2026年1月21日水曜日

「ん」から出たまこと、笹塚怪談

 


 「ん」の常連にいつも連れだって来る3人の若い女性があった。

 いずれも美人とは言いがたいが、元気で潑剌としていて、好感度満点の3人だった。そのうち1人とやがて僕は軽い恋に落ちるのだが、それはいずれの話としよう。


 いま書いておきたいのは、くだんの3人のうちの1人がある夜突然言い出した怪談のことだ。彼女は笹塚のアパートに住んでいて、その部屋に時折幽霊が現れるのだという。「トレンチコートを着た男性で、天井に浮かんで出てくるのよ」と言っていた。

 アパートのその部屋は、かつてギタリストの吉川忠英が住んでいた部屋だという。吉川忠英が部屋を引き払うと、次には歌手の吉田美奈子が入居した。そして、吉田美奈子のあとに入ったのが、彼女だったという次第だ。

 幽霊が何者かはわからないという。


 数日後、3人とともに僕はその部屋で寝泊まりしてみることにした。現地調査である。怪談話は好きではない。好きではないどころか、大嫌いと言っていい。当時、怪談イベントが行われるので有名だった六本木のトーフバー「一億」で体験したこともあるが、怖気をふるって身を固くするばかりだった。

 つまりは勇気を奮い起こし恐怖心を打ち払いながら笹塚のその部屋に入っていったわけだが、結果について言えば幽霊を見ることはできなかった。夜、3人と部屋に集まると、まずは酒盛りとなった。それが、1杯もう1杯とえんえんと続く。そのうちに、僕はダウン。見事に寝入ってしまったのである。お粗末。

 ちなみに、その深夜、幽霊は出た。しかし、幽霊を見たのは2人だけ。僕と軽い恋仲になる1人には、いくら目をこらしても幽霊の姿は見えなかったのだという。幽霊は人を選ぶのか。


「土佐」で知った美酒、司牡丹

 2階に「ん」が入った建物の左隣には、木造の平屋の店があった。土佐料理の「土佐」だ。暖簾をくぐって入ると、そこはコの字型のカウンター。その奧に8畳ほどの座敷がある小ぶりの店だった。立地条件の悪い店なのに、いつも混んでいた。首都圏に住む高知県人の憩いの場となっているようだった。

 「ん」に通い始めてしばらく経った頃、僕はその「土佐」にもしきりに出入りするようになった。幽霊を見損なった彼女とのデートである。彼女はなかなかの酒通で、とにかく旨い酒を出す店だから入ろうと誘われたのが最初だった。

 という次第で初体験した酒が「司牡丹」。これは本当に旨かった。どちらかというと日本酒は苦手だった僕がはじめて旨いと思った酒だ。



 「ん」と同じく「土佐」を経営するのは女性。都内のあちこちにある土佐料理の名店「祢保希(ねぼけ)」から独立したという経歴の人で、これまた美人とは言えないが愛嬌のある魅力的な人だった。話し上手で、客の心を巧みにつかむ。客商売の真髄がそこにあると感じられた。

 10年ほど前になるだろうか、そんな女将と司牡丹のことをふと思い出し、店のあった場所を訪ねたことがある。あたりは地上げで再開発されたらしく、新しいビルが目の前に立ちふさがるばかりだった。東京は砂漠だ。


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