えた一人が僕で、150冊ほど送った。扉のない書棚にむきだしで並べていた本だから、古書店では買取をためらうだろうと思われる見た目だったが、かまわずそのまま送った。

 その数週間後、はじめて元我堂を訪ねた。びっくりした。送った本を棚から取り出して見ると、1冊1冊小口部分の汚れがきれいに拭き取られていて、さらに丁寧にパラフィン紙を巻いてある。一見ちゃらんぽらんに見える伊藤君の本質を知った気がした。


 豊田君の歌にあるとおり、元我堂は夕方になると酒盛りが始まる店でもあった。はじめて訪ねたその日もそうで、5時頃店に入り、よもやま話が一段落したところで、伊藤君は店を出、隣接する酒店で白ワインを調達してきた。店の奥の小上がりで乾杯。笑い声がはずんだ。

 知的だが格好はつけない、人あたりがよく気の優しい男だった。


 しかし、それから2年ほど後だったろうか、伊藤君はガンジス川のごとく滔々と流れ続けるはずの元我堂を他人にゆずった。理由は知らない。

 いまネットで検索をかけると、店を受け継いだ人に関する記事がひっかかる(http://www.omaken.com/umi-neko/2008/05/post-653.html)。それによると、新しく店主となったのは会社勤めが本職の「やすさん」と呼ばれる人で、週末だけ営業していたらしい。しかし、その新しくなった元我堂も、2008年に店じまいしている。


 後継元我堂が消滅してから3年後、もともとの創業者である伊藤敬一君もあの世に旅立った。癌だった。

 晩年、病のために働けなくなった彼は、生活保護を受けていた。生活保護受給者には葬儀について制限がある。葬儀は許されるが、通夜や告別式を含まない直葬形式にするのが一般的である。寂しい話だが、それが現実だ。

 そのことを知った仲間たちは、死後まもなくお別れの会を開いた。

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